現存12天守紀行回顧、弘前城天守に次いで、国宝松本城天守です。
松本城には、平成19年11月22日・23日に伺いました。
松本市の観光協会に車で伊予松山市から伺いますが、降雪は大丈夫でしょうか、夏タイヤで行きますがと、問い合わすとこの時期雪は降らないから、夏タイヤで大丈夫との由、翌24日朝起きてみると一面銀世界、雪が積もっていた。松本市は海抜590mある。
長野自動車道、松本ICから中央道小牧方向は除雪してあるから夏タイヤで大丈夫と連絡を受けホテルを出発したが、一般道の走行は積雪で苦労した。高速道は除雪してあり路面には雪は無く一安心、一路姫路城向けて出発した。
長野方面は、滑り止め「スノータイヤ&チエン装着でないと走行禁止でした」時は、平成19年11月24日でした。
さて、松本城天守は、国宝5城の一つで、5層の天守として現存するものは姫路城と松本城のみである。しかし、天守以外の建造物は廃城令により取り壊され現存してない。
天守の形式は、連結複合式で、層塔型5層6階である。「創建当時は望楼型であったが、層塔型にしたのは、寒さと強風を凌ぐためだといわれている。」この地は、海抜590mもある。
城郭は平城で、この時代として平城は珍しい。
天守の構成は、「大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳櫓・月見櫓」からなっている。
それでは画像で回顧してみます。
松本城入口には立派な「国宝松本城天守」と揮毫された石碑が建立されていた。
本丸から見た天守で、「右から:乾小天守・渡櫓・大天守・辰巳櫓・月見櫓」。
第3代将軍徳川家光の時代からは、改築・増築等々の許可は降りなかったが、松本城の辰巳櫓・月見櫓は、家光が松本藩に視察に来るに至り、お持て成しの場所として使う事を理由に特別の許可を得て増築されたといわれている。
画像は、北西側から見た天守で、赤い橋(埋橋)をいれた写真を皆さんよく撮られるのでご多分に漏れず撮った。
この方角から撮ると渡櫓が良く見える。
初期の天守は、望楼型であったが、寛永13年(1636)現在の層塔型となり辰巳櫓と月見櫓が増築され複合連結式天守となった。
画像は本丸から見た天守群。
天守群は、昭和4年(1929)に制定された「国宝保存法」に基づき、昭和11年4月20日国宝に指定され、昭和25年5月30日に制定された「文化財保護法」により、昭和27年3月29日再度国宝に指定された」。
現存12天守の国宝指定は、松本城天守・犬山城天守・彦根城天守・姫路城天守・松江城天守の5城である。
南面から見た松本城天守、月見櫓がよく見える。青空を背景に天守がよく映える。
大天守と乾小天守・渡櫓の結合部。
渡櫓から天守に入る、画像は天守最上階。
天守最上階から見た方向は西方向で、画像斜め上に開智学校がある。
開智学校で、開校は、明治6年5月6日で、明治4年廃藩置県により旧松本藩は松本県となり同年11月信濃国南半分と飛騨国を合わせた筑摩県が出来た。
明治5年欧米の学校制度を模範とした学制が公布され「武士も町人も同じ教育を受ける」事を奨励した。
そのため、全国に学校が設立されることになり、近代教育の第一歩が踏み出された。
筑摩県は国の政策よりも早くその重要性を唱え筑摩学を設立した。
筑摩県学は「第二大学区筑摩県管下第一中学区第一番小学 開智学校」と改称された。のちに長く親しまれる開智学校はじまりで、建築様式は東京大学の前身である開成学校などを参考にしたもので、和洋混交の擬洋風建築である。・・と開智学校の中に説明版があった。
昭和62年10月6日に愛媛県東宇和郡宇和町(現・西予市)の開明学校と姉妹校として提携している。
長野県の県庁を、長野市に置くか、松本市に置くか激論が交わされ、最後は県議会での投票で決定する事になり、一票差で長野市に決定、その代わりに日本銀行支店は松本市に、信州大学本部も松本市に置くことにしたとか・・開智学校を見学した時に説明を受けた。
天守内にある、松本城の沿革説明版。
天守内にある、松本城江戸中期の様子を書いた説明版。
松本城保存の功労者の説明版が設置してある。このような説明版は城巡りをしている者にとっては大変役に立つ資料です。
伊予松山城にはこのような説明版は設置されていない。
国宝松本城保存存続に尽力した、小林有也と市川量造のレリーフが建立されていた。
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