此処彼処見聞控-ここかしこみききのひかえ

興味の赴くままに見聞きするあれやこれやを綴ります。

昼下がりのモーツァルトに…ということ

2016-05-22 12:01:03 | 日記

昼下がりのモーツァルト。
エマニュエル・パユのフルートにヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを加えた四重奏、
ホールの外の暑さを忘れる演奏会を聴いてきたのですね。

パユのフルートは何度聴いても、そのひと肌感覚と言いましょうか、
息の量が多いような(かすかすという意味ではもちろんありませんが)、
その分息に含まれる水分が音に滲みわたっているような湿度感を感じさせるなと。

それは名人の手にかかる尺八のようでもあり、
高音になって鋭く耳を突いてくるようなところもない。
そのあたりが気に入っていて、演奏会があるのを見かけるとつい出かけてしまうのですな。

今回もそんなパユの音に触れるにはソロで用意された一曲、
武満徹の「エア」で十二分に堪能できたのですけれど、
今回のメインはフルート四重奏曲でありまして。

音符の並びからするととっても簡単そうで、
学校帰りに竪笛を吹きながら歩いているような小学生にも吹けてしまいそうな。
ですが、それでは音楽の膨らみにかけてもったいない。

折しも先日のNHK「クラシック音楽館」ではN響定期公演の後に
パーヴォ・ヤルヴィが指揮者の卵たちを指導するイベントが映し出されてたですが、
その課題になっていたのがモーツァルトの「ジュピター」。

まだまだ拍を刻むことで精一杯なのかもしれない指揮者の卵たちに、
通り一遍の音の流れを「音楽」へと変える導き手たることを伝えようと
ヤルヴィがあれこれ示唆しておりましたですね。

おそらくは竪笛好きの小学生でも
さらっと吹けてしまうかもしれないメロディーにどういう膨らみを持たせるのか、
ここら辺がモーツァルトのやさしく難しいところなのでしょう。

もちろんパユと「ベルリン・フィルの仲間たち」というアンサンブルの面々は
たっぷりと興趣を添えて奏でていたことは、言うまでもないですけれど。

ところで、演奏会プログラムの曲目解説を読んでいて、
「そうなんだ…」とこれまでの思い込みを払拭せねばならない一節が。

モーツァルトの音楽に「疾走する悲しみ」という言葉を与えたのは
小林秀雄だとばかり思っておりましたですが、違うのですな。
そして、曲としても交響曲第40番といった短調の曲を言っているのかと思えば、
これも違う。

出典は1932年にフランスの詩人アンリ・ゲオンが
「モーツァルトとの散歩」という本に書いたことを小林が紹介したのだと。
そして、ゲオンが爽快な悲しさとも言い代えられるものとして挙げたのが、
フルート四重奏曲第1番K.285の第1楽章であったのだというのですなあ。

曲の滑り出し早々に晴れやかな、爽やかな気分を感じていたところが、
同じ曲を聴いて爽快さの中にも悲しみを感じ取ることもできるとは。
そういう音楽の持つ一筋縄でないところを、モーツァルトを通じて
改めて思うのでありました。



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