此処彼処見聞控-ここかしこみききのひかえ

興味の赴くままに見聞きするあれやこれやを綴ります。

「生きる」とは生きているだけでないのかも…ということ

2016-05-31 12:01:01 | 日記

これまた黒沢明監督作品のお話。
先の「悪い奴ほどよく眠る」よりもむしろこちらを見たいとは、
昨年末ごろに東京・京橋の国立近代美術館フィルムセンターであった志村喬展に出かけて以来。
遅まきながらようやっとでありましたですが、堪能いたしました。

映画「生きる」の主人公・渡辺(志村喬)は市役所に勤めて課長となり、
あとは程無い定年まで勤め上げれば恩給を得て悠々自適になるはずであったのが、
どうも胃の調子が悪いと医者に掛かってみれば、「軽い胃潰瘍」「何を食べてもいい」てな見立て。

ところが待合室に居合わせた見知らぬ患者が問わず語りに渡辺に聞かせたところには、
「軽い胃潰瘍」で「何を食べてもいい」てなことを医者に言われるようだと
もう手の施しようがないのだと言うのですなあ。

診察室で聞かされた言葉が全く持っておんなじだものですから、もはや目の前まっくらの渡辺。
仕事が手に付かないどころか、役所を無断欠勤して、昼夜なく町を徘徊するばかり。
何もする気にならないとも言えますが、何をしていいのかが分からないといったふう。

ふいにかつての部下であった若い女性に出くわしたことから、
彼女に食事をごちそうしたり、映画を見せたりなんだりかんだりすることで
束の間の生きてる感を感じたりしておりましたが、
さすがに度重なっては「おいらくの恋なの?」とはねつけられる始末。

そも彼女が役所を辞めたのは役所の仕事があまりに単調であったからと知る渡辺ですが、
考えてみれば彼自身、ひたすら何事もなく単調に日々が過ぎていくように生きてきたことを
俄然恥じるようになるのですな。

残り少ない時間に自分にできることを考えてみたところ、
それまでは何度来られても担当をたらい回しにしてまともに取り合ってこなかった陳情、
その実現に向けて関連部署に日参し、平身低頭頼み込んで事を動かしていくことに。

成果としてはそれまでどろ沼のようになっていた場所に公園が造られて、
環境は改善され、子供たちは安心して遊べるようになったわけですが、
有名なブランコのシーンはその公園が完成間近、
つうことは自らの生は風前の灯状態という場面でありますなあ。

ひと仕事成し遂げて亡くなった渡辺の通夜の席上、
「あの公園は渡辺が造ったといった話もあるが、実際は議員も助役も動いたからこそ」てな
話が出てきたことに、断じて「渡辺さんが尽力したから」と応じる向きもあったですが、
やがて市役所の日常は否応無く過ぎていく中で、元の部署も課長がすげ替わった以外に
何も毎日は変わることなく、相も変わらず陳情はたらい回しになっていく。
先に渡辺の尽力を声高に言った職員もまた…。

たぶんに役所仕事を揶揄する側面はありますけれど、
それ以前に「人」であって、ましてやその「生き方」にどうよ?と迫ってくるものでありますね。

楽なのと大変なのとどちらがいいか。そりゃ、楽な方がいいに決まっている。
では、楽しいのとつまらないのとどちらがいいか。そりゃ、楽しい方がいいでしょうね。
ですが、楽だけどつまらないということが無いとはいえない。
逆に大変なんだけど楽しいんだよということもありますね。

その人その人の個性によって受け止め方が変わってきますので、
ある人にとってはたいへんなんだけど楽しいと思えることが、
別の人には楽しいとも言えるけど大変なんだよと思うことも、これまたある。

普遍化して一概にはどうとは言えない「生きがい」ですけれど、
とにもかくにもその「生きがい」さえ感じないままにいたとしたら、
それはそもそも生きているのか…てなことを、主人公の姿を通じて考えてしまうのでありますよ。

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おそらく自覚はしておらず…ということ

2016-05-30 12:01:19 | 日記

先日見た映画「悪い奴ほどよく眠る」で扱われていたような
「巨悪」と比べるのは「ものさしが違う!」ということにもなりますけれど、
もそっと卑近な話で考えてみれば日常的に他人に迷惑が及ぶなんつう出来事は
それこそ山のようにあるようで。

例えばですけれど、
カラスが集まってきてしまって周りが迷惑しているというのに餌やりをする人とか、
「ここはゴミ捨て場ではありません」という看板前に粗大ゴミを置いていく人とか。
通勤電車の中でのことなどまで挙げていったら、きりが無くなってしまうような。

とまれ、こうした細かく迷惑させられているってことも、
おそらくその震源地たる張本人には「全くもって自覚がない」という点では
何の憂いもなくよく眠れてしまうような巨悪の元凶と似たようなものではあるなあと
思うところでありますよ。

むしろ、迷惑を被っている側の方がともするとイライラが募って
夜も眠れなくなったりするといったことにもなっていようかと考えますと、
迷惑度合いは深まるような気もするですが、その元の人ことに関して
「あの人は何を考えてあんなこと、するんだろうね」とこぼしてみても、
「およそ何にも考えていない」ということに突き当たってします。
やっぱり、周囲に迷惑をかけているといった自覚がないのありましょう。

てなことを考えておったわけですが、通勤経路の路上、
住宅街へと入っている脇道の曲がり角に立て看板を見かけたのですね。

「迷惑駐車はやめよう」

住宅地となりますと道も狭くなりますから、
めったなところに路上駐車でもされると住民が通り抜けにも困るのでしょう。
そこで困った住民が依頼したのか、市役所、警察署連名による立て看板が立った、
とまあ、こういう経緯なのでしょうなあ、おそらくは。

それで迷惑駐車が無くなったのかどうか、
効果のほどは知る由もありませんけれど、先程来の考え方によったならば
迷惑駐車をやめてほしいと住民が思うようなところに路上駐車する輩は
本人的にはいささかも「迷惑駐車」だと自覚していない可能性がありますね。
つまり、効果はそれなりのような。

人間には(というと、多分に大袈裟ですけれど)
都合の悪いものに敢えて目を向けないといった傾向があるようにも。

場合によってその本能?は精神衛生上良い方向に作用するときもあるものの、
ともすると他人のことを慮ることが欠如してしまったりすることにも
繋がってしまうような。

そうした宜しくない作用の例が数々の迷惑行為というものとして
姿を現してしまうのでしょうね。
何とかそういう人たちには相手の立場に立って考えてみるという、
人間が身につけているであろう社会性の一端に気付いてほしいものですが…。

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「サンダーバード」も「ロミオとジュリエット」も…ということ

2016-05-29 12:01:03 | 日記

つい最近ですが「おお、かようなものが出ていたか?!」と思ったCDがありまして。
近年になって発見されたという作曲者オリジナルのスコアに従って
あの「サンダーバード」の音楽を再現したというものでありました。

少々前のTV朝日「題名のない音楽会」で吹奏楽特集だったかのときに
「サンダーバード」のテーマ曲が演奏されたのを聴いて、
「かっちょええな!」と妙にわくわく感を抱いていたものですから、
こうしたCDが発売されていることを知ったときには
それこそ即買いに及びかけたという。

ですが、いささか冷静になって試聴をしてみますと「?」と思うことに。
メロディは間違いなく、あの「サンダーバード」なんですが、「何か違う…」と。

まあ、考えてみれば当たり前でもあろうかと思いますのは、
オリジナル・スコアによる再現ではあってもオリジナル音源そのままでない…
ということでありましょうか。

さほどにマニアックな領域には踏み込んでおらないものですから、
どこがどうとは詳らかにできないものの、微妙な違和感があるといいますか。
それだけイメージとリンクした音楽にはなかなかに拭いきれない
残像のようなものがあるのだなとしみじみ思ったわけでありますよ。

ということで、このCDを購入するという考えは
いっとき色めきたちはしたですが、急速に鎮静化していった…
という話を長い前振りにして、読響の演奏会を聴いてきたというお話であります。

ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」、シベリウスのヴァイオリン協奏曲、
そしてプロコフィエフのバレエ音楽「ロミオとジュリエット」から抜粋の数曲、
これがプログラムでありましたけれど、ここで触れるのは最後の「ロミ・ジュリ」。

先ほど「イメージとリンクした音楽にはなかなかに拭いきれない残像が…」と
言いましたですが、「ロミオとジュリエット」と聞いて
プロコフィエフ以上に結びついてしまう音楽があるものですから、
どうしてもその世界と比べてしまうといいますか。

ちなみにそれはベルリオーズでもチャイコフスキーでもなくして、
実はニーノ・ロータ。1968年制作のイタリア映画版「ロミオとジュリエット」です。

シェイクスピアの戯曲の雰囲気に比しても
「甘い、甘いよ、甘すぎるよぉ」という気もするメロディですけれど、
とにもかくにもエバーグリーンになっとりますからねえ。

ですので、プロコフィエフの曲でバレエを実際に見て馴染んでいる人はともかく
単純に音楽として耳を傾けるとき、冒頭はSF映画か、中盤は冒険活劇か
といった気がしてしまうのでありますよ。

だからといってプロコフィエフの音楽がだめだとか詰らないとかではなくして、
それほどに出来あがった印象に入り込むのは難しいというわけでして。

ところで、今回の演奏会の目玉はむしろヴィクトリア・ムローヴァを迎えた
シベリウスのヴァイオリン・コンチェルトであったかも。

細身ながらも堂々たる風格、それでいて実に繊細で端正な音楽が流れてきたですが、
個人的にはそんな音色の故かアンコールで聴いたバッハの無伴奏の方が
「これ!」というツボに嵌るものであったような。
それだけでも聴いた甲斐があったなと思ったものでありました。

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悪い奴ほどよく眠れるとして…ということ

2016-05-28 12:01:04 | 日記

かなり唐突ですが、黒沢明監督の映画「悪い奴ほどよく眠る」を見たのですね。
この作品は初めて見ましたが、「力、入ってんなぁ!」という印象でしょうか。
三船敏郎の演技がなおその感を強くするわけですが…。

土地開発公団と建設会社の癒着、贈収賄はかなり根深いものがあるようで、
どこかしら綻びが生じそうになると、トカゲのしっぽ切りよろしく、
そそくさと下っ端を犠牲にしてうまく取り繕ってしまうようす。

ですので、なかなか悪事の全貌をつかめないところへ
これに敢然と立ち向かう人物(三船敏郎)が登場するんですが、
悪事に対抗するにはかなり危ない橋も渡らねばならず、
そのことは気付いてみれば、法律に照らすと犯罪になってしまうようなこともある。

一方で、金やら地位やら何やらが得られるといった本人の利得に重きをおいて、
そのための犠牲は仕方がない、あるいは全く気にかけないと考える者たちには
罪を犯しているという自覚が極めて薄い、もしくは全く自覚がないのかもしれない。

だもんですから、前者が講じた手段の犯罪性に思い悩むようなときでも、
後者は夜になれば何も考えずにのうのうと眠ることができる…ということで、
「悪い奴ほどよく眠る」なのですなあ。

で、この映画、最後の最後でありていに言って「悪」が勝ってしまうという。
ごくごく普通の映画であれば、波乱の展開という紆余曲折の後には
間違いなく「悪」が滅ぼされて「めでたし、めでたし」となりそうなものですが、
果敢に立ち向かった人物はあわれ交通事故を偽装されて葬り去られてしまうことに。

こうした「悪」が勝ち残ってしまうことの余韻は、
勧善懲悪めでたし、めでたしよりもむしろかなり大きいと言えましょうか。
そして、映画の中で電話の向こう側としか示されていない黒幕の存在は謎のまま。

松本清張が「日本の黒い霧」などで帝銀事件や下山事件などを取り上げて、
表立ってこない「巨悪」に切り込んでいったのがストレートな手法ならば、
こちらの方は具体的に実際の事件を取り上げていない分、普遍性があるといいますか。

もちろん「悪」がそこここにあっては困りますけれど、
現実の世界には大なり小なりの違いこそあれ、
うじゃうじゃしていることが示唆されてもいるようでありますね。

そうしたことに対抗する難しさもまた示唆されているものと思いますが、
だからといって「悪い奴ほどよく眠れる」状況が常に温存されてしまうとすれば
それはそれでおかしな話な。

地味な方法ながらもまずもって
変だなということには「変だね」と声に出すようなことが必要かもしれませんですね。

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赤穂浪士は謀られた?…ということ

2016-05-27 12:01:04 | 日記

赤穂浪士の仇討は「忠臣蔵」という芝居に仕立てられたことにもよって、
後世まで語り継がれ、今に至っていますですね。
何度もドラマ化され、映画化され、また関連本もちょいちょい出回っているようす。

 ですから、すでに話が分かっていても興味をかきたてられる場合もあり、
一方では「何番煎じ?」とがっかりさせられる場合もありではなかろうかと。

 個人的にはさほどに詳しい方ではありませんので、
時折触れる分には「ほお、そうかそうか」と思ったりするわけですが、
たまたま手にした「花の忠臣蔵」という一冊は「こう入ってくるか」という印象。
何せオランダ商館付の医師であったドイツ人ケンペルの視線で語り起こすのですから。
まずはその時代を映し出そうというのでありますな。

元禄の頃の播州赤穂は小藩ながら裕福な状況であったようですね。
今でも赤穂の塩といえば夙に知られた物産品であって、
塩はとにかく人には必要不可欠なものでありますし。

 一方で、幕府の財政は必ずしもうまく行っていない。
後に8代将軍吉宗が享保の改革に乗り出す前にも状況は芳しくなく、
にもかかわらず幕府が取った方策は通貨の改鋳(改悪)であって、
手元の金があたかも増えたかのように見せかけただけのようでもある。
そんな時期の5代将軍綱吉はかなりお金を使ったようで。

 このような背景を示されてしまいますと、
藩主浅野内匠頭長矩があっという間に切腹させられ、
望みを掛けていたお家の存続の道も断たれて…というシナリオは、
赤穂の塩による上がりを幕府が横取りしたいがための出来試合なのではと思ったり。

 しかも塩絡みの話で言えば(この部分は本書由来の内容ではありませんけれど)
仇役となる吉良上野介の所領でも塩を生産していたそうな。
元来、吉良の塩が将軍家でも使われていたところへ赤穂の塩が進出してきたことは
吉良上野介曰く「浅野殿に恨まれる筋はござらん」としても、
吉良の方が浅野家を憎憎しく感じていて、老獪な分だけ行動を起こしてしまうのは
若い浅野内匠頭であった…てなことにもなるような気がしないでもない。

 そうした吉良対浅野の塩対決を遠くから眺めて何気なく煽り、
将軍家に都合のいいようになるのを眺めていたのかもですなえ、柳沢吉保あたりが…。

 藩主を片付けた後には浅野家だけを処分すれば、
あとは猛り立った連中が勝手に吉良を片付けてくれるてなことも折込済みだったりして。

 猛り立った組の急先鋒は堀部安兵衛らだったようですけれど、
お家の存続を第一に考えた大石内蔵助もそれが叶わぬとなったときには
もはや武闘派を押さえることあたわず、「いざ討ち入り」となっていったとも。

 ですが「喧嘩両成敗」的なバランスある裁定から離れたお上の仕打ちは、
結果的に成就する赤穂浪士の仇討を判官贔屓的に持ち上げる風潮が庶民にはあり、
義挙として伝えられていく素地を作ってしまったのやもしれませんですね。

 お上の手前、時代背景を南北朝期に移した「仮名手本忠臣蔵」でも
浅野内匠頭に相当する役どころを「塩冶判官」としたのも、
判官贔屓の世論を意識したものかもしれませんし、
これは書いていて思いついたですが、その名に「塩」の字が見られるのも
偶然ではないような…。

 とまあ、興味深く本書を読んだ一方で、ここにあれこれ書きましたのは
必ずしも本書の内容に沿ったことばかりではありませんのでどうぞ御容赦を。

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オペラを見ようか聴こうか…ということ

2016-05-26 12:01:04 | 日記

METライブで今度はドニゼッティの「ロベルト・デヴェリュー」を見てきました。どうも音的には「デヴェルー」とか「デヴルー」とかのが適当なような気もしますが、それはともかく、以前やはりMETライブで「マリア・ストゥアルダ」を見、大層感じ入ったものですから(と、単にジョイス・ディドナートがお気に入りなだけかも)ドニゼッティの英国ものとあって出かけたわけでありますよ。

 

 

ドニゼッティは英国を舞台にしたオペラをいくつか書いているようですけれど、舞台が英国でありながらも(やむを得ないことながら)タイトルから役名から全てイタリア語にで示されておりますね。なかなかに掴みにくいというか。

 

だいたい「マリア・ストゥアルダ」もメアリ・スチュアートと言われればイメージできますし、見逃した「アンナ・ボレーナ」がアン・ブーリンのことであったとは思いもよらず…。

 

で、今回の「ロベルト・デヴェリュー」もエセックス伯ロバートがタイトルロールということになるものの、英国女王エリザベス1世の寵臣(要するに愛人か…)であった人物となればどうしたってエリザベス1世のお話ということにもなっていこうかと。

 

当時の英国はいまだ後進国の状況であったところが、エリザベスの時代にアルマダ海戦(1588年)でスペイン無敵艦隊を撃破し、一躍(内実はそれほど勇ましいものではなかったようですが)存在感を増すことに。

 

また「マリア・ストゥアルダ」にも描かれたスコットランドとの問題などもあって、背景はまさに激動の時代なだけに、波乱万丈の物語…となっても不思議のないところかと。

 

ですが、この「ロベルト・デヴェリュー」でのお話と言いますのが、もっぱらに痴情のもつれに終始するのですなあ。

 

エリザベッタ(エリザベス)はロベルトを寵愛する。ロベルトは今では友人の妻となっているサラを恋慕する。サラはエリザベスの侍女であって、エリザベスの心情を常に聞かされている。サラの夫であるノッティンガム公はロベルトの親友である。

 

この中でひたすら疑心暗鬼に苛まれるのはエリザベッタであって、この役を演じたソンドラ・ラドヴァノフスキーも幕間のインタビューでこんなことを言ってたですね。「(全体の)90%は怒っている」と(笑)。

 

まあ、見る側の受け止め方には個人差がありましょうけれど、「いかようにも描けよう話をこの要素だけでまとめてしまうのか…」と思ったのでありまして。

 

ですが、メトロポリタン歌劇場を埋め尽くした観客はやんやの喝采なのですな。これはもう見るところ(聴きどころか?)が違うとしか言いようがないわけです。

 

オペラを見ると言っても聴くこととはセットですし、むしろ聴くことの方こそ比重が高いということでもあろうかと。それがベルカント・オペラともなれば、お目当ては歌唱そのものであって、それをこそ楽しみに劇場へ足を運んでいるのでもありましょう。

 

そんなふうに言わばストーリーは二の次にしても「ぶらぁぼ!」と喝采を送るのがほとんどの観客であったとして、個人的にはやっぱりストーリーが気になる。

 

まあ、この辺りが「オペラを見ようか聴こうか…」と言った理由でもあるわけですが、先日の「蝶々夫人」とは別の意味で「悩ましい…」と思ってしまったのでありました。

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広重は東海道をあれこれ描いて…ということ

2016-05-25 12:01:06 | 日記

東京・原宿の太田記念美術館。
表参道の喧騒からすこぉし路地を入っただけで、落ち着いた空間になりますね。
ここで開催中の歌川広重展を見てきたのでありますよ。

広重と言えば何はともあれ「東海道五十三次」でありましょう。
浮世絵に関心が無くとも、その内の何枚かはどこかしらで見たような…という
作品ではなかろうかと。

これはひとえに永谷園の「お茶づけ海苔」によって培われたものではないですかね。
おまけとして広重の「東海道五十三次」を描いた絵柄のカードが封入されていて、
当たりが出るんだか、何枚か集めるんだかすると、ひと揃えワンセットがもらえる…
と、こういう仕組みがあったように思うのでして。

とまれ、ここでもらえる「東海道五十三次」というのが「保永堂版」というもので、
とにかく知られた絵柄がたくさん含まれた一番人気のシリーズですけれど、
広重はこれ以外にも東海道まつわる絵柄を度々描いているという。

それぞれのシリーズに特徴的なところから「狂歌東海道」、「行書東海道」、
「隷書東海道」、「美人東海道」、「人物東海道」てな呼び方がされているそうな。
このほどの展覧会にも僅かながら展示されていたですが、
呼び方と考え合わせて「いろいろだねぇ」と思いましたですよ。

また、有名な「保永堂版」にも異版があったのですなあ。
例えば、先日の「ブラタモリ」でも取り上げられていた神奈川宿は
海沿いの狭まった急坂に数々の店がへばりつくように建っていますけれど、
初刻版では店々の屋根が鋭角に近く、道の急坂ぶりを際立たせているかのよう。

ですがこれにはいささか誇張が過ぎたと考えたのか、
再刻版では屋根が軒並み鈍角になって穏やかな表情を見せているのですね。
さりながら、雲の描き方が工夫されて、家並みがそのまま空にまで昇っていくかのよう。

初刻版に「これはいくらなんでもしんどそうに見える…」といった
版元あたりのひと言があったのかもと想像するのも楽しいことですよね。

浮世絵の風景画では北斎と広重にスポットライトが当てられることが多いですが、
北斎のダイナミズムには目を瞠る反面、いささか風景としては近寄りがたいふう。
引き換え広重の方はもそっと身近な親しみやすさがあるような気がするわけで、
数々の東海道シリーズも「ほお!」と関心させられるよりも
見れば見るほどに発見があって面白いなあといったところかと。

ちなみに広重にも「冨士三十六景」というシリーズがあって、
これも今回展で取り上げられていたわけですけれど、
フライヤーに見られる「駿河薩夕之海上」では北斎を意識してる気がしてくるものの、
こちらの「武蔵小金井」という一枚ではどうでしょうか。

「名所江戸百」などでもお目にかかれる奇抜なというか、
遊び心の感じられる構図にはつい見る側もにやりとしてしまうところでして。

そうそう、広重といえば「青」がきれいですよねえ。
これはインディゴ(藍)を用いたもので、インディゴ・ブルーと言われるそうですが、
海外ではラピスラズリをして「フェルメール・ブルー」といわれるように、
インディゴの方は「ヒロシゲ・ブルー」と言われているのだとWikipediaで見かけ、
「へえ~!」と思ったのでありました。

先に「見れば見るほど発見が…」と言いましたけれど、
ちょうどNHK「趣味どきっ!」の火曜シリーズ「旅したい!おいしい浮世絵」で
あれこれ浮世絵の中に描かれた「食」が取り上げられていて、これの受け売りかも。
広重の絵には各地の名物がさらり描き込まれていますものね。

広重の絵によって東海道の旅が楽しくなるようでもあり、
人の往来、ひいては物流なんかにも寄与する側面があったりしたかもと
思うところでありますよ。

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子供のおもちゃと侮るなかれ?…ということ

2016-05-24 12:01:05 | 日記

子供の頃から好きだったのかもしれませんし、
はたまた大人になってからふいに面白さに目覚めるということもありましょう。
「大の大人が…」と周囲の(その面白さが分からない)人たちから呆れられても、
「好きなものは好き」というしかない…てなこともありましょう。
具体的に例えばですが、ミニカーが大好き、けんだまが大好きみたいな。

そうしたものの中に「レゴ」なんかも入るかもしれませんですね。
言わずと知れたデンマークのブロック玩具ですが、
デンマークのもので日本にいちばん根付いている品物なのではなかろうかと。

個人的には子供の頃に買い与えられたのがたまたまにもせよ、
河田(現カワダ)のダイヤブロックでしたので、これ一筋。

基本的なブロックがレゴよりも厚み(高さ)がある分、無骨な印象で
そのだけにレゴがいささかスタイリッシュにも見えてしまうところがあって、
いささかお高く留まっているようにも思われ、「ケッ!」と思っておりました。

子供の頃にはかなり入れ込んで、いろんなものをブロックで組み立てましたですが、
いつの間にかごく普通な成長過程の中で手に取ることもなくなり、現在に至る。

ですが、そうしたブロック離れを経験するどころか、
益々大人なりの技巧を凝らしてブロックを組み立てることに喜びを見い出す方々も
いるのですなあ。自分にその感覚はありませんけれど、分からなくはない。

あたかも鉄道模型ファンがジオラマを大きく展開するのと同様に、
自らの世界観を反映した町をブロックで作り出したりすることもあろうと思いますが、
そうしたものを作り出す人たちにおそらく共通にあるのではと思うのが
「他人に勝手にいじられたくない」ということではないかと。

自分が作り出した世界を見下ろすにおいては、
(ちと語弊があるやもですが)その世界に対して自らは「神」に等しき存在。
その立場を危うくするようなことをされるなどとは考えたくもないことでありましょう。
それが配偶者であろうが、子供であろうが関係なしでしょうなあ。

ですが、配偶者はおそらく「呆れ」の境地に到達すること必至ながら、
子供としては「おもちゃは子供のもの」と思っていますから、そう単純にはいかない。
「いじりたい、さわりたい、遊びたい」ということになりますね。

それを許容するとすれば、子供と遊ぶ良い親となるかもしれませんですが、
配偶者に呆れられ、子供に羨望を抱かせるようなブロック世界を作り上げる人物に
そうした感覚が具わっていると考えるのは苦しいところでありますね。

と、すっかりネタばれさせてしまってますが、
「LEGOムービー」はそうした親と子の葛藤をブロック世界に仮託して
戦闘を展開したものと言えましょうか。

映画では、その後は親子で仲良く遊び出すようなところで
ハッピーエンドを醸しているわけですけれど、何せ親にも子にもそれぞれに
「こうしたい!」という世界観がありましょうから、おそらく映画の幕切れの先には、
再度の戦闘(ごっこ)があるような…(お父さん役がウィル・フェレルですし)。
ま、人には「どうしても譲れない」てなところもありましょうしね。

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「23区格差」を読んでみたものの…ということ

2016-05-23 12:01:01 | 日記

なんとはなしに手にとった本は中公新書ラクレの一冊「23区格差」というもの。
長らく東京に住んであちらこちらを見て回る中では、区ごとに個性と言いますか、
何かしらほの感じるものが無しとはいえず…てなことで読んでみたわけですが、
個人的にはあまり好感の持てる話ではなかったなあと。

だいたいカバー写真でご覧になれますように
「港区904万円、足立区323万円」と大書されているのは所得水準(年収)で、
「年収・学歴・職業が非凡な区、平凡な区は?」とか、
「大卒は中心部、高卒は東部に集中?」、「あなたの区は何クラス?」とか、
そんなような惹句には「それが何か…?」と思うところでして。

だったら何故に手にとった?となるやもしれませんけれど、
図書館で借りたときにはかような言葉の踊る帯は外されておりますものですから。

さまざまな統計を用いて「なるほど…」と思えることもありますけれど、
東京で住む場所を間違えないようにするための案内的なところは、
個々人が何を求めるかによって、どこを良しとするはまちまちとしながらも、
どうも作者目線というのが感じられてしまう。

まあ、それが個人的には合わないなと思ったということでありまして、
内容に深く立ち入るよりは「そうなの?」と思ったことだけ触れてみますか。

まずは何より、これまで気が付かなかったのは不思議なくらいですが、
「荒川区は荒川に面していない」ということ。

ご覧のように荒川区のへりは隅田川であって、
その向こう側にある足立区が荒川と接しておりますね。
にも関わらず、荒川区がそういう名前になっているのは、
考えてみれば思い当たる節があるわけでして。

ご存知の方も多いでしょうけれど、今の地図で荒川とされる川は
大正から昭和の初期に掛けて人の手で掘られた放水路(人工の川)であって、
それ以前には存在せず、隅田川と一般に呼ばれている川が荒川の下流域、
つまりは荒川そのものであったのですね。

ですから、今となっては隅田川に沿っているのに荒川区とは?
とも思えるところながら、実は何の不思議もないということになるという。
にも関わらず、「そうなの?」と考えてしまったのは、
荒川区が今現在、荒川(放水路)に面していないと認識がなかったのですなあ。

こうしたことは(本書にも出てきたりしますが)、
品川駅は品川区でなくて港区にあるとか、目黒駅は目黒区でなくて品川区にあるとか
いうあたりと似たようなものかもしれませんですね。

また、全く別の話になりますけれど、「サザエさん」の家のことにも少々。
2世帯7人が暮らすという点で大きな家だろうという想像はできることながら、
本書に曰く「物好きな人が計算したところによると、敷地は93坪」なのだとか。

一坪が畳2畳分とすれば186畳分の敷地、
つまり6畳間なら31部屋分となるのですから、これは広いですよね。
もちろんサザエさんの家には庭がありますので敷地全体が家でないにしても、
東京では邸宅の部類に入ってしまうのではなかろうかと。

ですが、父親の波平はいわゆる普通のサラリーマンに思われます。
もしかすると、物語の背景として先祖が大身で伝来の土地かと思えば、
Wikipediaによれば波平の転勤で博多から東京に引っ越してきたという
単なる転勤族とのことですから、相続で受け継いだということでもなさそう。

漠然と「広いな」と思っていたものが、
実際にそういう広さなのだと聞かされて「そうなの?」と思ったですよ。
…とまあ、なんだかどうでもいい話に終始してしまいましたですね…。

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昼下がりのモーツァルトに…ということ

2016-05-22 12:01:03 | 日記

昼下がりのモーツァルト。
エマニュエル・パユのフルートにヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを加えた四重奏、
ホールの外の暑さを忘れる演奏会を聴いてきたのですね。

パユのフルートは何度聴いても、そのひと肌感覚と言いましょうか、
息の量が多いような(かすかすという意味ではもちろんありませんが)、
その分息に含まれる水分が音に滲みわたっているような湿度感を感じさせるなと。

それは名人の手にかかる尺八のようでもあり、
高音になって鋭く耳を突いてくるようなところもない。
そのあたりが気に入っていて、演奏会があるのを見かけるとつい出かけてしまうのですな。

今回もそんなパユの音に触れるにはソロで用意された一曲、
武満徹の「エア」で十二分に堪能できたのですけれど、
今回のメインはフルート四重奏曲でありまして。

音符の並びからするととっても簡単そうで、
学校帰りに竪笛を吹きながら歩いているような小学生にも吹けてしまいそうな。
ですが、それでは音楽の膨らみにかけてもったいない。

折しも先日のNHK「クラシック音楽館」ではN響定期公演の後に
パーヴォ・ヤルヴィが指揮者の卵たちを指導するイベントが映し出されてたですが、
その課題になっていたのがモーツァルトの「ジュピター」。

まだまだ拍を刻むことで精一杯なのかもしれない指揮者の卵たちに、
通り一遍の音の流れを「音楽」へと変える導き手たることを伝えようと
ヤルヴィがあれこれ示唆しておりましたですね。

おそらくは竪笛好きの小学生でも
さらっと吹けてしまうかもしれないメロディーにどういう膨らみを持たせるのか、
ここら辺がモーツァルトのやさしく難しいところなのでしょう。

もちろんパユと「ベルリン・フィルの仲間たち」というアンサンブルの面々は
たっぷりと興趣を添えて奏でていたことは、言うまでもないですけれど。

ところで、演奏会プログラムの曲目解説を読んでいて、
「そうなんだ…」とこれまでの思い込みを払拭せねばならない一節が。

モーツァルトの音楽に「疾走する悲しみ」という言葉を与えたのは
小林秀雄だとばかり思っておりましたですが、違うのですな。
そして、曲としても交響曲第40番といった短調の曲を言っているのかと思えば、
これも違う。

出典は1932年にフランスの詩人アンリ・ゲオンが
「モーツァルトとの散歩」という本に書いたことを小林が紹介したのだと。
そして、ゲオンが爽快な悲しさとも言い代えられるものとして挙げたのが、
フルート四重奏曲第1番K.285の第1楽章であったのだというのですなあ。

曲の滑り出し早々に晴れやかな、爽やかな気分を感じていたところが、
同じ曲を聴いて爽快さの中にも悲しみを感じ取ることもできるとは。
そういう音楽の持つ一筋縄でないところを、モーツァルトを通じて
改めて思うのでありました。

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そこが頑張りどころとも思われず…ということ

2016-05-21 12:01:01 | 日記

毎日の通勤で通っている道筋の、出勤時はシャッターの降りているラーメン屋。
たまたま昼前に通りかかってみますと、シャッターは上がっているも開店前で、
店先にはこんな言葉の書かれた札が掛けられてありました。

  「がんばって仕込み中」

ことあるごとに言葉の使われ方に関してぴくんと反応してしまう方なのですが、
この時にも「?!」と思ってしまったのでありますね。「違和感あり!」と。
要は「がんばる」の使いようという部分でありまして、
「仕込みって、がんばってやるものかぁ?」というわけです。

思い込みかとも考えて、念のため「goo辞書」で「頑張る」を引いてみますと
「困難にめげないで我慢してやり抜く」という語釈が第一に出てくるのでして。

普段から「がんばる」「がんばれ」「がんばって」「がんばりなさい」と、
声を掛けられたり、自らが言ったりして使い機会の多い言葉かと思いますが、
その頻度が多いが故にでしょうか、安直に使われやすい傾向ともなろうかと。

先に辞書に当たってみましたように、本来の意味としては
「困難があってそれにもめげない」「我慢しなければならないことも我慢する」
てな含意があって「頑張る」ことになるわけです。

とすれば、大変に失礼ながらラーメン屋の仕込みには
めげないようにしなきゃならない困難やら我慢やらがあるのだろうかな?と。

個人的にはラーメン屋の仕込みとやらに携わったことがありませんので、
実際には多大なる困難や我慢が必要な仕事なのかもしれませんけれど、
逆に、もしそうだとしてその困難やら我慢を乗り越えて(つまりは頑張って)
仕込みをしているということをアピールすることになってませんですかね。

「がんばって仕込み中」の札を見て抱いた違和感はそうしたところにあって、
「苦しいのを我慢して仕込みしてるけんね」と言われているような
気がしたからなのでありますよ。何とも押し付けがましいというか…。

当然に中で仕込みをしている方々は「がんばって仕込み中」の札が
客を迎える準備をはりきってやってますよと伝えたいはずですし、
そう伝わるものと信じて札を出しているわけですね。

だとすれば「はりきって仕込み中」がストレートなのではと思いますが、
ちょっと言葉の使いよう、ニュアンスに気を遣ってみれば
おかしな勘繰りを招かずに済むだろうにと。

とかく言葉が安直に使われやすくなっておりますですねえ。
と、こうした話をするときには「翻って自分の言葉遣いはどうよ?」
ということにもなりますけれど、そこはそれ、棚上げということで(笑)。

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「日々の光」に教えられる…ということ

2016-05-20 12:01:02 | 日記

1941年12月8日(現地時間では前日7日ということになりますが)、
日本はハワイのパールハーバーに猛攻をかけ、太平洋戦争が始まることに。

この真珠湾攻撃の話であるとか、その後の戦闘のことであるとかは
戦史として記され、映画などにもなって知られることの多いところでしょうけれど、
米本土ではないにしても、米国領が直接的に攻撃に曝されたことを受けて、
米国のいわゆる普通の人々の反応がどうであったかとは
あまり知られるところではないような。

米本土としてはもっとも日本に近い西海岸のシアトルでは、
在米日本人はもとより市民権を持つ日系人に至るまで
たちまちにして敵愾心に燃える眼差しに曝されるようになり、
日本人・日系人は内陸の奥まった砂漠地帯に設けられたキャンプに送られることに。

あたかも捕虜収容所でもあろうかと思しき過酷な待遇含めて、
この辺りのこともあまり知られることではないように思われます。

時代背景、舞台を日米開戦前後のシアトルに置いて、
こうした知られていない史実を語り起こしの部分としているのが
小説「日々の光」でありました。

作者のジェイ・ルービンは漱石作品など日本の小説を英訳している研究者でもあって、
日本の文化や習俗などにも大変に詳しいようす。

だからこそですけれど、激動の時代背景はそれだけでドラマティックであるものの、
日米の、というより日本とキリスト教社会の宗教観の違いも織り込んで、
深まりある物語が紡ぎ出されているのでありますよ。

いろいろなことを考えてしまう材料はぎっしりですが、
ここではひとつインパクトが強いと思ったひと言を取り上げてみようかと。
まずはそこに繋がるような部分だけ掻い摘んでストーリーを追っておきます。

開戦前夜の不穏な時期なだけに
周囲からは先行きを不安視する眼差しを投げかけられながらも
結婚することを選択した米国人トムと日本人ミツコ。

程なくして二人の心は全く通い合うことが無くなっていきますが、
トムの先妻の子ビリーはミツコを慕い、トムが全く息子を構わないこともあり、
ミツコはビリーを連れ立って収容キャンプでの日々を過ごすことに。

やがてミツコは日本に戻り消息不明となりますけれど、
戦後に至り成長したビリーはミツコとの再会を果たすべく日本へとやってくる。

僅かな手掛かりから探り当てたところによれば、
ミツコはどうやら家族共々、長崎で落とされた原爆で生死不明。
おそらく生きておるまいと。

これを知ったときにビリーは憤りをこんなふうに表現するのですね。
アメリカは原爆がひき起こす凄惨さを広島で知っていながら、長崎に落とした。
その犠牲になるとは…。

本来的にも適切な見方ではなかったのでしょうけれど、
とかく広島と長崎への原爆投下を一連のものとして見てしまいがちのような。
「広島、長崎繰り返すまじ」と。

ですが、実際には広島に原爆を投下した結果がどういうものであったかを
米軍はもとより米国政府も知りながら長崎にも使用したことに
鈍感であってはいけないのかもしれませんですね。
しかも、そのことをアメリカの作家に教えられようとは…。

先に「いろいろ考える材料はぎっしり」といったことを言いましたけれど、
読むことに意味のある小説であったと思う由縁の一端は
このようなところにもあったのでありますよ。

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「雪女」の生まれ故郷は…ということ

2016-05-19 12:01:05 | 日記

先日、青梅で昭和レトロ商品博物館を訪ねた折のことですが、
2階に上がってみるとずいぶんと趣きが変わっていて、
どうやら「雪女」のコーナーでもあるようすに「いったい何ぞ?」と。

何でも小泉八雲の「怪談」に収められた「雪女」は、
今の東京都青梅市に含まれるエリアに伝わる伝説を下敷きしているのだそうな。

先に見た展示解説によりますれば、
「怪談」の序文から「調布村」に伝わる話だと知れるそうですけれど、
小泉八雲が「怪談」を書いた明治35~37年(1902~04年)頃、
青梅市の一部は西多摩郡調布村と呼ばれていたとのこと。

そして、同じ頃に小泉家は市ヶ谷から大久保への転居するにあたって、
書斎の新築のために大工仕事ができる者を雇うことになるのですが、
これが西多摩郡調布村の出身者であり、この使用人が「雪女」の言い伝えを
八雲の妻せつに語り、それが八雲へと伝わって作品化されていったのだとか。

しかしまあ「雪女」と聞けば、山深い豪雪地帯が浮かぶところながら、
だいたい青梅とはさほどに雪深い場所であったのかとピンとこないような。
されどやはり展示解説には、約300年ほど前の近在の名主が書いた記録を引いて
「青梅でも今では考えられない量の雪が、当時は降ったという記録が多くみられる」
としておりました。

そこで思い出したのが、浮世絵などに見られる江戸市中の雪景色。
何でも当時は「小氷期」というものに当たっていて、
忠臣蔵でも桜田門外の変でも…ではありませんが、江戸市中での雪も
今より多かったとなれば、青梅においてをやでありますね。

ちなみに「小氷期」をWikipediaで引いておきますと、
「ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間のこと」
なのだそうですよ。

てなことで「雪女」の出自が判明したところで、
(根が怖がりだものですからどうしよかなとひとしきり悩んだ末に)
この際ですから「雪女」を読んでみようかと。

どんなおどろおどろしい話であろうかと、
冷や冷やしながら(雪女だけに?笑)読んでいったですが、
これがいささかも案ずるには及ばない内容ではありませんか。

要するに怖くない。むしろ八雲の生い立ちを考え合わせれば、
おそらく話の締め括り方というのは独自の脚色であったのではないかと。
(本当の伝説はもそっと怖い話だったのかも…)

幼くして母に去られ、父は息子を顧みず、大叔母のもとで育った八雲、
というよりラフカディオ・ハーンは母には思慕を抱く反面、
父には恨みを覚えていたようなのですね。

「雪女」の締め括り部分とは、
実は雪女であったと知られたからには一緒にはいられないとなったとき、
妻は夫にこんなことを言うのでして。

…そこに眠っている子供等がいなかったら、今すぐあなたを殺すのでした。でも今あなたは子供等を大事に大事になさる方がいい、もし子供等があなたに不平を云うべき理由でもあったら、私はそれ相当にあなたを扱うつもりだから…

去らねばならない母が父に子供を託す思いが語られるわけですけれど、
この場面でハーンは自身の子供時代を必ずや思い返していたことでありましょう。

と、「雪女」がさほどに怖い話ではなかったことで、
それなら「怪談」全編にトライしてみようかてな気にもなるところですが、
まあ、油断は禁物でしょうなあ。
何せ怖がりでは人後に落ちないものですから(笑)。

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1ドル銀貨は受け継がれ?…ということ

2016-05-18 12:01:08 | 日記

映画史に…という語り起こしはずいぶんと大袈裟ですけれど、
「マカロニ・ウェスタン」は確かにひと時代を作ったようでありますね。

そうはいっても本当に主だった作品しか見ていなかったものですから、
Movie Plusで放送されたときに「取り敢えず…」と録画しておいた2作品を
ようやっと見たのでありまして。

ひとつは「続・荒野の1ドル銀貨」というもの。
「続」でない「荒野の1ドル銀貨」は何度か見たことがありますので、
さてどんな「続」なのかと思ったところが、両者に関わりは全く無いのですな。

まあ、改めて驚くにも当たらないと思い返しましたですが、
何しろ「荒野の用心棒」(クリント・イーストウッド主演)と
「続・荒野の用心棒」(フランコ・ネロ主演)からして全く別ものですし。
ただ、「一ドル銀貨」の方は正続ともにジュリアーノ・ジェンマ主演なだけ
少々はぐらかされたというところかと。

だいたい「荒野の1ドル銀貨」は
(いまさらこの作品でネタばれして、とやかく言われはしないでしょうから)
撃たれたと思うも、胸ポケットの1ドル銀貨に助けられたということで
オチを付ける作品ですから、「続・荒野の1ドル銀貨」となると、
一ドル銀貨に助けられること再び…とは想像するだけ馬鹿馬鹿しい。

多分に安易なタイトル付けの結果と思うわけですが、
それでも「荒野の1ドル銀貨」がそれなりに好評であったろうからこそ
主演者が同じというだけで「続」としてしまったのでありましょうなあ。

ところで2作品見たという2作目の方は「ガンマン大連合」というもの。
いやはやここまで工夫の無いタイトル付けになってきますと、
タイトルを見ただけで「マカロニ・ウェスタン」と知れる効果はありそうですね。

ただ「ガンマン大連合」はマカロニ・ウェスタン時代も終わり頃の作品で、
それだけにかなり自由な作りになってきているような。
背景にメキシコ革命において、フランコ・ネロが
敵味方の間をさまようようなスウェーデン人武器商人を演じるという。

で、この映画の終わりの方になって正に「荒野の1ドル銀貨」と全く同様の、
1ドル銀貨の使われ方がされるのには、驚き、呆れるといいますか。
劇中で1ドル銀貨自体はかなり最初の方から含みを持たせる感じではあるものの、
よもや二番煎じの使い方を正面切ってやってしまうとはゆめゆめ思わず…。

ですが、こんなふうに全てにおいて(とは言い過ぎながらも)
かなり安直な作り自体が肩の凝らない娯楽作たるところもであって、
「マカロニ・ウェスタン」の独自性を確固とさせているのやもしれませんですよ。

ただし、間違いなく面白いのはマカロニ・ウェスタン初期、
クリント・イーストウッドが主演した3作で、
その後にこれを超えるものはでていないのではないかと思いますが…。

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「蝶々夫人」が悩ましい・・・ということ

2016-05-17 12:31:08 | 日記

今シーズンのMETライブ、余すところ3作のみとなったところで
ようやっと見に行くことができたのでして。
演目はマダム・バタフライ、「蝶々夫人」でありました。
(一般には上映終了ですが、東銀座の東劇ではまだやってる)

実のところ、当初の思惑としては
「蝶々夫人」を見に行こうとは全く考えておらなかったという。
何となれば、日本を舞台にした話であるも、
恐らくはへんてこな日本情緒らしきもので飾られ、
違和感を抱きっぱなしになるのでは…と思い込んでいたものですから。

もう何十年か前になりますですが、
近所の図書館でLPレコード(当時は、です)の貸し出しをしてまして、
「何を借りよっかなぁ」とジャケットを次々と見やるうちに出くわしたのが
歌劇「蝶々夫人」全曲のボックスセット。

少々食指が動いたものの、止めてしまったその理由は
ジャケットカバーの印象なのでありまして。
明らかに外人の容貌に日本髪と着物…これがなんとも「う~む…」だったもので。

思い出す限りにおいてはマゼールの指揮した全曲盤で、
蝶々夫人に扮したソプラノのレナータ・スコットの写真が
カバーを飾ったいたように思いますけれど、
後から思えばまだましの部類だったようで、
他の録音では「もはやおてもやん?!」状態のもあるようですし。

そんなわけで「蝶々夫人」には近付かぬままに幾星霜であったところが、
このほどはMETライブ今シーズン用の3回券を購入しておきながらも、
これまでの上映のたびに都合がつかなかったり、風邪を引いたり、
はたまたひざ痛がでたり…と見送りまくった結果、残りの上映は3公演のみ。
違和感抱くも覚悟の上で、選択の余地なく「蝶々夫人」に出かけることに…
とまあ、そういうわけなのでありますよ。

で、果たして行ったみたらばどうだったのか…ということになりますけれど、
「いいじゃん、これ!」と。
メロディーメーカーたるプッチーニの面目躍如でもあろうかと。

もちろん長崎が舞台で、舞台で日本の娘とアメリカ海軍士官との話ですから、
しばしば日本のメロディーが使われ、折に触れて米国国歌のメロディーも
流れてくるという唐突なところはあるにしても、
よくまあ消化しているのでないのと思ったわけで。

と、ここまでのところで予て歌劇「蝶々夫人」を敬遠する中では
オペラとして演じられる視覚的なところはもとより、
その音楽さえまともに聴いたことがなかったことをお気付きなろうかと。

それだけに今回はプッチーニの音楽を「ほお~!」と思うことになったわけで、
その音楽の方向からは間違いなく「蝶々夫人」の認識を改めたと言っていい。
ですが、それでもやっぱり「蝶々夫人」は悩ましいのでありますよ。

好評価を得ているという映画監督アンソニー・ミンゲラによる演出は、
実にファンタジックなものとなっているわけですが、
それでもやっぱり日本まがいになってしまうという点で。

ですから、最後に折り合いをつける手段として悟りを開いた?ところとしては、
「日本のようなところではあるけれど、日本ではないどこかの架空の世界」
を舞台に繰り広げられる物語なのだという整理。

こう割り切ることで悩ましさを払いのけ、「蝶々夫人」に入っていける。
思いがけずもそうした契機を作ってくれたMETライブなのでありました。

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