貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

刀水のほとり 別稿  国仙禅師 2

2024-03-22 15:06:10 | 刀水のほとり


次に気になったのは真澄が国仙禅師の名とその存在について、筑摩の御湯での邂逅よりも以前から知っていたという点である。

国仙が真澄の叔父にあたる人物にとって同じ法門の先輩に当たるといった縁で、「遊覧記」には真澄がこの出会い以前から国仙の存在について既に承知していたと記されてはあるが、ここにはその真澄の叔父の僧の名は記されてはいない。

真澄の叔父に当たる人物は国仙とは同門の法弟であるとは言うものの、どういった法統に属していたのかは語られてはいないから詳しいことは判らないが、国仙の法脈や年譜を追って行けば、殊によったら真澄の叔父のとの接点など見出せる可能性も出てくるかも知れぬと思いついた。

併せてもう一点、そもそも備中の円通寺の住持である国仙が、この時にどのような用向きや理由があって、ここ信州の筑摩の湯に滞在していたのかについても、こうした作業をしてみて行ったら判るかも知れないと云った期待も働いて少しばかり調べてみることにした。

 

国仙禅師の年譜  国仙(1723‐1791)

享保11年(1726年)・・孤児となり町田・小山田の大泉寺の高外全国の許で養育を受けたと伝わる。     (4歳)

享保12年(1727年)・・師の全国が井伊家7代井伊直惟(なおのぶ・井伊直弼の曽祖父)から請われて近江・彦根の井伊家菩提寺清凉寺へ第9世として転住する。国仙はこれに随侍したとされる。               (5歳)

享保20年(1735年)・・彦根清凉寺にて国仙は全国和尚より出家得度を受ける。             (13歳)                  この年、全国は井伊直惟が病身を理由に弟に家督を譲り彦根藩主を隠居するのに伴って三河八並村(現・豊田市矢 並)に医王寺を開創。

元文元年(1736年)・・直惟が37歳で卒去したのを機にして全国和尚は清凉寺を退董(退任)。       (14歳)

元文2年(1737年)・・全国和尚は三河医王寺に開山第一祖として晋住。国仙も随従したとされる。    (15歳)

従って、国仙が引き取られた先の町田小山田の大泉寺で暮らしたのは約1年で、その後、全国の転住先の彦根・清凉寺で過ごした期間は約10年間ということになる。

全国に随い、三河医王寺に移るようになった国仙15歳の頃から約3年間諸国修行に出向き、大義宗孝・華厳曹海・頑極官慶・悦厳素忻・関山道察らの師家に参じたと伝わる。

寛保元年(1741年)・・医王寺に戻り、師の全国より印可証明を受ける。                (19歳)

寛保2年(1742年)・・全国が73歳で示寂。                            (20歳)

孤児の幼児が全国和尚の許に預けられて後、師弟として暮らした時間は16年に及び、国仙は全国の法嗣が23人あったとされている中の一人と云うことになるが、全国が三河医王寺へと入ってから亡くなるまでの5年間、国仙の拠点にした寺院は当然ここにあったと想像されるが、全国の亡き後の国仙の動向はどのようであったのか調べてみると、次にと国仙の年譜が確認されているのは

宝暦4年(1754年)・・鉄文道樹が信濃伊那の金鳳寺で諸堂を復興して開堂結制、国仙が首座に充てられる。(32歳) 

である。


師の全国の死後、20歳から32歳までの国仙和尚の12年間の動向は如何であったのか、更には、彼が信州伊那の金鳳寺で首座を務めたという後、首先住職先として彼が4歳の時に最初に預け入れられた寺である武蔵町田・小山田の大泉寺へ第25世として法兄から継承した時まで(宝暦年中であるが、その年次はハッキリとは判っていないようだ)の間(14・5年になるのだろうか。)の動静は把握できない。

が、ここで判るのは師の全国に随って彦根。清凉寺から三河の医王寺に移った15歳から武蔵の大泉寺に晋山する(35歳くらいか)迄の凡そ20年間は国仙にとって所縁のあった地域は三河・信濃がその中心であったと推定することが出来そうである。

そのような見方に立って考えると、まず一点目に気にかかった真澄の叔父が国仙とは同門の法弟に当たると云った関係性について、おそらくのこと、国仙の15歳から35歳頃までの三河や信濃に修行の拠点があったと考えられる約20年間の時期に成り立った可能性が高いと云えるだろう。

真澄の出身地は三河の岡崎とも豊橋とも云われ、真澄の叔父にあたる法師も三河が生地であったろうから同地やその周辺地が修行をした場であったろうから国仙がこの地域に居た時期と重なり国仙とこの叔父との接点を持たれ、さらにまた、真澄自身も幼少時には岡崎城下に所在し浄瑠璃姫伝説でも知られる、国仙とは同じ宗旨の曹洞宗の成就院で稚児として過ごした時期もあったそうだから、この叔父の口から同じ宗門仲間とも云える甥の真澄に対して国仙和尚の名が語られたのであったのだろう。

 

ここでもう一人国仙と縁の深い三河出身の鉄文道樹について触れて見る。

生年は宝永7年(1710年)。

寛保2年(1742年)32歳で遠江・掛川に在る少林寺に於いて黙子素淵より嗣法する。【この年に国仙の師・全国が示寂している。】

延享3年(1746年)信濃・飯田にある増泉寺へ首先住職する。【同年に師・素淵が少林寺にて示寂。】

延享4年(1747年)一年余で増泉寺を辞して、信濃・伊那富県の金鳳寺へと転住。

寛延元年(1748年)冬、金鳳寺にて法兄の頑極官慶を請じて結制を修し受戒会を行う。

宝暦4年(1754年)夏、金鳳寺の諸堂を復興して結制開堂し国仙が首座となる。

宝暦11年(1761年)金鳳寺より備中玉島の円通寺の第9世として晋住する。

明和5年(1768年)出府して円通寺の法事会公許を訴える。

明和6年(1769年)円通寺を辞す。国仙が後任として晋住する。

明和7年(1770年)尾張青山村(現・愛知県西春日井郡豊山町)に泉松寺を法地開山して入山。第1世となり寺内の天地庵に住す。         【1808年に千松寺に改称されている。】

天明元年(1781年)泉松寺にて示寂

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雙林寺訪問記

2024-03-08 18:28:18 | 日記

雙林寺参拝記

随分と以前からこの雙林寺さんへは訪れてみたいと思って来ていたが、なかなかその機会が巡って来ずに、やっと初詣の行き先として機会を作ることが出来た。

この寺へと足を運んでみたいと思ったきっかけについては、既に当ブログ記事「刀水のほとり・余話」で触れたので、ここでは繰り返さないことにする。

記事①記事②を参照されたし)

門前の駐車場は大きな老杉の木立の囲まれた如何にも禅寺という風情に満ちていたが、ここでも参拝者は少なく、私が車を駐車場へと停める時に、先着の一台から三人連れの家族と思しき一団が降りて来るのに行き会ったが、他に車は無く訪ね来る人も少ないのか見回せる範囲の中に人影は見当たらなかった。

寺の正式名称は「最大山春日院雙林寺」で渋川市中郷に所在する曹洞宗の寺であり、室町時代中期の上,
野国守護の上杉憲実(山内上杉)の家宰で上野白井城主の長尾景仲により文安4年(1447年)また一説には宝徳2年(1450年)に開基された。

開山は一州正伊であるが勧請開山として師の月江正文が当寺の第1世となり、一州正伊は第2世となっている。

停めた車から何の意識も払うこともせずに、そのまま本堂へと向かう参道を入ったので、この時には全く気づかなかったが、最初に潜った門は「開かずの総門」と呼ばれ、普段はこの門は通り抜けすることは出来ず、脇の「通用門」を経て境内へと入るようになっているらしく、たまたま訪れたこの日は年に2回あるという門の開かれる日に当たっていたようで、そんな日に参拝できたことは幸運であった。

総門は多くの彫刻が施された「唐門」で「萬松関」の扁額が掲げられてある下を潜ったが、この「萬松関」とは開祖・道元の学んだ中国浙江省に在る太白山天童寺の十景の一つである萬松関に由来しているそうだ。

次に現れるのは「山門」で金剛力士が睨みを利かしていて中央には「最大山」と山号の扁額が掲げられた豪放な感じを与えるいかにも禅宗風した五間一戸の入母屋造の大きな建屋で、永平寺の山門の建替時に、この門を移築させるという話もあったと伝わる立派なものである。

山門を過ぎると左手にヒイラギモクセイ(渋川市指定天然記念物)の大木が目に入り、その後手に禅堂が建っているのが確認され、近くまで寄っては見なかったが、かつてこの寺には大勢の禅僧が修行に明け暮れた生活をしていたということに思いが飛ぶ。

さて、いよいよ本堂へ。

車を停めた総門前の広場からここまでだらだら上りの坂道となった参道を来て、山門を潜ってからそれまで鬱蒼とした木立の中で空は閉ざされて見えなかったものが急に明るくなり、子持山の山裾に当たり、背後に山を背負った入母屋の大きな屋根を持つ本堂が一際壮大な建物として目に映る。

数段の石段を上ると堂の外壁は腰板が巡らされ、その上部は漆喰で塗り固められていて、飾り気のない如何にも禅寺の本堂と云った外観で、の下の犬走は三和土になっている。

本堂の引戸は開け放たれていたので、いざ足を踏み入れようとすると、先程、駐車場で出会った人たちの一団が本堂から退出するのと重なって、ちょうど彼らと入れ替わるようにして敷居を跨ぎ堂内へ。

踏み入るとそこは石敷きになっていてそれほどの幅はなく、直ぐ目の前には目通りほどもある高さで広縁が左右に伸びて磨き込まれている。

天井を見上げると立派な造りの「雙林護国禅寺」の扁額が掲げられ、欄間には彫刻が施されてあるのが目に入る。

確か、この本堂の一室の板襖に烏洲の描いた現在は絵具も剥落してしまっていると聞く画が遺されている筈であるが、その画を拝ませて頂くことなどは適わない。

ふと視線を脇に向けると住職様だろうか、石敷きの土間を丁寧にモップで掃除している姿が見えたので目礼してここから辞した。

本堂を出て、東に進むと「春日園」と云う老人ホームが建っていたが、寺の院号「春日院」との関連やら、寺と直ぐに隣接している場所に建っていたことからなどから推して、きっと寺の関連施設なのだろう。

寺とこのホーム施設との間に細道の所に「道了尊」の案内があり「157段」と階段数の表示もされていて、見上げると結構に急な傾斜面を上る階段が目にと飛び込んで来た。

この「道了尊」は、開山に当たり月江正文禅師が、その時、第7世として住持していた相模・大雄山最乗寺で守護神として祀られている道了尊(天狗)を勧請し祀り込んだものであると云う。

その祀られた場所がこの階段の先と云うことなのだが、150段ちょっと位は知れたものだとタカをくくって昇り始めたものの、中途からは階段の段差が25cmくらいはあるようになり、少しばかり容易でなさを感じはじめ、手摺りの付けられていないのを恨めしく思うようにとなってしまったが、階の両脇に据えられた大天狗と烏天狗の両像に見守られながら何とかお堂迄たどり着けた。

お堂の中の様子がどんな風になっているのかはっきりとは確認できなかったが、堂には「妙覚宝殿」の額が掲げられてある。
【「妙覚」とは道了尊者の字名。道了に後続して(尊者・権現・薩埵)と呼ばれるようだ。】

堂前には鐘楼が自由に撞いても良い旨の文言が示されている。
お堂も鐘楼も建てられてからそれほど時間が経過しているようには思えなかったから、近年に新調されたのであろう。

道了尊の祀られてある場所は頗る景色が良い場所で、南方向、視界の中央には前日のニューイヤーマラソンの発着地点の群馬県庁の建屋が見え、これを挟んで東方向には赤城山、西方向には榛名の山裾が傾斜しながら迫り、その中程の所には渋川や前橋の市街地の広がっている様子が手に取るように観察できる。

暫しの時間、景色を眺めた後、再び急な階段を降り始めると子供3人を従えて夫婦連れが昇って来るのに出合ったが、こちらが慎重に一歩づつ足元を確認しながら歩を進めているのと違い、子供達の足取りは我が身と比べて何とも軽やかなことよ。と羨ましく思えた。

階段を降り切る頃に、子供たちが撞いたのだろう鐘の音が鳴り響き渡っていた。

勧請開山した月江正文禅師の取持った縁で、ここ雙林寺と相州の最乗寺および道了尊との関わりが始ったのだろうが、その繋がりは現在も続いていて、当代の大本山・総持寺の貫主は現・雙林寺の住持の父上で雙林寺から最乗寺へ、そして大本山総持寺へと入山されているといったことからも窺える。

 

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