そしてもう一題は、「ひさご」という語は使われずに、代わりに「柄鏡形住居」と云う呼び名の付いた縄文時代中期の後半期から晩期前葉にかけての時期に作られた住居の存在についてである。
我国で室町時代以降に使われて来た「和鏡」の一種「柄鏡」に似ているということから名付けられた用語であり、「鏡」にあたる部分の居住空間と、「柄」にあたる入り口に相当する張り出し部分によって成り立っているのだが、中には、敷石の敷かれている「柄鏡形敷石住居」と呼ばれるものもあって、その分布域は関東・甲信越を中心にして、東日本に広く見られ、県内からも相当数の発見例(約140棟確認されているという)がある。
柄鏡
この住居の平面形も、前記した初期の前方後円墳と形とよく似ているのだが、その形から言い方を換えて、「ひさご形住居」あるいは「瓢箪形住居」と呼んでも良いのではないかと私には思える。
旧・大井町所在の縄文遺跡2ヶ所から11棟の柄鏡形住居が見つかっていて(2003年時点)、その一棟、東台遺跡・120号住居が縮尺された復元住居として、ふじみ野市大井郷土資料館で展示されていることを知り、先日見学しに訪ねて来た。
展示物へのカメラ撮影もメモを取ることも禁止されていたので、ここに画像を貼り付けることは出来ないが、直径約4mの円形の居住部分(鏡部)に入り口部分(柄部)が長く張り出していて、居住部の中央には石囲炉が設けられていた。
入口に当たる張り出し部には、コ字形に平石が敷かれた脇に「埋甕」が見られ、入口と居住部の境にも土器(壺形)が埋設されていて、入口から見て居住部の奥の少し右手には石棒が床面に立てられてあり、正面奥には一列に自然石が並べられている。
柄鏡形住居の入り口にあたる張り出し部、そして、その張り出し部と居住部の境にあたる場所に埋甕が設けられる例は、この形をした住居の殆どに見られることであり、この住居も例外ではなかった。
また、この柄鏡形をした住居からは石棒の発見されることの多いことも知られている。
かつて、柄鏡形(敷石)住居について、上記のように住居の床面に石が敷かれること。埋甕が置かれていること。石棒が見られること。などの点から特別な祭祀に関わる遺構であると見られていたものだったが、最近の研究では、住居の一形態であると見る見方が主流になって来ているようだ。
発見される住居址としての数の多いことなども、「特別な」といった見方から「住居の一形態である」といった見方へと変わって来た要因なのかも知れない。と考えさせられた。
この住居址から見つかる埋甕の使・用途についてであるが、①貯蔵用の容器、②住居設営の際の儀礼用、③乳児・死産児を容れた甕棺、④胎盤収納容器。といった諸説がある。
住居の出入り口に壺を埋め、これに胞衣(えな)を収納し、それを跨ぐことによって幼児の成育と再生を願うといった出産習俗は少し前まで行われて来た事実もあることから(私自身、末の妹の胞衣を祖母に命じられて土間に埋める為の穴を掘らされた)、こうした習俗に繫がる器物であった可能性が高いのではなかったかと私自身は思う。
そして、石棒は男性器を象ったものだが、この住居址の例のように土間に立てられたり、祭壇状の施設と一緒に発見されるもの。或いは、埋甕と石棒とがセットになって発見される例もあって、こちらはその形からしても生産・増殖を祈る祭祀に関わってのものであったのだろう。
見学した資料館に縮尺復元された柄鏡形住居の張り出し部と居住部との境に埋められていた土器は、その胴部にわざと打ち欠かれて穴があけられたものであったということだったが、このように土器の底や胴の部分を打ち欠くのは、弥生時代の方形周溝墓や古墳時代の副葬品として石室に納められた土器にも見ることが出来るし、今でも葬儀で出棺の際に故人が使っていた食器(主にご飯茶碗)を割るといった行為があって、これは「あなたの帰る所はもう此処ではありません。帰って来てもあなたの食事を摂る為の器はもうありません」といった死者へのメッセージであるというが、こうした意味合いとも通じることなのだろうかと思った。
さらに私は、この柄鏡形住居の模型を見ながら想像を廻らした。
もしかしたら、住居の寝場所となる空間は「仮の死」を迎える場所であり、同時に「再生」のもたらされる場所である。といった観念が働いていたのかも知れないと、そう思ったのだった。
つづく
我国で室町時代以降に使われて来た「和鏡」の一種「柄鏡」に似ているということから名付けられた用語であり、「鏡」にあたる部分の居住空間と、「柄」にあたる入り口に相当する張り出し部分によって成り立っているのだが、中には、敷石の敷かれている「柄鏡形敷石住居」と呼ばれるものもあって、その分布域は関東・甲信越を中心にして、東日本に広く見られ、県内からも相当数の発見例(約140棟確認されているという)がある。
柄鏡
この住居の平面形も、前記した初期の前方後円墳と形とよく似ているのだが、その形から言い方を換えて、「ひさご形住居」あるいは「瓢箪形住居」と呼んでも良いのではないかと私には思える。
旧・大井町所在の縄文遺跡2ヶ所から11棟の柄鏡形住居が見つかっていて(2003年時点)、その一棟、東台遺跡・120号住居が縮尺された復元住居として、ふじみ野市大井郷土資料館で展示されていることを知り、先日見学しに訪ねて来た。
展示物へのカメラ撮影もメモを取ることも禁止されていたので、ここに画像を貼り付けることは出来ないが、直径約4mの円形の居住部分(鏡部)に入り口部分(柄部)が長く張り出していて、居住部の中央には石囲炉が設けられていた。
入口に当たる張り出し部には、コ字形に平石が敷かれた脇に「埋甕」が見られ、入口と居住部の境にも土器(壺形)が埋設されていて、入口から見て居住部の奥の少し右手には石棒が床面に立てられてあり、正面奥には一列に自然石が並べられている。
柄鏡形住居の入り口にあたる張り出し部、そして、その張り出し部と居住部の境にあたる場所に埋甕が設けられる例は、この形をした住居の殆どに見られることであり、この住居も例外ではなかった。
また、この柄鏡形をした住居からは石棒の発見されることの多いことも知られている。
かつて、柄鏡形(敷石)住居について、上記のように住居の床面に石が敷かれること。埋甕が置かれていること。石棒が見られること。などの点から特別な祭祀に関わる遺構であると見られていたものだったが、最近の研究では、住居の一形態であると見る見方が主流になって来ているようだ。
発見される住居址としての数の多いことなども、「特別な」といった見方から「住居の一形態である」といった見方へと変わって来た要因なのかも知れない。と考えさせられた。
この住居址から見つかる埋甕の使・用途についてであるが、①貯蔵用の容器、②住居設営の際の儀礼用、③乳児・死産児を容れた甕棺、④胎盤収納容器。といった諸説がある。
住居の出入り口に壺を埋め、これに胞衣(えな)を収納し、それを跨ぐことによって幼児の成育と再生を願うといった出産習俗は少し前まで行われて来た事実もあることから(私自身、末の妹の胞衣を祖母に命じられて土間に埋める為の穴を掘らされた)、こうした習俗に繫がる器物であった可能性が高いのではなかったかと私自身は思う。
そして、石棒は男性器を象ったものだが、この住居址の例のように土間に立てられたり、祭壇状の施設と一緒に発見されるもの。或いは、埋甕と石棒とがセットになって発見される例もあって、こちらはその形からしても生産・増殖を祈る祭祀に関わってのものであったのだろう。
見学した資料館に縮尺復元された柄鏡形住居の張り出し部と居住部との境に埋められていた土器は、その胴部にわざと打ち欠かれて穴があけられたものであったということだったが、このように土器の底や胴の部分を打ち欠くのは、弥生時代の方形周溝墓や古墳時代の副葬品として石室に納められた土器にも見ることが出来るし、今でも葬儀で出棺の際に故人が使っていた食器(主にご飯茶碗)を割るといった行為があって、これは「あなたの帰る所はもう此処ではありません。帰って来てもあなたの食事を摂る為の器はもうありません」といった死者へのメッセージであるというが、こうした意味合いとも通じることなのだろうかと思った。
さらに私は、この柄鏡形住居の模型を見ながら想像を廻らした。
もしかしたら、住居の寝場所となる空間は「仮の死」を迎える場所であり、同時に「再生」のもたらされる場所である。といった観念が働いていたのかも知れないと、そう思ったのだった。
つづく