貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

おんべかつぎ22

2014-09-30 09:50:18 | おんべかつぎ
そしてもう一題は、「ひさご」という語は使われずに、代わりに「柄鏡形住居」と云う呼び名の付いた縄文時代中期の後半期から晩期前葉にかけての時期に作られた住居の存在についてである。

我国で室町時代以降に使われて来た「和鏡」の一種「柄鏡」に似ているということから名付けられた用語であり、「鏡」にあたる部分の居住空間と、「柄」にあたる入り口に相当する張り出し部分によって成り立っているのだが、中には、敷石の敷かれている「柄鏡形敷石住居」と呼ばれるものもあって、その分布域は関東・甲信越を中心にして、東日本に広く見られ、県内からも相当数の発見例(約140棟確認されているという)がある。

柄鏡

この住居の平面形も、前記した初期の前方後円墳と形とよく似ているのだが、その形から言い方を換えて、「ひさご形住居」あるいは「瓢箪形住居」と呼んでも良いのではないかと私には思える。

旧・大井町所在の縄文遺跡2ヶ所から11棟の柄鏡形住居が見つかっていて(2003年時点)、その一棟、東台遺跡・120号住居が縮尺された復元住居として、ふじみ野市大井郷土資料館で展示されていることを知り、先日見学しに訪ねて来た。

展示物へのカメラ撮影もメモを取ることも禁止されていたので、ここに画像を貼り付けることは出来ないが、直径約4mの円形の居住部分(鏡部)に入り口部分(柄部)が長く張り出していて、居住部の中央には石囲炉が設けられていた。

入口に当たる張り出し部には、コ字形に平石が敷かれた脇に「埋甕」が見られ、入口と居住部の境にも土器(壺形)が埋設されていて、入口から見て居住部の奥の少し右手には石棒が床面に立てられてあり、正面奥には一列に自然石が並べられている。

柄鏡形住居の入り口にあたる張り出し部、そして、その張り出し部と居住部の境にあたる場所に埋甕が設けられる例は、この形をした住居の殆どに見られることであり、この住居も例外ではなかった。

また、この柄鏡形をした住居からは石棒の発見されることの多いことも知られている。

かつて、柄鏡形(敷石)住居について、上記のように住居の床面に石が敷かれること。埋甕が置かれていること。石棒が見られること。などの点から特別な祭祀に関わる遺構であると見られていたものだったが、最近の研究では、住居の一形態であると見る見方が主流になって来ているようだ。

発見される住居址としての数の多いことなども、「特別な」といった見方から「住居の一形態である」といった見方へと変わって来た要因なのかも知れない。と考えさせられた。

この住居址から見つかる埋甕の使・用途についてであるが、①貯蔵用の容器、②住居設営の際の儀礼用、③乳児・死産児を容れた甕棺、④胎盤収納容器。といった諸説がある。

住居の出入り口に壺を埋め、これに胞衣(えな)を収納し、それを跨ぐことによって幼児の成育と再生を願うといった出産習俗は少し前まで行われて来た事実もあることから(私自身、末の妹の胞衣を祖母に命じられて土間に埋める為の穴を掘らされた)、こうした習俗に繫がる器物であった可能性が高いのではなかったかと私自身は思う。

そして、石棒は男性器を象ったものだが、この住居址の例のように土間に立てられたり、祭壇状の施設と一緒に発見されるもの。或いは、埋甕と石棒とがセットになって発見される例もあって、こちらはその形からしても生産・増殖を祈る祭祀に関わってのものであったのだろう。

見学した資料館に縮尺復元された柄鏡形住居の張り出し部と居住部との境に埋められていた土器は、その胴部にわざと打ち欠かれて穴があけられたものであったということだったが、このように土器の底や胴の部分を打ち欠くのは、弥生時代の方形周溝墓や古墳時代の副葬品として石室に納められた土器にも見ることが出来るし、今でも葬儀で出棺の際に故人が使っていた食器(主にご飯茶碗)を割るといった行為があって、これは「あなたの帰る所はもう此処ではありません。帰って来てもあなたの食事を摂る為の器はもうありません」といった死者へのメッセージであるというが、こうした意味合いとも通じることなのだろうかと思った。

さらに私は、この柄鏡形住居の模型を見ながら想像を廻らした。

もしかしたら、住居の寝場所となる空間は「仮の死」を迎える場所であり、同時に「再生」のもたらされる場所である。といった観念が働いていたのかも知れないと、そう思ったのだった。

つづく
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おんべかつぎ21

2014-09-20 23:29:49 | おんべかつぎ
「ひさご」の語に絡めて、二題ばかり思いついたことがあった。

ついでながらに記しておきたい。

一つは、しばしば耳目にする語に「ひさご塚」とか「ひょうたん塚」とか称される古墳があって、同名のものが全国各地に存在していると云うことにも、これを記している中途で気に留まったのである。

県内にも、桶川市川田谷・柏原古墳群の「ひさご塚古墳」・杉戸町目沼の「瓢箪塚古墳」。川口市峯所在の新郷古墳群の「瓢箪塚古墳(高稲荷古墳)」が知れるが、現在では杉戸目沼の瓢箪塚が残されているのみで、桶川川田谷のひさご塚も川口新郷の瓢箪塚も共に削平され消滅して現存はしない。

この「ひさご塚」ないしは「瓢箪塚」と云う名の起こりについては、古墳を上方から平面的に俯瞰した時に、その形が「ひさご=ヒョウタン」に似ていることから付けられたことは容易に想像することが出来るが、古墳の分類上では「前方後円墳」を指し、上記三者もその例外ではなく、殊に、川口市新郷所在の「瓢箪塚(高稲荷)古墳」については、4世紀末から5世紀初頭にかけて築造された前方部が低く、撥状には張り出していない古式の形態をしていて全国的に見ても早い時代のものとされ、墳長も75mある立派な首長の墓と考えられていようだが、なるほどのこと、その形は細頸のヒョウタンを縦に半裁して伏せたようで、こうした俗称・通称で呼ばれていたということにも納得が行く。

よく知られるように、前方後円墳と呼ばれる墳墓の形は我が国及び韓国の一部にのみ見られる独特の形をしたもので、その形の生まれた理由について種々の学説が提唱されてきた歴史があるのは承知しているが、現在では「円形墳丘墓の通路部分が発達し墳丘と一体化したもの」と見る見方が有力説のようだ。

過去に於いて『墳墓を前方後円に築き、その形式を瓢型に作ったことは、古く我国において瓢は魂の入れ物と信じた民俗から出発している』との説を唱えたのは、「異端の民俗学者」と評された中山太郎氏であった。

私自身はここまでに記して来ている本題との関わりもあって、中山氏の説は傾聴に値するものではなかろうかと個人的にはそう思っている。

つづく
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ゴムバンド

2014-09-17 01:08:14 | 今日の道場
我が道場は基本的に毎週火曜日を休場日とさせて頂いているが、昨日は遠く鹿児島からわざわざ足を運んで来て下さった、かめさんからの予約が入っていたので夕刻より開いた。

埼玉から鹿児島へと引っ越されてから早くも一年が経とうとしている。

積もる四方山の話で盛り上がったが、今回私が何よりも嬉しく思ったのは、ゴムバンドのことをお伝え出来たことである。

何度かここにも記したが、越後秋山郷で妊婦が腰に巻いた岩田帯ならぬカラムシ製の紐を使った「ハラオビ」の一件で、その実際の巻き方について知るべく十日町へと出向いていかれたのはかめさんその人である。

このハラオビの巻き方が越後秋山の妊婦達が、実際には、どのように巻いていたものかは私には判らないのだが、巻いて楽にならなければ意味が無かったろうし、これを巻くことによって身体が実際に楽になることを感覚的に得られたから巻いたのであろうと私はそう思っている。

岩田帯を巻くことによって実際の恩恵がどのように得られるのか?。或いは、得られないのか?。私自身確かめたことは無い。

だが、私の見た目からしての感覚からしたら、晒し木綿を巻き付けるよりも、この「ハラオビ」の方が優れて実際的な効用はあるのではないか。とそんな風な印象を持っている。

それは腰痛防止のためなどに腰に巻かれるゴムバンドの存在などや、最近になって締め込み始めた褌から得られる実際の体感からして、そう思って来たのである。

ただ、これの利用法については随分と以前から道場でも度々取り上げも来ているが、正直なところ、我が体操の考え方と合致する巻き方として私自身が得心行くまでには至ってはいなかった。

ここへ来て、私がパンツから褌へと変えてみたことや、道場に見えてくださる方たちも中々体操を行う時間ももてない様子から、少し本義とは外れてしまうとは思いつつも、楽に過ごせるに越したことは無いから・・・。と思い、ゴムバンドについて、またぞろ、巻き方について考え出すようになっていた。

いろいろと試した果てに、やっとのこと自信を持って人様にもお勧めすることの出来、我が体操の考えにも合致する方法を思いついた。

今日も今日とて、帰宅してから、さらに手順がスムースに、そして憶えやすく方法についての思いつきも得られたところ。

明日も、かめさんは見えて下さる。

鹿児島へ帰られてからも、これが役に立つようにと祈りながら、この巻き方について是非憶えて帰って貰えるようにしたいものだ。

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おんべかつぎ20

2014-09-14 10:21:43 | おんべかつぎ
柄杓や杓文字の元が「ひさこ」に求められるとされるのであるからには、ここでその「ひさこ=瓢箪」についても、またまた寄り道して少し触れて見ようと思う。

瓢箪と聞いて思い出すのは、小・中学校への通学路脇にあった一軒のお宅の庭先に、毎年、涼を求める為であったのか瓢箪棚が設けられ、秋には見事に実をつけた千成瓢箪が幾つも棚からぶら下がっていた状景である。

我が家で耕作していた畑の隣地に、少し離れた所に住んでいたこの土地の地主さんの「三條屋のお爺さん」が野良仕事に毎日のように姿を見せていたが、このお爺さんは畑に来るのに決まって腰に瓢箪を提げてやって来ていた。祖母よりも年長であったから明治の10年代の生まれであったろうか。作業の合間にはこの瓢箪に容れて来た水で喉を潤し、掌で火種を継ながら刻み煙草を美味そうに呑んでいる姿が思い出される。

畑の近くには日赤病院が在って、ここの結核病棟で療養をしていたオジサンが、手持ち無沙汰であったのだろう。ある年のこと、何処からか手に入れたのだったろう、水を張った一斗バケツの中から瓢箪を取り出し、実の中から種を取り出している状況の場に、病院の庭に遊びに行った時に出くわした。
凄い腐臭が辺りに立ち込めていたが、オジサンは嬉々としながら「看護婦に臭いがするから止めてくれって言われているんだけどもなぁ。これで水入れ作るんだ」と笑顔で語ってくれた。

三條屋のお爺さんの提げて来るあの瓢箪はこうして作られるんだと、私は少年の日に知ったのだった。

「水筒に入れたひにゃ~夏なんかぁ中の水は熱くなっちまうが、こいつに容れた水は逆に冷たくなって美味いんだ。飲んでみない」と、差し出しながら私に教えてくれたのは、この三條屋のお爺さんだった。

その後になって、テレビ放映された時代劇ドラマで「素浪人・月影兵庫」というのがあったが、主演の近衛十四郎さん演じる素浪人の兵庫も腰に何時も瓢箪をぶら提げ、中には酒を容れて持ち歩いていたっけ。

瓢箪は容器としてそのままの形で利用した場合には、上記した様に水や酒を容れるだけにとどまらず、薬を入れたり、種を入れたり出来、しかも軽くて丈夫であり、容れられた品は保存状態が大変に良い。農作物の種などは瓢箪の中に保存されたものは必ず発芽するといわれる位だ。

これを横に切リ取れば底の部分は「椀」になるし、口の部分を逆さに使うようにすれば「漏斗」としても利用できる。
縦にして割れば「皿」になり、そして、ここでの主役の「柄杓」になると云う訳で多用途な利用が可能な優れものである。

瓢箪の原産はアフリカなのだそうだが、福井県の鳥浜貝塚から現在のところ我が国で一番古くに時代を遡って栽培種であった可能性のある瓢箪の種子および果皮の遺体の出土例があることから縄文時代の初めの頃には既に伝来したと確認されている。

鳥浜貝塚からはヒョウタンの他にウリ・エゴマ・リョクトウ・アブラナ・ゴボウなどの食用することの出来る野菜の植物遺体も見つかっているそうで、ここから発見された丸木舟の材料はウルシの木であったという。

瓢箪は食用に供すことの出来るものと、毒性があって食用することの出来ないものとがあり、苦味が強く毒性のあるものを食すと激しい腹痛と下痢とを引き起こすことが知られているが、ここ鳥浜遺跡からの出土物について触れられたものを見ると、ヒョウタン・ユウガオ・ウリと記してあって、果たしてこれらが同一のものを指しているのか?。それともそれぞれ別種のものを指しているのかが私には汲み取れないが、元々はユウガオとヒョウタンとは同一種であるとされ、ユウガオはヒョウタンから改良され食用されるようになったものだと言われているし、干瓢と呼ばれて巻寿司の具としても馴染み深いし、味噌汁の具として私も何度か口にしたことがあるから、出土したものが、それぞれ別種なのか同種のものなのか気にはなる。

ユウガオもヒョウタンと共に器として利用され、土産物店に売られているのを目にすることがあるが、ここで面白いと思ったのは、これらの器は現在では果皮の両面にウレタン樹脂などが塗られてあるのが殆どだが、少し前までは柿渋が塗布されたもののようで、こうした処理は果皮からの漏水防止の為に行われるものだが、これらに代わる塗料として当時にはウルシが考えられ、ここ鳥浜からはウルシの木で出来た丸木舟やウルシが塗られた櫛なども出土しているし、このウルシにベンガラや煤を混ぜて赤色や黒色に着色する為に、溶剤としてエゴマの油が使われるが、このエゴマも見つかっていることを見ると、出土品としては見当たらないが、ヒョウタンやユウガオが容器として利用されていたのだとしたら、これにウルシを塗って水漏れを防ぐことを図っていた可能性は考えられるのだが・・・。

ただ、三條屋のお爺さんから教えられたような中の水が冷えるような状況には、ウルシや塗料を厚くに塗ってしまったら成らなくなってしまうだろうと思う。

ヒョウタンやユウガオで作られた器は、果皮には極々小さな穴が開いていて、外気との呼吸が行われていて、中の水分が僅かに染み出し、これが蒸散される時に気化熱を奪われることによって、結果、「冷えている水」といった感覚の得られる様にとなっているのだろうから、その部分に塗膜を作り覆うようにしてしまえば、その効果は失われてしまうだろう。

実際が如何なのか私自身で試したことは無く想像でしかないが、先にも記したように、ヒョウタンの中に保存した植物の種は「発芽しないものは無い」と云われるくらいで、こうした器の持つ特質みたいなものも作用するのではないのだろうかと考えられる。

中国の創世神である女媧と伏儀は洪水が起こった時に、このヒョウタンの中に逃れ生き残り、人類の祖先になったと言う。

私の初節句の時に鴻巣の人形やから買い求めたという端午飾りの中には、金色の千成瓢箪の飾りがあって、何故飾られるのか子供心にも気になって祖母に聞いてみたことがあり、「太閤様のように出世するようにとか、子供が多く出来て家が栄えるようにといった意味だ」と聞かさらたが、それもいつしか私の遊び道具に化けてしまい、皆、散々にしてしまい飾りはすっかりと壊してしまった。

夏祭りの際には浴衣に三尺帯を締め、そこには瓢箪の根付の付いた巾着を提げ町へと送り出されたものだったが、こちらは「魔除けのお守り」だとの説明を受けたことも思い出す。

どうもヒョウタンには特別な霊力が秘められ、器の中には神霊が宿ると考えられたのだろうことが、これらのことからも窺うことが出来るように思える。

つづく
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おんべかつぎ19

2014-09-09 23:25:02 | おんべかつぎ
広く「杓子(シャクシ)」と捉えることの出来る「柄杓(ヒシャク)」・「杓文字(シャモジ)」に関連して、私自身が今まで見聞した事例を取り出して記して見たが、こうした民俗も現在ではすっかりと廃れ去ってしまい、ここに挙げ出した島護産泰神社でも底なしの柄杓を産婦が神前に供える姿はなくなってしまっているし、越谷の石神井神社でもかつてこうした習わしの在ったことを物語るようにして埃を被ったシャモジが人の目を避けるように遺物として残されていた。

それは天沼神社でも鳩山のおしゃもじ様でも同様ではないかと思われる。

現在でも、「底なしの柄杓」が供えられる神社としては、私の知る限り産泰神社の本社とされる群馬県の旧・粕川村(現・前橋市)に鎮座する産泰神社や東京府中の大国魂神社の摂社である宮乃神社(みやのめじんじゃ)くらいなもので他には知らないし、「杓文字」の方については、この周辺地域での例は全く知らない。

   
大国魂神社摂社 宮乃(売)神社

   
底にドリルで穿たれた穴のある柄杓が供えられていた 


宮乃(売)神社・説明板


かつては、こうした民俗の習わしが特別に珍しいものでも無く、柄杓(ヒシャク)や杓文字(シャモジ)のお供えされる例は全国的に見たら枚挙するとキリの無い位に存在していたようで、特に東日本に濃密に分布していたことが知られていて、当然ながら民俗に対してに関心を持った人々の注目も浴び、既に数多くの学者・研究者によっての考究も成されている。

私は私でこうした学問的な立場からではなく、主に我が体操との関わりから、こうした民俗の信仰の背景に上古の人たちの持っていた身体観や宇宙観が見えて来るのではないかといった期待もあって、素人としての視点から随分と以前から興味や関心を抱いて来ていた。

十代の半ばの頃に、伯母から従姉の出産の時に底の抜けたヒシャクを納めに神社に参ったという話を聞かされた時、底の抜けたヒシャクを何故に神社に納める必要があるのかが解らず、伯母に向かってその理由を必要に聞き質したものだった。

「お産が軽く済むようにといったマジナイなんだんべがな。昔からの仕来りなんだよ!!」とは教えられたものの、今一つ納得が出来ずに「へぇ~そんなもんなんだ」と思いつつ、同時に、腹の内では密かに、底無しのヒシャクから水が容易に抜け落ちる様子からは、安産どころか反対に身籠った赤ん坊が流れ落ちてしまうことだって連想出来るのに、そうは考えなかったのだろうか?。と訝しく思ったりもしたことを憶えている。


柄杓や杓文字に強い関心を抱いた最初の人物であるとも言えるだろう柳田國男翁は、【柳田國男全集4 史料としての伝説 杓子・柄杓及び瓢箪 】の中で以下のように述べておられる。

「杓子が瓢箪に始まると言う説は、杓と杓子との以前の関係を知るときは、必ずしも無理な臆断でないことを認め得る。杓は漢語においても水を斟(ク)む器の名であって、その名は古くから比佐古(ヒサコ)であった(倭名鈔)」
(赤色文字にした部分は筆者の入れたルビ)

試みに、「ひさこ」の三拍目の「コ」を濁音の「ヒサゴ」にして漢字変換してみると「杓・瓢・瓠・匏」の文字に行き当たり、なるほど、「杓子・杓文字」と「瓢箪」とが繋がりのあることが判るし、ウィキには、「ひさこ」→「ひさく」→「ひしゃく」と転訛したのだと記されてある。

つづく
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