貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

三月度長時間体操

2012-03-25 23:05:06 | イベント
本日午前10時より恒例の長時間体操を行う。

参加者は当初の予定で今月は5名の方があったのだが・・・。

それぞれの方にそれぞれの都合が生じて、結果、なごみさんお一人参加であったが、なごみさんも午後からは予定があるとのことから、午後からの会は打ち切りとした。





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辰年に寄せて 16 龍の出自

2012-03-25 08:54:29 | 辰年に寄せて
「宝珠」は云ってみれば「水の精」であり、また「水の持っているところの宝性」を表していると言えるのではではないだろうかと私は判断しているが、それでは、その宝珠を追いかけ掴んでくる龍とはいったいどんな意味を持つのだろうか?。

それには、中国で生み出された想像上の動物である「龍」がどんなことから誕生したのかについて、先ず以って知らねばならないと思って、改めていろいろと調べてみる作業をすればする程に、それ迄に私が想像していた龍に対しての印象が著しく壊されてしまい、暫らくのこと、この記事を更新することさえ出来なくなってしまった。

自分自身で思うに、どうもその原因というのは、日本での龍に対して抱く印象と中国での龍が生み出された背景には大きな隔たりを感じざるを得なく、それに戸惑わされてしまったからのように思う。

中国では北方の地(華北)には登竜門の話の元にもなっている「黄河の鯉」や「馬」や「羊」あるいは「鹿」や「犬」といった動物に寄せた信仰があって、これが龍の誕生に深く関わっていたと言う。

そこへインドから仏典が齎された際に、仏典の中に登場する「ナーガ(蛇)」を、元々中国にそれまでに在った「龍」と訳したと云われている。

釈迦が悟りを開く際には「ナーガ」が守護したと伝えられ、仏典にも扱われるようにとなったのだそうだ。

【ナーガを怒らすと干魃になり、なだめると雨を降らすと言われ、善悪の双方が居て、釈迦に帰依した者は仏典の中にナーガ・ラージャ(龍王)として取り入れられ、中でも八大龍王が有名である】

「蛇」に寄せる信仰は、中国に於いても南方の地方ではインドと同様に在ったそうで、どうも仏典が齎される以前に北方の「龍神信仰」と南方の「蛇信仰」とが一体化して、我々の知っている中国の龍となったと言う歴史が在ったらしい。

確かに、「蛇」と「龍」との姿・形に違いが在り過ぎる。

足の在る無しで見ても、蛇には足は無いし、さらに、髭や角も耳の存在等を考え合わせれば、龍の姿かたちの元になっているのが蛇だけでなく、これらの動物の存在も深く関わっていることに違いが無かろうと納得すること出来るようにも思える。

殊に馬は中国北方や西域では特別に存在感のある動物であろうし、中国の中でも北方の文化と南方の文化とで違いがあったとしても、ごくごく当たり前のことでもあるし何の不思議なことではないのだが、龍が蛇とは全く違う動物として想定されて誕生したと言う説に触れて少々面食らったと言うのが正直な気持ちである。

若い日のことである。上野の国立博物館で中国甘粛省武威県の墳墓から発掘されたという「馬踏飛燕」を見学した時の驚きを思い出す。

翼を広げ飛翔する小さな燕の背の上に奔馬が一本の足を乗せ、天を駆けている姿を象ったに違いないと思える銅製の見事な漢代の像であったが、きっとあの天馬の姿も馬が「龍」の元(龍馬)にもなっていることを示していたのかも知れないと思える。

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辰年に寄せて 15 宝珠Ⅱ

2012-03-02 21:40:49 | 辰年に寄せて
前回の記事を読んでくれた方より、「引用されてある文章は何のことを言っているのか?。何処の部分を指して「我が意を得たり」と思われたのか全然解らない」と言われた。

私にとっても難解な仏教語が混じる古文など深く理解出来得るべくもない事であるから、こう指摘されても正直な所その答えに窮してしまったのだが、だからと言って、ここでこの「摩訶止観」の一節について詳しく調べ上げ解読を試みようとも思わない。

私にとっては問題としている「宝珠」について、「天上の勝れた宝」・「状(カタチ)は芥子粒や粟粒のようなもの」であると述べられてあったことだけで充分に感激するに値する。
さらに、その原文に対しての注釈だと思われる行にあるように、病気や苦悩を癒(いや)し、悪を除去し、濁(にご)った水を清らかにし、災禍(さいか)を防ぐ効能があると記されてあったことに対して「我が意を得たり」と感じたのである。

先にも記したように、「宝珠」についてはずっと以前から私は「水の雫・雨粒」を象ったものであろうと勝手に解釈して来たが、それをこの一文が傍証してくれているようにと受け止めたまでのこと。

目を転じると、同じ仏教の世界観の中に「五大」がある。

宇宙(世界)は、地・水・風・火・空の五つの構成要素に拠って成り立っていると見る見方であるが、密教ではこれを「五輪」とも呼び、この思想をもとにして造立する塔婆が「五輪塔」だが、その最上部に位置づく「空(くう)」を表すカタチも「宝珠」である。

空の実相を表すのに宝珠が用いられる事実や宝珠の姿が芥子粒や粟粒に擬えられることとも考え合わせると、やはり、宝珠は「水の粒」と云うことで間違いではないのではないかとする確信を深められるし、さらに、「氣」の文字は湯気が昇って行く様を表しす象形であるとされることとの関連からしても、大気中に含まれた水分を指して「宝珠」と捉えられているのではないだろうかと想像できる。

「昇り龍」の追う宝珠は実際のところは、粟粒や芥子粒よりももっともっと微細で目にすることは出来ずに天空へと舞い昇り、昇り詰めると天空の冷気で雲となり、水分子は激しくぶつかり合い揉まれながらさらに高分子化され雨の粒にと成る。

その雨粒こそ「降り龍」が天空から地上へと舞い降って来る際に掴み取って来る「宝珠」であろう。


宝珠の画像

稲荷神社の幟旗に描かれた宝珠

六地蔵が手にする宝珠


五輪塔の最上部の宝珠


三重塔の最上部の宝珠


観音堂の屋根の天辺の宝珠
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