前回の記事を読んでくれた方より、「引用されてある文章は何のことを言っているのか?。何処の部分を指して「我が意を得たり」と思われたのか全然解らない」と言われた。
私にとっても難解な仏教語が混じる古文など深く理解出来得るべくもない事であるから、こう指摘されても正直な所その答えに窮してしまったのだが、だからと言って、ここでこの「摩訶止観」の一節について詳しく調べ上げ解読を試みようとも思わない。
私にとっては問題としている「宝珠」について、「天上の勝れた宝」・「状(カタチ)は芥子粒や粟粒のようなもの」であると述べられてあったことだけで充分に感激するに値する。
さらに、その原文に対しての注釈だと思われる行にあるように、病気や苦悩を癒(いや)し、悪を除去し、濁(にご)った水を清らかにし、災禍(さいか)を防ぐ効能があると記されてあったことに対して「我が意を得たり」と感じたのである。
先にも記したように、「宝珠」についてはずっと以前から私は「水の雫・雨粒」を象ったものであろうと勝手に解釈して来たが、それをこの一文が傍証してくれているようにと受け止めたまでのこと。
目を転じると、同じ仏教の世界観の中に「五大」がある。
宇宙(世界)は、地・水・風・火・空の五つの構成要素に拠って成り立っていると見る見方であるが、密教ではこれを「五輪」とも呼び、この思想をもとにして造立する塔婆が「五輪塔」だが、その最上部に位置づく「空(くう)」を表すカタチも「宝珠」である。
空の実相を表すのに宝珠が用いられる事実や宝珠の姿が芥子粒や粟粒に擬えられることとも考え合わせると、やはり、宝珠は「水の粒」と云うことで間違いではないのではないかとする確信を深められるし、さらに、「氣」の文字は湯気が昇って行く様を表しす象形であるとされることとの関連からしても、大気中に含まれた水分を指して「宝珠」と捉えられているのではないだろうかと想像できる。
「昇り龍」の追う宝珠は実際のところは、粟粒や芥子粒よりももっともっと微細で目にすることは出来ずに天空へと舞い昇り、昇り詰めると天空の冷気で雲となり、水分子は激しくぶつかり合い揉まれながらさらに高分子化され雨の粒にと成る。
その雨粒こそ「降り龍」が天空から地上へと舞い降って来る際に掴み取って来る「宝珠」であろう。
宝珠の画像
稲荷神社の幟旗に描かれた宝珠
六地蔵が手にする宝珠
五輪塔の最上部の宝珠
三重塔の最上部の宝珠
観音堂の屋根の天辺の宝珠