貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

オオカミとイヌ Ⅶ

2008-11-30 12:00:37 | 息の緒

その当時は現在のように火葬されたお骨が四十九日まで自宅に安置され、祭壇を設けられてから後に墓地にと埋葬されるのとは違い、死後の供養というものも今と比較すると随分と丁寧でありました。

最低でも七日ごとに初七日、二七日といった具合に六回は墓地へとお参りして、前述したところの塔婆を七日ごとに引っくり返して帰ってきたものでしたが、その七日ごとのお参りには欠かさずに私も祖母と一緒に二人で、老人と子供の足では片道歩いて20分くらいかかる道のりを寺の墓地までと出向いたのでした。

四十九日の法要もしっかりと執り行われ、今のように告別式と合わせて済ませてしまうなどといったことはありませんでした。

この七日ごとの墓参りの際には、祖母より聞かされたようにして、イヌやタヌキによって墓荒らしがされて、撥ね竹が実際にその役目を果たさねばならないようになってしまったものかどうか、毎回それが気になって、墓地に着くと線香や花を手向けるよりも何よりも先に、念入りに墓の状況を確認することがまず第一番目の私の役目であるかのようにして、墳丘にこれらの痕跡があるかどうか検査したものです。

「掘り返された痕はねぇから、お爺さん喰われねぇで良かったんねぇ」

「あぁ、今じゃ、そんな事も起こらねぇだんべけんどもなぁ、昔にはあったみてぇだいなぁ」

「イヌって言うんなぁ、おっかねぇ(怖い)んだね」

「あぁ、おっかねせともさ、死んだ人を喰い散らかすだけじゃぁねぇぞ、表ん家のよっちゃんだって咬み付かれたことがあったんべがな、時によっちゃぁ、生きてるモンにだって咬み付いてくることだってあるんだからな」

「ふう~ん、じゃぁ、イヌにヤラレソウニなった時にゃぁ、どうするん?。逃げるしかねぇんかい?」

「な~に逃げちゃぁなんねぇ。逃げたってイヌにかないっこねぇだんべがな、逃げたら喰いつかれるだけだぞ」

「そんじゃぁ、どうするん?」

「イヌの目を睨み付けながらなぁ、こうやって右手の親指を他の指で包みこむようにして拳をつくるんだ。そしたら、その拳をイヌに向かって突き出して、『イヌヨ、イネ』とおっきな声を出して何回もお唱えすれば、イヌの方が逃げ出して行くって昔から言われているんだから、おめぇも犬に咬み付かれそうにでもなった時にゃぁ、このことを良く憶えておいてやってみろやい」

何度目かの墓参りの時、祖母とこんなやり取りがあり、イヌに襲われそうになった時のイヌの撃退法も教わったのでしたが、正直なところ、この方法を教わった時からの時間が半世紀も経ってしまっていますから、イヌに対して発する言葉が「イヌヨイネ」であったのか「イヌヨイヌレ」であったのか、どちらが正しかったか今一つ正確に思い出せないのです。(どちらかだったのですが)

この話を聞いてから後、今現在に至る迄の間、私はイヌに襲われた事はお蔭様でありませんでしたから、祖母から教えられた、このイヌの撃退法を実際に試したことはありません。

この呪文のような言葉は、内容としては犬に対して「立ち去れ」と命令を下しているのでしょうが、「イヌヨ(犬よ)」に続く、後の「イネ」であっても「イヌレ」の語であっても、現代語の用例の中に見出すことは出来ませんし、埼玉県北部の方言の中にも見出すことが出来ないのです。

こうした事実については随分と若い頃から私には気にかかっていたことでした。

試みにGOO辞書「大辞林」で検索してみると「イヌ」については
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%A4%A4%CC&kind=jn&mode=0&base=1&row=3

「イヌル」については
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%A4%A4%CC%A4%EB&kind=jn&mode=0&kwassist=0

とあり、祖母が教えてくれた言葉の用向きからして、これらに記されてある意味からして、それを分かりやすく漢字表記したら「去ね・往ね」ないしは「去ぬる・往ぬる」が相応しいのではないかと思われます。

ただ、ここには私の聞いた「イネ」や「イヌレ」の双方ともの語は掲載されてはいませんでした。もとより古語についての素養など持ち合わせぬわが身ですから、「イネ」や「イヌレ」の語が、「イヌ」や「イヌル」といった語の活用形の中にあるものなのかどうか分かりかねますが、私的には「去ね・往ね」や「去ぬれ・往ぬれ」が「イヌ」という動詞の命令形として在っても不自然ではないようにも考えるのですが・・・どうなのでしょうか?

関西や,特に中国地方では、まだ年配者の中には「イヌ」や「イヌル」を使われる方もあるとかですが、私の周りではあまり聞き覚えの無い言葉で、祖母がこの時に教えてくれた例以外には耳にしたことが私には無いのです。

古い時代に使われていた「古語」であることには違いがないようですから、恐らく、この呪文のようなお唱えのような「イヌ(犬)を追い払うための言葉」は、祖母の言った通りに、古い昔から伝わってきたものではなかったかと私にも想像されるのです。

さらに、この言葉によって撃退しなければならなかった対象の「イヌ(犬)」というのは、「野犬」であっても「ヤマイヌ」であっても「オオカミ」であっても、その区別はきっと無かったのではないかと考えるのです。

凶暴そうな広義での「イヌ」と遭遇した時に、こうした方法をとると良いとした伝承があることを、祖母を介して私が伝えられたことだったのではなかったと感じているのです。

どなたか同じような体験をお持ちの方があったら、是非にも教えていただきたいものだと思います。

併せて、この言葉をイヌに向かって発する時に親指を他の指で握り込み拳を作りながら命令する。といった所作に何らかの意味合いがあるかどうかについて、これを「和らぎ体操」的に理解すると、言葉を唱えながらこうした所作の形をとることによって、襲われそうになった時、その人の心の動揺を抑える働きがあることになるのですが・・・・・

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オオカミとイヌ Ⅵ

2008-11-27 01:12:23 | 息の緒

「よっちゃん」が犬の「ハチ」に咬まれた時にはどうであったか記憶されていませんが、イヌが人間に危害を与えることのある例を、いやが上にも印象付けられ、未だに明確な記憶として私の中にと残っていることがあります。

それは「よっちゃんの事件」から数年経って、私の祖父が亡くなり、その遺骸が土葬によって埋葬された時の出来事でした。

祖父が亡くなった事によって、我が家では初めて自家の墓地を持つことになったのでしたが、祖父の生前からの「死んだら○○寺に土葬で埋めて欲しい」と言っていた言葉に従い、祖父の亡くなった日の内に、希望していた寺へと父が出向き、寺から墓地を分けていただいて来たのでしたが、ここに墓穴を掘ってくれたのは前出の「カメちゃん」でした。

遺骸を納めた棺を墓地へと運び、掘り立てのこの墓穴へと埋め入れたのですが、埋め終えた後には小さな墳丘が作られます。祖父の棺は「寝棺」ではなくて「座棺」でしたから、作られた墳丘の形はやや長方形した「方墳」状の形をしたものとなりました。

墳丘の後ろには墓標の木柱を立て、その手前には七日毎、四十九日までの七回、墓に詣でる度に木札を返す(名はなんと呼ぶのでしょうか?)ようにとするモノが差し込まれ、冥土にと向かう旅で死者が使うとされる竹杖が立てられました。その竹杖は節が全て抜かれていて最上部には半紙が掛けられ、それを生麻で括り縛ってあります。

墳丘の上部は平らに均され、ここには死者の為の食事が生前愛用された飯茶碗に山盛りのご飯がよそられ、そのご飯には祖父愛用の箸が突き立てられ、椀と湯飲茶碗が逆さ膳にされた状態でお供えされたのですが、これらをお供えする前のこと、墳丘の周りを青竹を使っての「飾りつけ」が成されて行くのを、子供だった私はこれに強く気を引かれたのです。

その頃には、土葬で死者を埋葬するということになると、葬儀を出す家には青竹が一本必ず用意され、器用な近所のおじさんがこれを捌き、葬送のために使われる用具を、限られた時間内に忙しく手を動かしながら、この竹を使って作り出している姿を見かけたものでした。

作り出された用具としては、死者が冥土への旅に使う「杖」。墓前に生花をお供えするのに使う「花立て」。会葬者が葬列を組んで墓地まで行く際に手にする「ハナ」の軸として使うための楊枝のようなもの(これについては、何かの機会に改めて触れることが出来たらと思っています)。墳丘の土留めのために使う細身の短冊状にした竹片と、これを刺し止める為にと使う竹の皮の部分を残して、竹の肉の部分は剥い去ったもの。等だったのですが、気にかかった墳丘の「飾りつけ」は、この細身の短冊状に裂いた竹片を竹皮の部分で作られた長さが10cm位あったでしょうか、やっぱり短冊状したもので刺し止めて形作られていったのです。

小さな方形をした墳丘の正面には、この竹材で「梯」を模したものが作られた以外、「飾りつけ」は、ちょうど「笊」を被せた様な見映えのモノでした。

墓作りは会葬者の一人一人が手出しをして、皆で参加して行われましたから、私も大人たちのする行為を見よう見まねで「竹皮」を二つ折りにしながら「竹片」を据え付けるように墓土に刺し入れ、これを留め付けたのでした。

不思議に思った私はすぐさま、何時ものようにして判らないことや不思議に思ったことが生じた時に答えを得るための頼みにしていた祖母に聞いてみたのです。

「何で、こんな風に竹の皮を二つ折りにして土に刺しいれるんだい」

祖母は答えて次のように言ったのです。

「人が死ぬとなぁ、鼻の良いヤマイヌやタヌキなんかがその臭いを嗅ぎつけて、シンボトケ(新仏)の埋められた墓場をホックリカエシ(掘り返し)に来て、食べてしまう事があるんだいなぁ、そん時に、前足や鼻っつらにハネタケ(撥ね竹)が撥ねてアタリャァ、逃げ出して行くダンベガナ。ああ風に撥ね竹刺しとくんなぁ、仏様がそいつらに食われねぇようにするためにするんさ」

この言葉を聴かされた時、イヌやタヌキがそんな行動をすることがあるものなのだろうかと思いもしましたし、想像するだけでも空恐ろしいものを感じたものです。

そして同時に、祖母が言ったヤマイヌという言葉が気にかかったのでしたが、この時には単に山に棲んでいるイヌのことで、野良犬や野犬と呼ばれるものたちと同じものだろうと勝手に決め込んだように憶えています。言った当人である祖母自身が何を指してヤマイヌと言ったのか?。それはオオカミの別称としてだったのか、飼われていたイヌが野良犬や野犬となったものを指していたのか、今となっては確かめることは出来ません。

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オオカミとイヌ Ⅴ

2008-11-14 23:24:38 | 息の緒

私が小学校の2年生の頃であったと思いますから、今からしたら既に半世紀以上の前のことであります。
隣家に私よりも一歳年下の男児がいて、名を「よっちゃん」と言いました。
この子が小学校へと通い始めて間が無い時ではなかったかと記憶するのですが、学校のすぐ近くの文房具屋さんの家の飼犬の「ハチ」に咬みつかれたことがありました。

隣家とこの文房具屋さんとは親戚であったのか、或いは知り合いであったのか詳しくは判りませんが、そこのご主人が度々隣家に顔を出していたことを憶えていますから、お互いに極々親しい間柄の家同士であったのでしょう。

恐らくこんなこともあって、「よっちゃん」はこの家で飼われていたイヌにも気安く接しようとしたに違いありません。イヌが居たのは店先ではなく、裏庭であった様子でしたから、きっと、顔なじみのオジサンにでも導かれて、店先から裏庭の方へと回りこみ、イヌの傍へと近づいての事故であったのだと思います。

私が学校から帰宅すると、何やら隣家と我が家とで騒がしい状態でした。ここで私は「よっちゃん」が、イヌの「ハチ」に咬まれたことをはじめて知ったのでしたが、当のよっちゃんは近くにあった日赤病院へと運ばれ治療を受けている最中と言うことでした。しばらくすると、よっちゃんのお母さんであるオバサンが顔を引きつらせて一旦家へと帰ってきたのです。

オバサンは私の祖母をつかまえて「オバサンどうしよう、良夫が狂犬病にでも罹ってでもしたら・・・。狂犬病に罹ったら涎を垂らしながら四つん這いになって、狂ったようにして駆けずり回って、死んでしまうって言うからさー・・・」そのあわてぶりは大変なものでした。

「キョーケンビョー」って何なのだろう?
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsvs/05_byouki/infect/01-rabies.html
祖母は「大丈夫だよ!!。な~にそのうち、きっと良くなるよ」と、そー言ってなだめるだけでした。

「よっちゃん」は、幾日かすると何事も無く、元の元気な子供にと戻ったのです。

今でこそ「狂犬病」と聞かされても、さして注意を向けるでも無く私たちは日々生活していますが、「よっちゃん」が「ハチ」に咬まれた当時は、暮らしの中で「狂犬病」が取り沙汰されることも否応なしにあったのです。
実際に罹病した者を見たと言うことは私には勿論ありませんが、我が家にはその頃「犬殺しのカメちゃん」と呼ばれていたオジサンが時たま遊びに顔を出すことがあって、このオジサンが話す「野犬狩り」の様子を聞くことも、子供の頃に何度もありました。

このオジサン。その当時保健所からの委託を受けて「野犬狩り」をしていたのですが、よく口にしていたのはこんな言葉でした「俺たちゃーにゃぁー、イヌの事は良く判るんサー、飼われていたもんは直ぐ、とっ捕まえられるけんども、スレタやつはワッカ持っていっても、毒餌くれてもテンで手におえねーよ。そこんとこをとっ捕まえるんが商売人だーな」

日本では何十年も「狂犬病」による死者は出ていないと言うことですが、中学1.2年生の頃であったと思います。従姉弟の家で飼っていた犬が野犬狩りにあって、この捕まった犬を保健所まで従姉弟と二人で引き取りに行ったこともありましたが、「野犬狩り」の話はここのところトンと聞いたことがありません。犬の飼い主のマナーも良くなり、放し飼いで飼われている犬も殆ど見かけませんし、「狂犬病」という感染症も人々の意識から外れるようになっていますが、未だに世界中では年間に5万人が命を落とすと言う怖い病気です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E7%8A%AC%E7%97%85

江戸の中期、私の生地の辺りで殺されたオオカミ。この頃の生息場所としての可能性からしたら、恐らく外秩父の連山辺りまでではなかったかと想像するのですが、平坦な扇状地の野まで下りて出て来たのは、やはり彼が病犬・狂犬といった状況からであったでしょうし、ましてや、昼日中に農地の畔に突っ伏して寝ていて、婦女子の突き立てた槍に打ち負かされるなどオオカミとしては尋常なことではありません。

きっと、狂犬病に感染した個体が、その影響によって脳を侵され興奮状態となり、普段の生活域から出て人を咬み殺し、いよいよ病状が進行して死に近づいた状況で、殺した男の妻に仇を取られたものでなかったかと私は思うのです。

隣家のオバサンが息子を心配して言った「四つん這いになって、涎を垂らし・・」とは、イヌそのものの姿であって、狂犬病に感染すれば人間もイヌの様な姿形を取るようにと成る。と当時の人たちには思い込まれていたのかも知れません。

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オオカミとイヌ Ⅳ

2008-11-12 12:08:27 | 息の緒

昭和の初期の段階で、秩父犬は絶滅してしまっていて、十石犬も川上犬も一度は絶滅をしかけたこともあったということですが、一方、これらの大本の先祖に当たるとされるニホンオオカミは、これらよりも先、公式には明治38年に絶滅をしたとされています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C#.E3.82.A4.E3.83.8C.E3.81.AE.E8.B5.B7.E6.BA.90

ニホンオオカミが絶滅をしなければならなかった理由については、大勢の方が享保年間(1716~1735)に長崎から広まったとされる狂犬病が、イヌだけに留まらずオオカミにも伝染して、その猛威からニホンオオカミが絶滅する原因となったと指摘されておられますが、他にもいろいろな要因、例えば、焼畑農地の拡大やこれに伴ってオオカミの捕獲動物であるシカの生息数の減少、自然環境の変化が彼らが生息するには不適となったなども背景としてあって、その個体数を減少させていったのでありましょう。

狂犬病が蔓延したとされる享保の後、寛延二年(1749年)に刊行された怪異奇談集である「新著聞集」という書物に、私の生地である武州榛沢郡(はんざわごおり)で起きたとされる以下のような話が載っています。

鰥婦(かんぷ)狼を害す
武州榛沢郡ひかや村の、庄左衛門といふ者、耕作に出て、狼にくひ殺されしを、二十歳ばかりの妻、いか計口惜き事におもひ、いかにもしても狼をうちとらんと、九尺柄の手槍を提げ、方々と尋求めしに、ある畔に、大なる狼ふし居たるを、これぞ夫のかたきぞと、悦びいさみ、件の槍をとりなをし、咽より上につき立てしに、狼奮ひ怒て、起きあがらんとせしかど、中々槍を放たずして、声をたてければ、人あまた駈来たり、つゐに打殺してけり、舅、その志の貞節なるを感じ、聟を取て、家をつがせけるとなり。(「日本随筆大成」吉川弘文館)

まず、表題の鰥婦とは、平易にいったら「後家さん」というほどの意味のようです。
文意は、オオカミに夫を食い殺された年若い妻が、その仇を打とう長柄の槍を持ち方々を探し回ったところ、農地の畔に臥しているオオカミを見つけ、そのオオカミの咽元に槍を突き立てたもののオオカミの抵抗に遭い往生している所へ大勢の人たちが寄って来て、これを打ちつけ絶命させた。義父は、その志に感じ入り、この嫁に婿をとって家を継がせた。と言うことでしょう。

ここに登場して、人を食い殺した挙句に殺されたというオオカミは、狂犬病が大流行した享保の時代と、これを載せている「新著聞集」の刊行された時期とに、時間的な隔たりが無いことからして、おそらく狂犬病に罹っていたに違いがないと思われます。

榛沢郡とは、地理的に見たら埼玉県の北部。荒川が平野部へと流れ出た所で扇状地を形作りますが、その扇状地の部分と、それに続く地を利根川まで広げた地域の村々によって構成されています。

古くは奈良時代に、現在の深谷市岡部町岡の中宿に郡衙が在ったようです。

それはさておき、この書に記載されている「ひかや村」というのは、実際には榛沢郡中に実在せず、多分、誤表記されたのではないかと思われますが、「ひかや」に一番近しいのは「ふかや」ではないかと考えますが、これも、この書が刊行された江戸時代には「深谷宿」と書き表されるのが普通ですから、今一つはっきりと断定する訳にもいきません。

前述した南牧村の北、下仁田から佐久へと抜ける内山峠の佐久市側の大月という集落で、天明八年(1788年)に起こった、11歳の少年の亀松がオオカミに咬み付かれた父親を助けたという同じような話が知られています。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~benchang/usagi3.htm

前の話と違って、こちらは咬まれた父親は助かって、その後に傷も癒えたとありますから、咬み付いたオオカミは狂犬病に罹っていた訳でもなさそうです。

この頃から、きっとオオカミはその数を著しく減らしていったのでありましょう。田畑を害獣から守る神の使いとしての益獣から、狂犬病に罹ってと、人に手による農地拡大に伴う開発で自然環境が変化して、捕食していた動物の生息数の減少から、時には人をも襲う凶獣とされるようにとなって盛んに狩り立てられたということもあったようです。

想像すれば、狂犬病に罹るのはオオカミばかりではなく、縄文以降、山間部には伝統的に継続してきたであろう狩猟文化を側面から支え続けた存在としての「地犬」もその被害に遇ったことだったでしょうし、オオカミにとっての捕獲獣が減ったことは、取りも直さず、こうした狩猟文化を衰退させることにも繋がったことでしょうから、そうした意味からしてもオオカミにとっても地方の固有種たる地犬にとっても受難の時期に当たったのではないかと思われます。

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懇親旅行のご案内

2008-11-09 01:29:44 | イベント報告

懇親旅行のご案内 

貞観法・和らぎ体操研究会では以下の通り、会員さんを中心にしての懇親旅行(月例の「歩く会」の拡大版として)
を行います。奮ってご参加ください。

  期日・・・・2001年5月23日(土)~24日(
  場所・・・・福島県南会津方面(旧舘岩村を中心に)
    http://kankou.tateiwa.org/index.htm#

茅葺民家の集落や田代湿原を歩く旅としたく考えています。

 詳しくは、追って当ブログ上にてお知らせいたします。

 参加希望の方はご連絡をお願いいたします。
 

11/30日現在 参加希望者

山下さん夫妻・ファンキーさん・珍竹林さん夫妻+娘さん・佐藤さん・ゆうさん・なごみさん夫妻・石井さん夫妻・あのさん・ジョーカン。

只今14名です。

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