貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

長時間体操行われる

2011-08-28 21:20:35 | イベント
回数も何回目になるのか何時しか解らなくなってしまったが、我が研究会恒例の「長時間体操」。

本日午前十時より実施された。

事前に参加者として承知していたのは、毎回参加して下さる「浦和みどり」さんのみ。

長時間体操が行なわれるようにとなる以前、やはり毎月の定例として行っていた「歩く会」も、だんだんと参加される方も無くなり、最後の方になっては浦和みどりさんばかりになってしまった。

長時間体操を始めた当初は数名の参加者も居たが、「歩く会」の時と同様に「長時間体操」も尻窄みのようにとなって来て、最近では極少人数となって来ていた。

別段意固地になっている訳でもなかったが、これも仕方のないことだと悟って、たとえ参加者がお一人であってもやり続けようと心していた。

当日である今朝、赤坂のOさんより連絡があって「参加する」との連絡を受ける。

これで今日は2名の参加者になったと喜んだ。

「浦和みどり」さんと「O」さんとで午前中過ごしていたら、昼近くになって「午後からの参加でもよろしいですか?」との電話が「なごみ」さんから入る。

「なごみ」さんは旦那さんと現れ、これで参加者は4名となった。

午後になって「O」さんは帰路についたが、3時迄「浦和みどり」さん・「なごみ」さんご夫妻。の3名で体操を続けた。

今回は皆さんに向かって、特別、参加を促すように声を掛けることもせず、この場で日柄をお知らせしたのみであったから、尚更のこと、こうして4名参加いただけたことは何とも嬉しい限りである。

しかも参加の皆さん、普段より体操によって自助努力のみで体調維持に取り組んでおられる方達ばかりで、特にOさんは体操のやり方に得心されたことがあって「楽な状態」を何時もより強く実感されて帰って行かれた。

皆さんお疲れ様でした。

来月にも是非参加して下さって、より長時間続ける体操によって得られる感覚を実感して下されるようと思います。
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道場 3

2011-08-26 01:13:28 | 日記
「教える者」がいて「教わる者」があって成り立つような体操では無い。と私自身は思っている。

確かに体操の行い方を考案して来たのは私自身である。

ガンで妹を亡くしたのを切っ掛けにして、少しはヒト様に対して健康維持に役立てて貰うことが出来るのではといった思いからスタートしたことであるが、その基となる考え方や捉え方は何一つとして私の創り出したものなどは無い。

自分自身の身体や縁あった人たちの身体を通して、、どのような方向や角度に腕や脚・体幹を向け、息を呼気にしたら良いのか?。吸気にしたら良いのか?。

いろいろと試行して結果を得ながら、身体に作られた痛みやつれや凝りといった異常を消せる手立てを追い求めて来た結果を体操法として組み立て来たに過ぎない。

そんな中から、身体に聞(貞)いて看(観)てみて、その答えに従って行う体操といった意味合いから「貞観法」といった、今の時代には不向きであるかも知れない、その名称としたのである。

公民館での活動では、さすがに意味が汲みとって貰えないせいもあったかも知れないし、また、呼び名がこ難しくも感じられるせいもあってか?、「和らぎ体操研究会」と呼称されるようになっている。

「和らぎ」については、偏りがなく中庸で和んだ状態を志向するといった意味合いのものだが、敢えて「研究会」最後に付けて頂くようにとしたのにも訳がある。

参加して下されるお一人お一人が、自身の身体から伝えられる声に従い、いろいろと思いを巡らしながら「研究」していって成り立たせられるような「体操の会」としたいといった思いからのことである。

このようなことからも「教室」といった呼び方にはどうしても馴染めず、今もこれからも、時代錯誤かも知れない「道場」という呼び名で通そうと思っている。

つづく
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道場 2

2011-08-19 11:11:56 | 日記
我が和らぎ体操研究会も、さいたま市吉野町に開設するようになってから、早いもので丸15年以上の時が過ぎたが、現在では体操を行う場所を「道場」と私は呼ぶようにしている。

「道場」と呼ぶに相応しいものかどうか?????。

振り返った時、一番最初に産業道路に面した窓のガラス面にカッティングシートを使い、私が揮毫した文字で「貞観法・和らぎ体操研究会修練場」と記したのを思い出す。

身体を練って、練って、練り抜いて修める場所たらん。という気負いと思いとがあった上でのことである。

未だオームの事件が口の端に上る頃であったから、通りすがりの人がこれを見て関係のある場所のようにも受け取られたらしい。

幾人かの人達から「修練場」は、古めかしくて何か怪しい印象を与えるから止めた方が良いのでは・・・。と言った意見を寄せてくれ、その指摘に従うようにして、窓面の「修練場」の文字だけ剥がし去ったものだった。

今でも、窓面のシートの地にはよく見透かしてみると「修練場」の文字の跡が判読出来る。

その後、川口にも体操を行う場所を設けるようになった時、「教室」が一般的で通りが良いとの意見を取り入れ、暫くの間、体操を行う場所を指して「教室」を使った居たのだったが、私にはどうしてもこれが馴染めなかった。

強く言葉や文字に拘っている訳でも無い心算だが、「教える場所」といった意味合いを持つ「教室」は私にとって抵抗感があった。

つづく
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道場

2011-08-19 01:20:25 | 日記

今から5・6年前になるだろうか?

知人から新聞記事として読んだのだと云う話を聞かされたことがあった。

高校の国語の教師が卒業式の時に「極道」と書いた襷をかけて式に臨んだのだという。

「えっ。嘘だろ」と思わず私は声を上げてしまった。

この教師「極道」の語を受け持ちクラスのスローガンにしていた。と教えられ、最早絶句状態。

「極道」の本来の意味が、仏道の道を極めた者に対する「極道者」という呼び方に従って、この語を教師は自らもそして生徒たちに向かっても標榜するに相応しいものとして扱っていたのだそうだが、どう考えても一般の通念からしたら、その筋の人たちを指す語としか受け取れないだろうと思うのだが・・・・。

卒業式でのこうした行動によって、この教師が日頃から「極道」に特別の思い入れを持って来た事実が、他の教師たちの知るところとなり結果ヒンシュクをかったそうだが、その際に「極道」がヤクザ・暴力団を指す語であることを指摘されると、「えっ。そうなんでか???」と驚いて返事したという。

この教師、本当かどうか知らないが、「極道」に、それ迄、自分が思って来た意味とは違う全く別の意味があることを知らなかったのだそうだ。

この話を聞かされた時、この教師とは反対に私自身は「極道」の語が元々は仏語だったことなど知る由もなかったからビックリさせられたものである。

世の中、いろんな事が起こるもんだと思いながらも、知らなかったとは云え、卒業式に「極道」と書き込んだ襷をかけて出席するのは、成程のこと、道を極めると書いて「極道」には違いがないが一般的に定着しているこの語に寄せる意味からしたら、さすがにマズイかろう。
 
つづく
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道場お休みのお知らせ

2011-08-14 01:22:24 | お知らせ
先月7月度に引き続き8月も、東日本大震災被災地へのボランティア活動に参加することにしました。誠に申し訳ありませんが、来る8月22日(月)を道場をお休みとさせて頂きますのでご了承下さいませ。
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