貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

ちい旅 富士浅間神社北口本宮

2017-09-20 22:54:27 | 旅行
主目的にして来たミュージアム都留での見学を終えたのは昼前であった。

さてこれからどうしようか?。と云うことになったのだが、空かさずはるおさんからの提案で「富士吉田の浅間神社に詣でて、それから昼飯にしよう」に皆同意して、都留から富士吉田へと高速を使って移動。

天気は悪くはなかったが残念ながら、高速で走行中に見える筈の富士の姿を望めることは出来なかった。

河口湖ICを出て富士浅間社北口本宮へ。

参道脇を抜けて大鳥居手前の駐車場にと車を停めた。

目の前に天空を衝くようにして建つ朱色の大鳥居、高さは18メートルあるのだそうだが、この鳥居、江戸時代の後期より60年に一度改修する仕来りになっているのだとかで、三年前にその改修が行われたようで、日本最大級の木造の鳥居と云うことになっているのだとか。

扁額には「三国第一山」とあって、神社名である「富士浅間神社」では無く、きっと、神社に対して掲げられたという意味合いよりも、富士山そのものを対象にして掲げられているのであろうが、以前に訪れた時にも同じ疑問を抱いたものだったがのだが、三国とは日本・中国(唐)・印度(天竺)の筈であって、その第一の山と云う意味になるよなぁ。
だとしたら、富士より高い山もあるのに・・・。と思いながらこれを潜った。

随身門を潜り抜け、神楽殿を脇に見ながら左手の手水舎で手や口を漱ぎ清め、拝殿へ。

拝殿の左手前には樹齢1000年以上と云われる「冨士太郎杉」(県指定天然記念物)が、地面との境の部分を周囲に張り出し漏斗を逆さにしたような形に広がった姿で立っていて、その生きて来た年代の積み重ねの嵩を教えてくれているようである。

拝殿に入り賽銭を投じて礼拝しようとする先に本殿の豪華で煌びやかな意匠が目に留まる。

十年位前になるだろうか、火祭りを見学に訪れた時、この本殿から白布の「絹垣」で四周を囲まれ、大勢の神官に護られながら、彼等のの発する「オゥ~、オゥ~」の声とともに、隣の諏訪社へと御霊移りが行われる様子を眺めたことを思い出す。

あの時に御霊が運び出された本殿は随分と立派なに飾られていたものであったっことを、あらためて知ることが出来た。(国指定重要文化財)

拝殿を出て、社殿を回り込む小道を右回りに進むと、本殿後方にももう一棟の恵比寿社が在って、後方から恵比寿・大黒の像が拝すことが出来る。

その両側に東宮・西宮と称する桧皮葺の小祠が建っていて、共に国指定重要文化財の立派な社であった。

西宮から小道を出ると、摂社の祠が一列に建ち並らんだ道に行き当たり、左手には鳥居が建ち奥にも社が見え、進んで行くと祖霊社と呼ばれる社で、この道の先は富士山へと続く富士吉田口の登山道のはじまりである。

祖霊社から戻ると、冨士太郎杉と丁度対になる位置には夫婦桧が立っていて、祖霊社を背にして左手少し奥まった所には諏訪神社が祀られていて、その社前には高天原と呼ばれる場所がある。

前回にここを訪れたのは「吉田の火祭り」の見学であったことを記したが、この時に不思議に私に思えたことがあって気に掛かっていた。

火祭りの際に浅間社から出た御神霊は一旦この諏訪社へと奉遷されるのだが、この火祭り、富士山の山仕舞いを告げる祭りであり、噴火を鎮める為の祭礼であると聞いていたのに、この浅間神社から直にお旅所へと巡行するということではなしに、何故一旦、浅間神社から、富士の山仕舞いにも噴火にも縁の無いように思われる摂社である諏訪神社へと遷されるのか、といった疑問であった。

今回、再度ここ北口本宮を訪ねたことによって、あの時の疑問が再燃することとなって、少しばかり調べて見たのだが、結果、やっとあの時の疑問が解けたように思う。

どうも、この地には冨士浅間神社が祀られるよりも前に上吉田の産土神として諏訪神社が祀られていて「諏訪の森」と呼ばれていたようで、その旧社殿は現在の北口本宮の参道の中途に在り、時宗・西念寺(今回、初めてお参りして来た)が別当寺で神仏混交の社・寺であったと云う。

おそらくのこと、諏訪神社はその後に隆盛になった富士浅間神社に取り込まれるようにして、この摂社といった位置づけられ方になったのであろう。

つまりは冨士浅間神社の富士山の山仕舞いと噴火鎮めの祭りといった側面と、元々この地の産土神である諏訪神社の秋祭り(すすき祭り)とが一体となった祭りが「吉田の火祭り」ということで、本殿の浅間社から摂社の諏訪社へと御霊が遷される訳には、こうした背景があった上に成り立っていると見れば得心の行くところとなるのではないかと知れたのだった。

諏訪社は今回は拝すことはしなかったが、浅間社の参拝を済ませ大鳥居の前を流れる清冽な疎水の流れに沿って、その流れの上にある「浅間茶屋」で少し遅い昼食を摂ることにした。

吉田と云えば饂飩で有名ではあるが、正直、私は饂飩は進んで食したいと思うものではない。

ただこの時ばかりは、何故だか食べてみようかとの気が起き、えぇ~い、「郷に入らずんば郷に従えだ。」とばかり、四人揃って同じ「海老天うどんセット」を頼んだ。

店内を見回したら、ここに思いもかけずに、火祭りの際に諏訪社から担ぎ出される「赤冨士」を象った「御山御輿」が飾られているのを見た。紛れもなく本物であると確信した。

何故、ここに飾られてあるのだろう。?と独り言のように呟くや否や、K藤さんが早速に店の人に質問して来て、「あれは今迄使われていたものを店で譲り受けて飾っているそうだよ。祭には新しく出来たものが使われているんだってさ。」と伝えてくれた。

そう、火祭りでは二基の御輿が諏訪社から担ぎ出される。

もう一基の御輿は普通の形のもので「明神御輿」と呼ばれ、こちらには浅間社の三柱の神・諏訪社の二柱の神が、そして、この「御山御輿」には冨士の荒霊が遷御するのだとされると云うから、このことからも火祭りが浅間社だけの祭りと云ったものではなく、同時に地主神である諏訪社の祭りであることが分かる。

店に飾られた朱色した燃える冨士山の形をした御輿、何年か以前に火祭り見学に訪れた際に担がれていた御山御輿なのだろうと思ったら懐かしかった。

うどんはコシが強く固めで、うどんが苦手な私にも食すことが出来た。と云うより美味であった。





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ちい旅 都留へ

2017-09-13 13:03:22 | 旅行
先月29日、何時もの4人でのちい旅で山梨都留市と富士吉田市を訪ねて来た。

このちい旅は珍竹林さんの中学校時代の同級生であったという方が根付師をなさっていて、その作品がミュージアム都留に展示されているということから、珍竹林さんの要望に二人のKさんが応えてくれたことからのものであった。

中央道を大月で富士吉田線へと左折して程なくリニア実験線の高架下を抜けるが、珍竹林さんはここをどうも見学をして見たそうな雰囲気であったが、先ずは目的地の根付の展示されている場所へと向かうべく先を急ぐ。

都留ICで降り、都留の市役所でミュージアムの在処を尋ね、展示場へと辿り着いた。

根付とは、昔、着物が着用されていた時代、財布や巾着、煙草入れや印籠などを帯に提げて持ち歩く際に、これらの提げ物がこれを落ちぬように紐に留具を結びつけていたのだが、その留具のことをこう呼び、現代風に言ったら「ストラップ」と云ったところかも知れない。

材料は象牙や角、木の実や柘植など。

展示されていたものは現代の根付作家三人の手によるものと江戸時代の名品など350点ばかり、どれも精緻なつくりで、3~5cmの小さな世界に動植物や伝説や故事に登場する人物などが彫り込まれていて、見ていて楽しく惹き込まれてしまう作品ばかりであった。

今回、都留へと訪ねる縁が出来た時、私は個人的に根付の展示会の見学とは別にして、この地に寄せて来た気に掛かっていることがあって、その一つが縄文の環状列石の確認されている牛石遺跡の存在であった。

ここでも二至二分における太陽の位置と山との関係を問う、「ランドスケープ論」が取り沙汰されていることを承知していたことと、牛石遺跡とは別の遺跡であったろうと思うのだが・・・。この地を流れる桂川の河岸段丘の場所で発見された敷石住居の中に祀られた石棒と、その住居跡の背後に確認されたという女陰石との組み合わせを報じた新聞記事を若い日に読んだ記憶とがあって、今度のちい旅でそのことについて知りたいものだといった思いを抱いていた。

幸いにも、訪ねる先がミュージアムと云う名が冠せられていたことから、ことによったらこれらについての情報を得ることが出来るかも知れないといった期待もあったので、入館する際に受付の職員にこのことについて尋ねておいてから根付の展示の見学をしたのだった。

館内は根付の展示室の他に都留の歴史を伝えるコーナーや城下町都留を紹介する映像、八朔祭りで引き回される屋台などの展示室もあり、こちらも見学させて貰ったのだが、その中途で、先程職員さんに「牛石遺跡を紹介するリーフレットなどあったら頂けないでしょうか」と頼んであったことが気に掛かり、受付に声をかけると「牛石遺跡の発掘報告書があります」とのことであったので、これを購入した来た。

新聞で目にした敷石住居の中に据えられていた石棒とその背後にある女陰石の見つかったという遺跡の存在については確認することは出来なかった。


加えてもう一つ、歴史コーナーの説明を読んで気の惹かされる箇所を見出した。

ここ山梨県の東部の郡内地域の中心が都留市役所やミュージアム都留の建つ谷村(やむら)であって、その統治をした人物の名に小山田氏と秋元氏の名を認めたのだ。

小山田氏と云えば、その出自は秩父平氏で小山田の姓は武蔵国多摩郡小山田荘の荘官となったことからのものであった筈であって、当ブログで軍荼利明王について触れた際に、軍荼利明王が単独で祀られた例の一つとして上野原市に所在する軍刀利神社が、この小山田氏に関わりのあることから私は関心を持ち続けており、その名をここでも見つけ出せたことに喜べたのと同時に、あらためて、軍荼利明王と秩父平氏との絡みや、クンダリーニと我が体操との繋がりについて書き記す作業の続きを果さなくてはならないといった気を起こさせてくれる切っ掛けになった。


秋元氏の名をこの地で見出すことが出来たのは一言で云うと、私にとって「懐かしい」と思ったのだったが、私の勉強不足でここ都留が秋元氏と関係する地であったことについて全く承知をしていなかった。

この秋元氏、実は私の通った小中学校の地が戦国時代に深谷上杉氏の城跡であり、その深谷上杉氏の重臣で三宿老の一人に挙げられる生地とは縁のある人物なのである。

秋元氏の出身は上総国周淮(すえ)郡秋元荘のようだが、秋元氏の深谷時代以前については詳らかではないようだ。

中学二年生時の秋の修学旅行で出かけた赤城山の帰りに、普通の学校では決して見学地には選ばれないだろうが、恐らくのこと、我が町、我が母校との浅からぬ縁があるということで修学旅行の見学地にとなっていたものだったのであろう、前橋市総社の宝塔山古墳(国指定史跡の方墳)に立ち寄ったことを憶えているが、この宝塔山古墳の墳上は秋元氏歴代の墓所(前橋市指定文化財)である。

修学旅行に出かけた年であったか、その前後の年であったか記憶が定かでないが、市内上野台(うわのだい)の一角に、当時は「カナドロ山(漢字表記すると、金燈籠山であり、ここの地籍も字名は金燈籠)」と呼び、ここには秋元氏の館の在ったとされる地であり、楢や椚の林に覆われ、小学生の時分にはカブトムシやクワガタムシを捕まえに出かけた場所があったが、ここが宅地化されるということに伴って行われた発掘調査に私も一日二日参加したこともあった思い出もある。

天文10年(1541年)、上総秋元を離れて深谷上杉氏の上杉憲賢に仕官した秋元景朝は市内滝瀬と上野台の二村を拝領し、平時はこの金燈籠山に住したと伝わる。

現在は、昔日の面影はなく一帯は宅地となって、地名も現在は金燈籠(山)から、その名も秋元町へと変更されていて、当地を秋元氏が荒地を開墾して茶で殖産を計ったと伝えられる名残が「茶売り街道」の名として今でも残されている。

景朝の子の長朝の時代になって、主家である深谷上杉家は後北条に降って後、天正18年(1590年)秀吉の小田原攻めの際に、城主の氏憲は小田原へ篭城、留守を任されていた長朝は本城である小田原が落ちたことを知り、深谷城を開城し前田利家。浅田長政に降伏し、忍城攻めに加担、その後、長朝は井伊直政の推挙を受け徳川家康の家臣となり、直政預かりの将として上野総社に所領を受け、さらに関が原の戦いの前に家康の命で会津の上杉景勝の南下を防ぐ為の使者として遣わされ、関が原への参戦の後には再び会津へと赴き景勝に降伏を勧め、これを受諾させた功によって、上野総社に総社藩一万石の譜代大名に取り立てられたと云う。

さて、秋元氏の居館の在った場所を金燈籠(山)の名で呼んだ起こりであるが、長朝の代に日光東照宮へと奉納の為にと、この地で鉄製の燈籠を鋳た地であることに因っていて(元和4年・1618年)、東照宮を訪ねると判るが、各大名から寄進された燈籠が並べられているのを目に出来るのだが、その殆どが石製のもので、秋元氏の燈籠は鉄製の燈篭で、しかも高さが5メートル近くある巨大なもので、身分不相応だとされ寄進させてもらえなかったと伝えられている。
《寄進が叶わず暫くはこの秋元陣屋の中の東照宮を模した庭園の中に立てられていた金燈籠は、長朝の曽孫に当たる喬知によって世良田東照宮にと寄進された(明暦4年・1658年)。金燈籠は国重要文化財に指定されている》

なお加えて置くと、この鉄製の燈籠の作者は児玉金屋の鋳物師・中林仲次の手に依って鋳込まれた作のものであり、私の個人的な関心事である製鉄民とのつながりからも興味の惹かされているところである。

生地と縁のあった戦国武将の秋元氏がが江戸幕府の大名となって、総社・館林・川越各藩の藩主になったことは承知していたが、谷村藩の藩主であったことについては認識できていなかった。今回調べてみたら山形藩にも封じられていたことも知れた。


知らない所へと出かけ、知らなかった事柄に出会い知見を広めることが出来るのは面白いものだと改めて思わされる。

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