主目的にして来たミュージアム都留での見学を終えたのは昼前であった。
さてこれからどうしようか?。と云うことになったのだが、空かさずはるおさんからの提案で「富士吉田の浅間神社に詣でて、それから昼飯にしよう」に皆同意して、都留から富士吉田へと高速を使って移動。
天気は悪くはなかったが残念ながら、高速で走行中に見える筈の富士の姿を望めることは出来なかった。
河口湖ICを出て富士浅間社北口本宮へ。
参道脇を抜けて大鳥居手前の駐車場にと車を停めた。
目の前に天空を衝くようにして建つ朱色の大鳥居、高さは18メートルあるのだそうだが、この鳥居、江戸時代の後期より60年に一度改修する仕来りになっているのだとかで、三年前にその改修が行われたようで、日本最大級の木造の鳥居と云うことになっているのだとか。
扁額には「三国第一山」とあって、神社名である「富士浅間神社」では無く、きっと、神社に対して掲げられたという意味合いよりも、富士山そのものを対象にして掲げられているのであろうが、以前に訪れた時にも同じ疑問を抱いたものだったがのだが、三国とは日本・中国(唐)・印度(天竺)の筈であって、その第一の山と云う意味になるよなぁ。
だとしたら、富士より高い山もあるのに・・・。と思いながらこれを潜った。
随身門を潜り抜け、神楽殿を脇に見ながら左手の手水舎で手や口を漱ぎ清め、拝殿へ。
拝殿の左手前には樹齢1000年以上と云われる「冨士太郎杉」(県指定天然記念物)が、地面との境の部分を周囲に張り出し漏斗を逆さにしたような形に広がった姿で立っていて、その生きて来た年代の積み重ねの嵩を教えてくれているようである。
拝殿に入り賽銭を投じて礼拝しようとする先に本殿の豪華で煌びやかな意匠が目に留まる。
十年位前になるだろうか、火祭りを見学に訪れた時、この本殿から白布の「絹垣」で四周を囲まれ、大勢の神官に護られながら、彼等のの発する「オゥ~、オゥ~」の声とともに、隣の諏訪社へと御霊移りが行われる様子を眺めたことを思い出す。
あの時に御霊が運び出された本殿は随分と立派なに飾られていたものであったっことを、あらためて知ることが出来た。(国指定重要文化財)
拝殿を出て、社殿を回り込む小道を右回りに進むと、本殿後方にももう一棟の恵比寿社が在って、後方から恵比寿・大黒の像が拝すことが出来る。
その両側に東宮・西宮と称する桧皮葺の小祠が建っていて、共に国指定重要文化財の立派な社であった。
西宮から小道を出ると、摂社の祠が一列に建ち並らんだ道に行き当たり、左手には鳥居が建ち奥にも社が見え、進んで行くと祖霊社と呼ばれる社で、この道の先は富士山へと続く富士吉田口の登山道のはじまりである。
祖霊社から戻ると、冨士太郎杉と丁度対になる位置には夫婦桧が立っていて、祖霊社を背にして左手少し奥まった所には諏訪神社が祀られていて、その社前には高天原と呼ばれる場所がある。
前回にここを訪れたのは「吉田の火祭り」の見学であったことを記したが、この時に不思議に私に思えたことがあって気に掛かっていた。
火祭りの際に浅間社から出た御神霊は一旦この諏訪社へと奉遷されるのだが、この火祭り、富士山の山仕舞いを告げる祭りであり、噴火を鎮める為の祭礼であると聞いていたのに、この浅間神社から直にお旅所へと巡行するということではなしに、何故一旦、浅間神社から、富士の山仕舞いにも噴火にも縁の無いように思われる摂社である諏訪神社へと遷されるのか、といった疑問であった。
今回、再度ここ北口本宮を訪ねたことによって、あの時の疑問が再燃することとなって、少しばかり調べて見たのだが、結果、やっとあの時の疑問が解けたように思う。
どうも、この地には冨士浅間神社が祀られるよりも前に上吉田の産土神として諏訪神社が祀られていて「諏訪の森」と呼ばれていたようで、その旧社殿は現在の北口本宮の参道の中途に在り、時宗・西念寺(今回、初めてお参りして来た)が別当寺で神仏混交の社・寺であったと云う。
おそらくのこと、諏訪神社はその後に隆盛になった富士浅間神社に取り込まれるようにして、この摂社といった位置づけられ方になったのであろう。
つまりは冨士浅間神社の富士山の山仕舞いと噴火鎮めの祭りといった側面と、元々この地の産土神である諏訪神社の秋祭り(すすき祭り)とが一体となった祭りが「吉田の火祭り」ということで、本殿の浅間社から摂社の諏訪社へと御霊が遷される訳には、こうした背景があった上に成り立っていると見れば得心の行くところとなるのではないかと知れたのだった。
諏訪社は今回は拝すことはしなかったが、浅間社の参拝を済ませ大鳥居の前を流れる清冽な疎水の流れに沿って、その流れの上にある「浅間茶屋」で少し遅い昼食を摂ることにした。
吉田と云えば饂飩で有名ではあるが、正直、私は饂飩は進んで食したいと思うものではない。
ただこの時ばかりは、何故だか食べてみようかとの気が起き、えぇ~い、「郷に入らずんば郷に従えだ。」とばかり、四人揃って同じ「海老天うどんセット」を頼んだ。
店内を見回したら、ここに思いもかけずに、火祭りの際に諏訪社から担ぎ出される「赤冨士」を象った「御山御輿」が飾られているのを見た。紛れもなく本物であると確信した。
何故、ここに飾られてあるのだろう。?と独り言のように呟くや否や、K藤さんが早速に店の人に質問して来て、「あれは今迄使われていたものを店で譲り受けて飾っているそうだよ。祭には新しく出来たものが使われているんだってさ。」と伝えてくれた。
そう、火祭りでは二基の御輿が諏訪社から担ぎ出される。
もう一基の御輿は普通の形のもので「明神御輿」と呼ばれ、こちらには浅間社の三柱の神・諏訪社の二柱の神が、そして、この「御山御輿」には冨士の荒霊が遷御するのだとされると云うから、このことからも火祭りが浅間社だけの祭りと云ったものではなく、同時に地主神である諏訪社の祭りであることが分かる。
店に飾られた朱色した燃える冨士山の形をした御輿、何年か以前に火祭り見学に訪れた際に担がれていた御山御輿なのだろうと思ったら懐かしかった。
うどんはコシが強く固めで、うどんが苦手な私にも食すことが出来た。と云うより美味であった。
さてこれからどうしようか?。と云うことになったのだが、空かさずはるおさんからの提案で「富士吉田の浅間神社に詣でて、それから昼飯にしよう」に皆同意して、都留から富士吉田へと高速を使って移動。
天気は悪くはなかったが残念ながら、高速で走行中に見える筈の富士の姿を望めることは出来なかった。
河口湖ICを出て富士浅間社北口本宮へ。
参道脇を抜けて大鳥居手前の駐車場にと車を停めた。
目の前に天空を衝くようにして建つ朱色の大鳥居、高さは18メートルあるのだそうだが、この鳥居、江戸時代の後期より60年に一度改修する仕来りになっているのだとかで、三年前にその改修が行われたようで、日本最大級の木造の鳥居と云うことになっているのだとか。
扁額には「三国第一山」とあって、神社名である「富士浅間神社」では無く、きっと、神社に対して掲げられたという意味合いよりも、富士山そのものを対象にして掲げられているのであろうが、以前に訪れた時にも同じ疑問を抱いたものだったがのだが、三国とは日本・中国(唐)・印度(天竺)の筈であって、その第一の山と云う意味になるよなぁ。
だとしたら、富士より高い山もあるのに・・・。と思いながらこれを潜った。
随身門を潜り抜け、神楽殿を脇に見ながら左手の手水舎で手や口を漱ぎ清め、拝殿へ。
拝殿の左手前には樹齢1000年以上と云われる「冨士太郎杉」(県指定天然記念物)が、地面との境の部分を周囲に張り出し漏斗を逆さにしたような形に広がった姿で立っていて、その生きて来た年代の積み重ねの嵩を教えてくれているようである。
拝殿に入り賽銭を投じて礼拝しようとする先に本殿の豪華で煌びやかな意匠が目に留まる。
十年位前になるだろうか、火祭りを見学に訪れた時、この本殿から白布の「絹垣」で四周を囲まれ、大勢の神官に護られながら、彼等のの発する「オゥ~、オゥ~」の声とともに、隣の諏訪社へと御霊移りが行われる様子を眺めたことを思い出す。
あの時に御霊が運び出された本殿は随分と立派なに飾られていたものであったっことを、あらためて知ることが出来た。(国指定重要文化財)
拝殿を出て、社殿を回り込む小道を右回りに進むと、本殿後方にももう一棟の恵比寿社が在って、後方から恵比寿・大黒の像が拝すことが出来る。
その両側に東宮・西宮と称する桧皮葺の小祠が建っていて、共に国指定重要文化財の立派な社であった。
西宮から小道を出ると、摂社の祠が一列に建ち並らんだ道に行き当たり、左手には鳥居が建ち奥にも社が見え、進んで行くと祖霊社と呼ばれる社で、この道の先は富士山へと続く富士吉田口の登山道のはじまりである。
祖霊社から戻ると、冨士太郎杉と丁度対になる位置には夫婦桧が立っていて、祖霊社を背にして左手少し奥まった所には諏訪神社が祀られていて、その社前には高天原と呼ばれる場所がある。
前回にここを訪れたのは「吉田の火祭り」の見学であったことを記したが、この時に不思議に私に思えたことがあって気に掛かっていた。
火祭りの際に浅間社から出た御神霊は一旦この諏訪社へと奉遷されるのだが、この火祭り、富士山の山仕舞いを告げる祭りであり、噴火を鎮める為の祭礼であると聞いていたのに、この浅間神社から直にお旅所へと巡行するということではなしに、何故一旦、浅間神社から、富士の山仕舞いにも噴火にも縁の無いように思われる摂社である諏訪神社へと遷されるのか、といった疑問であった。
今回、再度ここ北口本宮を訪ねたことによって、あの時の疑問が再燃することとなって、少しばかり調べて見たのだが、結果、やっとあの時の疑問が解けたように思う。
どうも、この地には冨士浅間神社が祀られるよりも前に上吉田の産土神として諏訪神社が祀られていて「諏訪の森」と呼ばれていたようで、その旧社殿は現在の北口本宮の参道の中途に在り、時宗・西念寺(今回、初めてお参りして来た)が別当寺で神仏混交の社・寺であったと云う。
おそらくのこと、諏訪神社はその後に隆盛になった富士浅間神社に取り込まれるようにして、この摂社といった位置づけられ方になったのであろう。
つまりは冨士浅間神社の富士山の山仕舞いと噴火鎮めの祭りといった側面と、元々この地の産土神である諏訪神社の秋祭り(すすき祭り)とが一体となった祭りが「吉田の火祭り」ということで、本殿の浅間社から摂社の諏訪社へと御霊が遷される訳には、こうした背景があった上に成り立っていると見れば得心の行くところとなるのではないかと知れたのだった。
諏訪社は今回は拝すことはしなかったが、浅間社の参拝を済ませ大鳥居の前を流れる清冽な疎水の流れに沿って、その流れの上にある「浅間茶屋」で少し遅い昼食を摂ることにした。
吉田と云えば饂飩で有名ではあるが、正直、私は饂飩は進んで食したいと思うものではない。
ただこの時ばかりは、何故だか食べてみようかとの気が起き、えぇ~い、「郷に入らずんば郷に従えだ。」とばかり、四人揃って同じ「海老天うどんセット」を頼んだ。
店内を見回したら、ここに思いもかけずに、火祭りの際に諏訪社から担ぎ出される「赤冨士」を象った「御山御輿」が飾られているのを見た。紛れもなく本物であると確信した。
何故、ここに飾られてあるのだろう。?と独り言のように呟くや否や、K藤さんが早速に店の人に質問して来て、「あれは今迄使われていたものを店で譲り受けて飾っているそうだよ。祭には新しく出来たものが使われているんだってさ。」と伝えてくれた。
そう、火祭りでは二基の御輿が諏訪社から担ぎ出される。
もう一基の御輿は普通の形のもので「明神御輿」と呼ばれ、こちらには浅間社の三柱の神・諏訪社の二柱の神が、そして、この「御山御輿」には冨士の荒霊が遷御するのだとされると云うから、このことからも火祭りが浅間社だけの祭りと云ったものではなく、同時に地主神である諏訪社の祭りであることが分かる。
店に飾られた朱色した燃える冨士山の形をした御輿、何年か以前に火祭り見学に訪れた際に担がれていた御山御輿なのだろうと思ったら懐かしかった。
うどんはコシが強く固めで、うどんが苦手な私にも食すことが出来た。と云うより美味であった。