貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

Oさんのメールから

2013-10-09 01:00:38 | 日記

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幾日か前のこと、私のPC上で使用して来たEメールアドレスが、提供してくれているサーバーの都合で近々有料化されるということから、これを変更して新たなアドレスを取得したが、それをPC上でのメ-ルのやり取りをさせて頂いている数人の方たちにお知らせをしたのだが、その内のお一人、赤坂に住むOさんより近況の返信があった。

ここ暫らくの間、Oさんからは電話での連絡は時折あったものの道場へと顔を出してくれては居ない。

今年の夏は猛暑であったせいもあって大宮までは遠いせいだろうと私は勝手に解釈していたのだが、頂いたメールの文中に、この夏には九十九里の海岸で砂浴の体験を夫婦揃ってして来た旨が認められていた。

お二人が体験したという砂浴療法は、前回の記事(シンダンボウ・マワリ)で触れた内容にも通じるモノがあると、私には感じられた事も手伝って、それに絡ませて日記に起こしてみる気になった。


「砂浴」と聞くと、九州・鹿児島の指宿温泉の砂浴が頭にと思い浮かぶし、世界中で行われる身体を健康にと保つ上で取り入れられている民間療法として知られている。

民間療法として自然療法として「砂浴」する療法があることを私が始めて知ったのは、夜中に咳き込んで苦しんでいた30歳前後ではなかったかと思う。

 

40過ぎの頃ではなかったろうか?

その頃お邪魔していた方の住む与野市内のマンション外階段で、私は梅雨の日に滑って5・6段のコンクリート階段を落ちて脛に傷を負い、さらにその後、ご丁寧にも今度はその傷を負った脚を、蓋の無い側溝のドブ水の中にと落としてしまい、そこから雑菌が入ったのだろうか、脚が腫れて傷口には膿が溜まるようにとなってしまったことがあった。

丁度その頃、やはり毎週お邪魔していた国立病院のお医者さんの奥さんから「敗血症にでもなってしまったらどうするつもりですか、早く病院へ行って処置してもらった方が良いわよ」と注意を受けたものだったが、それでも病院に行くのに気が進まずに、ああそうだったっけと思い付いて、夏の盛りの日に茨城・鵜の岬の海岸まで出かけて行って、砂浜で脚だけに砂を潜らせて砂浴療法をしたことがあったことをOさんからのメールを読んで思い出した。

私が行った砂浴は一泊二日の、併せても10時間くらいの短時間のものであったが、それでも帰りの車の運転の時には脚の疼きが随分と軽くなったことを憶えている。

その後は、ドクダミを採って来て、土を洗い流し、鍋で煮て、これをガーゼに展ばして膿んでいる所へと暫らくの間貼り続けて、腫れも化膿も治したのだった。
(早く病院へと行った方が賢明なのかも・・・・・)

Oさんからのメールには詳しくは記されていなかったが、私が行ったような自己流で行う砂浴ではなく、多分こうした療法を専門的に指導している場所に出かけて行ったのではないかと想像する。

Oさん夫妻は砂浴に三回出向いて行ったそうで、その結果、今でも皮膚表面には吹き出物が出て毒出しがされていると記されたあったから、その効果が継続しているのだろう。

 

メールを読みながら、私にはいろいろと考えたり思い出されたりすることが在った。

土の中にと身を埋めるということは死者を埋葬することと同じで、身を地の国・根の国にと送る「シンダンボ・オクリ」であり、これと対照をなすのが、前回記した、左前の合わせた「シンダンボ袷」で日を過ごしていたという鳩ヶ谷の不二道の行者・小谷三志の例で、こちらは、「山上他界・天上他界」あるいは「昇魂」の語に通じるように、死者の赴くと考えられて来た場所であろう。

不二道は、最近、世界文化遺産として登録された富士山を信仰の対象としている「富士講」が三志によって発展・創始された民間宗教であるが、富士の山頂での擬死の儀礼も行われていたのだとか・・。

不二道について触れていたサイト
http://inuiyouko.web.fc2.com/folklore/j-maturi16.html


物量・質量でいう見える肉体(魄)と、見ることの出来ない霊と呼ばれたり気と呼ばれたりの(魂)とで出来ている生命。

地の国・根の国は「魄」の還って行く世界。

天の国は「魂」の還って行く世界。


砂や土に潜る(しかも、生命を生み出した海水成分の混じる)ということは、元へと還ることであり(死であり、生まれ変わりであろう)。そしてまた、高い山へと登ることもまた(死であり、生まれ変わりであろう)。

死⇔生の図式が成り立つ。

呼吸で云ったら、吐いて吐いて吐きまくったら吸わざるを得ないし、吸って吸って吸いまくったら吐かざるを得ない。

生きてる間も、蘇(夜見返る)ったり、翻(昼返る??)ったりの運動を繰り返す。

交感神経と副交感神経との関係も、また然りで同様な切り替わりを行っている。

これらの運動・脈動に変調が起きてしまうと、「気・違い」となり「病気」にとなってしまう。


砂浴を行うのは、砂へと身を埋めて、わざとこの魂魄の平衡を崩すことによって、「身=実」へと一気に「気」の流入を得る為の手立てであり、同じく、信仰により山へと登る理由は、身を削り、息も絶え絶えになりながら山へと登拝し、擬死を体験することによって「気」の充実を得る。といったことのように私には思える。

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