貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

両神へ 9

2012-07-31 16:06:36 | 両神へ
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「山に丸三」の紋所。この意匠を考案したのも普寛行者だと云われているようだ。

        

山は御嶽山を表し、丸は宇宙を、三引きの内、真ん中の横線が胎蔵界・大日如来を、上の線が不動明王を、そして下の線が摩利支天を表すのだという。

御嶽信仰とは一体の「しるし」であるが、併せて、「木曾の百草」にも決まって付されてある標示でもある。

山伏達に持薬のようにして愛用される薬に、役の行者が作ったとの伝承があり吉野や天川村の洞川(どろかわ)で製造され、吉野山や大峰山の土産として知られる陀羅尼助や鳥取・大山の練熊丸とともに、木曾御嶽では百草が有名である。

一年のうち3回は木曾に出かけていた私の父は、その度に懇意にしていたH製薬さんから、家人は勿論のこと、近所の人たちの用にも供せられるようにと百草を箱で購入して来ていて、我が家には何時も常備されていたものだった。

一説によれば、この木曾の百草の製造に関わる伝承として、普寛行者がその製法を伝えたと云われているようだが、金剛院・両神御嶽神社にも普寛行者から伝えられたとされる薬の製造方法が遺されいるともネットには記されてある。

おそらく、百草と同じようなものなのではないだろうか。

想像するに、現代とは違い「水あたり」や「食あたり」に遭ってしまうことも、昔の旅では多くあったに違いないだろうから、胃腸薬は必需携行であったのであろうと察することが出来る。
(私の記憶でも、小学生の頃一杯まで遠足の時には湯冷ましの水を水筒に入れて行ったもので、出かけた先で生水を飲むなときつく注意を家人や先生から受けたものだったし、旧日本軍の兵隊さんたちには百草が各自に手渡されていたとも聞く)

この記事に画像を載せようかと、久しく手にもしたことのない百草丸を薬屋さんに出向いて買って来た。


Hさん宅を訪ねた日から早くも一月以上が経過した。

借り受けられた畑地にシシ垣を張り巡らす作業をする。と言っておられたが、その後、資材を調達し地元の人の指導を受けながら、このシシ垣作りも終えることが出来たと先日のこと話しに聞いた。

イノシシも鹿も共に肉を表す語である「シシ」と呼ばれ、貴重な動物性の蛋白源として位置づけられて来た歴史があってのことだろうが、同時に山で農業を行うものにとっては、折角丹精込めて作った農作物を食い荒らしてしまう獣でもある。

青梅の御岳山。秩父三峰神社。宝登山神社。そして此処両神の両神神社・両神御嶽神社・龍頭神社などで発行していたという「オイヌサマ」の神札は、これらの動物による農作物への食害を受けた山地の農民が、その天敵であったニホンオオカミによって守護して頂く為のものであったと云われる。

今は神札の代わりに高圧電流の流された防護柵が農地を囲むように巡らされてあるのをよく見かけるようにとなっている。絶滅してしまったオオカミの力よりも頼りがいがこちらの方が勝っているということかも知れない。

Hさんのお宅をまた訪ねる機会も巡って来よう。

今度は神社にもお邪魔して、両神の山岳信仰のこと。普寛行者のこと。オイヌサマの神札のこと。家伝薬のこと。など等ゆっくりと話をご当主の神主さんからお聞きしたいものだと思うし、併せて、Hさんがこの場所へと転居されたことと、づっと書き連ねてきた両神山との縁からしても書きかけのブログ記事の続きを・・・をと思っている。

両神へ おわり

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