貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

日の出町 東光院妙見宮

2018-12-30 23:38:34 | 旅行


前々回の記事、「勝楽寺展」では狭山湖の湖底に沈んだ村・勝楽寺村にあったという「勝楽寺」が百済からの渡来人たちに深い関わりのあった寺であったことについてのものだったが、同じ百済からの渡来人に関わる地をこの展示会の見学よりも少し前に訪ねて行ったことを思い出した。

場所は都下・日の出町平井にある東光院妙見宮。



何時ものメンバー4人して五日市にある「黒茶屋」で食事をし桧原村の「玉傳寺」の寺カフェにと行った際、K子さんから百済の寺が造られてある寺があると案内されて立ち寄った先である。

圏央道の日の出ICを西に走ると、多摩川の支流である平井川の低地側から見上げると小高い山の頂上に如何にも日本のものではないと感じさせるお堂が建てられてあるのが見えた。

聞いては見なかったが、どうも二人のKさんは何度かここへと足を運んでいるのであろう、そのお堂・妙見宮のある場所へと躊躇うこととなく車を進め寺の境内にと駐車した。

門前の石柱の寺号を見ると「瑠璃山東光院」とある。
(別に山号を妙見山とも呼ぶようだ。)

「妙見宮」に加え、山号の「瑠璃山」・「妙見山」、寺号の「東光寺」、それに加え、寺紋は七曜紋であったことから、もしかしたら、ここは律令の時代に東北の蝦夷たち俘囚の送り込まれた地でもあったのだろうか?。

あるいは、「製鉄民」に繋がりのある場所にでも当たっているのであろうかなどといった思いが一瞬頭を過ぎった。

だが、宗旨を確認すると曹洞宗であったことから、俘囚の送り込まれた地としては時代が合わないので見当違いであったかと少々ガッカリしたりもした(後に触れる)。

本堂脇の小道を登った先に、先程見上げた妙見宮があるということで、そこへと歩を進めて行こうとしたら二人のKさんたちは登る気配がなく、「行ってみるのだったらここで待っているから」と背後からの声が聞こえた。

それなら一人でと進んで行くと、後から珍竹林さんが続いて登って来た。

真っ直ぐに妙見宮へと登って行く石段もあったが、ざっと見ても、この石段の数は100段以上あるだろうから、心臓に難のある珍竹林さんには無理があると思い九十九折れしながら登る道の方を選んんだが、辺りにはツツジの植え込みがされていて、五月の頃には定めし綺麗に咲き誇るのだろうと想像しながら6~7分かけて登る。

そこに「七星殿」の扁額の掲げられた古代百済様式の建屋だという「(平井)妙見宮」が建てられていた。

七星殿とは勿論のこと「北斗七星」を指し、「北辰」を祀る「妙見信仰」に縁ってのことであろう。
(下の寺、東光院の唐破風の中央にあったのは七曜紋であったが、本堂の階の手前にあった「本堂建設記念」の石碑には八曜紋が付いていた。七星+北極星だろう。)

堂は昭和62年に韓国の資材と宮大工の手に拠って建てられたそうで、韓国式の木組みで極彩色に塗られた部材によって出来ていて、壁面には数多くの画が描かれていたが、それらが何を物語るのか私には解からなかった。

この妙見宮は再建されたものだが、元々この場所に妙見様を祀ったお堂が建てられていたらしい。


妙見宮の裏手、妙見池に建てられていた均整のとれた肢体をした弁天像。

帰ってから調べてみると、寺(東光院)の縁起に拠れば、その歴史は古く、天武天皇13年(この時期に元号は定められなかった)(685年)に関東地方開発の勅命を受けて武蔵国に移住した百済の豪族が、大和斑鳩の法輪寺の妙見菩薩を現在地に祀ったのが始まりであるとされ、平安前期の承平元年(931年)、妙見信仰の厚い武将でこの地方を支配した平良文が、山麓の居館を天台宗の摂待寺(接待寺)としたのが東光院の前身であったそうだが、その後に荒廃し、暫く無住だったものを慶長10年(1605年)に曹洞宗に改宗して瑠璃山東光院となり、その時に山上の平井妙見宮をその鎮守宮とした寺が別当を勤めて来たようだ。

この寺に入った時に瑠璃山の山号と東光院の名を見て、私は俘囚の移住させれたという全国に所在した「別所」に建つ天台の古刹で、名を「東光寺」と呼ばれる寺があるとの一説があることから、この地もその一つででもあるだろうかと思ったのである。

山号・寺号の名の起こりは、東方浄瑠璃世界の教主であるとされる薬師瑠璃光如来を祀ることからであろうし、実際にここの東光院の本尊も薬師如来だそうだ。

この地が「別所」であったかは別問題にしても、寺の前身が「摂待寺」と云う平良文(村岡五郎)の開基と聞かされると、またまた気分が高鳴る思いがする。

まさかここで平良文(村岡五郎)の名を見出すとは思っても見なかったし、彼は妙見信仰とは切っても切れない人物であり、その身体には月と星の印が浮き出ていたと云う伝説まであるのだが、その加護を受けるようにとなったのは平将門の乱・染谷川の戦いで苦境に立たされた時。導かれて辿り着いたのが群馬県高崎市引間にある三鈷山吉祥院妙見寺であったと云われる。

この寺、古くは「七星山息災寺」と云い、別名「羊妙見」とも呼ばれ、前々回の記事にもした「多胡碑」の羊太夫とも関連すると解釈もされる寺であることからも深く渡来人とも繋がっていると云えるのではないだろうか。

もっとも、妙見信仰そのものが元々は渡来人たちによってもたらされたもので、最初は渡来人の多い関西以西での信仰であったのが、関東に彼らが強制移住されたのに伴って広がったものと解されている。

当ブログでも何度も取り上げて来た妙見信仰だが、その参考の地としてここ平井妙見宮も新たに加えることの出来ると考えた。

なお、このお堂の建っている山を「妙見山」と呼ぶとのことから、私は想像するのだが、この地へと入植した渡来人たちからしたら、その居住地となった場所(平井川の辺であったろう)から見上げた時、妙見山は北に位置していて山上の北天には北斗七星と北極星(北辰)とが仰ぎ見ることが出来たのではないだろうかと想像する。

毎年5月3日には恒例の「妙見まつり」が催され、優雅な韓国舞踊や国内では珍しい韓国舞踊農楽隊などが披露されるとのこと。






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 狭山不動へ | トップ | おめでとうございます »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅行」カテゴリの最新記事