以前、HPの掲示板に書いたことですが、ブログでも板石塔婆について紹介します。
板石塔婆とはその多くが鎌倉時代から室町時代に作られた追善供養塔であり、
関東武士の本貫地とその所領に限られるという。
主に武士、貴族が作らせた物である。畠山重忠の本貫地である現在の深谷市にも多い。
これは当家の私有地にある板石塔婆。城跡内北館に在り、浄法寺氏に関係すると思われる。
制作年代は不明で何故日輪が刻まれているのかは分からない。
刻まれた文字の中に即雪浄心信士とある。裏には何も刻まれていない。道号に即雪、戒名に浄心、そして位号に信士と書かれている。
浄心の浄は出が浄法寺の一族であることを連想させ、信士は在家の者に与える位号だが、これは庶子の流れを意味しているのではないか。
嫡流ならば恐らく居士号であると考えれられるからだ。この板石塔婆に年号が書かれていない為、その時代の当主、子の誰か特定できない。
浄法寺氏の墓所と同じくいずれ調査されるべき物だと思う。だが、埋墓であると思われる墓所を発見するのは難しいかもしれない。
浄法寺氏の墓所があったと考えられる場所は、浄法寺城の城内(西舘の福蔵寺、大館の旧尋常小学校跡地
、北舘の上野(写真の塔婆付近)、一戸平糠の畠山家等があるだろう。
数十年も昔の事だが、浄法寺尋常小学校があった場所から骨が見つかっている。
年代など詳しいことは不明である。
今から何十年前の事だが、役場の方がこの板石塔婆を知り、岩手大学に調査を依頼したことがある。
だが回答は「詳しいことはわからない」との事だったようだ。
当時、この郭は城跡であることが判明しておらず、平成に入ってから城跡の一部と判った。
当時の町民、そして今の町民でもこの地に城跡が在る事を知らない人が多いだろうと思う。
浄法寺城の郭には八幡館、大館、西館、新城館、そして北館(仮称)があるが、
それらは単に地名としてしか捉えられていない事が多い為だ。
当然、それらの事を教える事ができなかったから、山(ほとんどは畑だが)に在る石碑のまま終わってしまったのではないか。
この板石塔婆も是非調査して頂きたいものだ。
尚、町内に鎌倉時代の物とされる浄法寺城主の乳母を祀ったという宝篋印塔がある。
以前、掲載された本(いわて旅街道)の地図を基に探したが見つからなかった。
私は浄法寺氏の祖、重慶の遺児重基の乳母ではないかと考えている。
板石塔婆とはその多くが鎌倉時代から室町時代に作られた追善供養塔であり、
関東武士の本貫地とその所領に限られるという。
主に武士、貴族が作らせた物である。畠山重忠の本貫地である現在の深谷市にも多い。
これは当家の私有地にある板石塔婆。城跡内北館に在り、浄法寺氏に関係すると思われる。
制作年代は不明で何故日輪が刻まれているのかは分からない。
刻まれた文字の中に即雪浄心信士とある。裏には何も刻まれていない。道号に即雪、戒名に浄心、そして位号に信士と書かれている。
浄心の浄は出が浄法寺の一族であることを連想させ、信士は在家の者に与える位号だが、これは庶子の流れを意味しているのではないか。
嫡流ならば恐らく居士号であると考えれられるからだ。この板石塔婆に年号が書かれていない為、その時代の当主、子の誰か特定できない。
浄法寺氏の墓所と同じくいずれ調査されるべき物だと思う。だが、埋墓であると思われる墓所を発見するのは難しいかもしれない。
浄法寺氏の墓所があったと考えられる場所は、浄法寺城の城内(西舘の福蔵寺、大館の旧尋常小学校跡地
、北舘の上野(写真の塔婆付近)、一戸平糠の畠山家等があるだろう。
数十年も昔の事だが、浄法寺尋常小学校があった場所から骨が見つかっている。
年代など詳しいことは不明である。
今から何十年前の事だが、役場の方がこの板石塔婆を知り、岩手大学に調査を依頼したことがある。
だが回答は「詳しいことはわからない」との事だったようだ。
当時、この郭は城跡であることが判明しておらず、平成に入ってから城跡の一部と判った。
当時の町民、そして今の町民でもこの地に城跡が在る事を知らない人が多いだろうと思う。
浄法寺城の郭には八幡館、大館、西館、新城館、そして北館(仮称)があるが、
それらは単に地名としてしか捉えられていない事が多い為だ。
当然、それらの事を教える事ができなかったから、山(ほとんどは畑だが)に在る石碑のまま終わってしまったのではないか。
この板石塔婆も是非調査して頂きたいものだ。
尚、町内に鎌倉時代の物とされる浄法寺城主の乳母を祀ったという宝篋印塔がある。
以前、掲載された本(いわて旅街道)の地図を基に探したが見つからなかった。
私は浄法寺氏の祖、重慶の遺児重基の乳母ではないかと考えている。