このところ、愛車マルモッタン号(社有車)に給油するたびに考えることがある。
我が社では、現場がある地域別に、それぞれ給油するガソリンスタンドを変えている。
今に始まったことではない。それは先代社長の頃からずっとそうで、のみならず先代の頃は、車や重機やその他もろもろを複数に分けて購入修理をしていたはずだ。
下っ端だったが他所のメシ(違う職種)というやつを経ていた私は、そのやり方をして、
「これは経営効率的にどうなんだろう?」と疑問に思っていたものである。
しかし、今になって思えばさにあらず。
それは、己の拠って立つ場所と己の生い立ち、つまり「国家的再配分システムの末端機関としての地場中小零細公共建設業」の立場を十分にわきまえた営為だったのだ。
大げさに言えば、「公共事業投資はあまねく天下に配分させねばならない」という意味だったのだと、私は思う。
そのことを、ガソリンを入れるたんびに考える今日この頃の私なのである。
今、地場中小零細公共建設業を取り巻く現状は明らかに変わった。
(と言い切ってしまっても、現実の世の中はそんな紋切り型のものではなく、変わった部分もあり変わらない部分もあり地域差もあり、それやこれやがないまぜになって流れているのだろうが)
「公共事業に税金つぎこんだって一部にしか銭は行き渡らないじゃねえか」という空気は、田舎では最近そうでもなくなったような気もするが(楽観的か?)、オールジャパンとしては、やはり多数派なんだろうなと思う。
私たちは、技術的にも経営的にも先人が遺してくれたものの上に拠って立っている。それを否定していては私たちが存在することはできない。
しかし、過去の延長線上から先を見通すことを止めないと早晩立ちいかなくなるのは明白である。もはや、過去の延長線上に未来はないのだ。
エラそうにこんなことを言うと、「じゃあどうすりゃいいのサ」という問いが来るのは承知だ。
それに対して私の持ち合わせている答えは「地域へ」や「三方良し」でしかなく、それだって答えらしい答えでないことは百も承知二百もガッテン。
だが、「まんざら捨てたもんでもないぜ」と、この5年間、「地域へ」を肝に命じながら「公共土木という生業(なりわい)」を生きてきた私は思っている。
愛車マルモッタン号
それを探し続けるか、それとも現状に甘んじるか・・。
私は一生探し続ける方を選びたいっす!
「いつまでや」
「死ぬまでや」
てなところでしょうかネ。