答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

独り歩く

2024年04月26日 | ちょっと考えたこと
 雑踏のなかを独り歩くのが好きだ。大勢で歩くのでもなくふたりで歩くのでもなく、独りで歩く。

 かといって、ぼくがふだん住んでいる場所のように、外を歩いてもめったに人と出会うことがないようなところで、ひとり歩くのは好きではない。だいいち、それが夜の闇のなかともなれば、何が出てくるかわからず、独りでは怖くて歩けたものではない。何よりも雑踏、人ごみというのがよいのである。

 そしてそのときぼくは、決まって何かを考えながら歩いている。その何かの基となる対象は、そこで目に映るものであってもよいし、まったくちがうどこかの誰かのことでもよい。とにもかくにも、「独り」と「雑踏」という絶対条件の環境で「歩く」のである。逆に誰かと会話をしながらでは、そのたのしみがなくなってしまうし、独りであっても、周りが静かすぎるとたのしみは半減してしまう。

 と、なんだかんだ好き勝手を言っているが、それが日常となると、たぶん幾日もせぬうちに嫌になってしまうのだろうことは、これまでの体験から容易に想像がつく。
 要するに非日常が珍しいだけなのである。珍しい行いが、あるいっときたのしいだけなのである。本当に好ましいのがどちらであるか、それは、言わずもがなというものだろう。
 
 都会は、便利さと快楽の塊だ。とはいえそれは、人生の豊かさとイコールではない。都会と田舎、どちらに豊かな生活があるかを多くの都会人は知っている。だから多くの都会生活者がわざわざ田舎へと出向き、都会の雑踏に疲れた心身を癒す。それが現代人というものである。

 今さらではあるが、その当たり前の逆をいくぼくは、しかもあえて意識的に逆目を張っている節もあるぼくは、やはり変わり者なのだろうと思う。

 結局のところ、たくさんの人に紛れこんだ自分を俯瞰しているのがおもしろいのだろう。いや、もっとシンプルに、たくさんの人に紛れこむという行為そのものがたのしいのかもしれない。
 きのう、人っ子ひとりいない山の道を独り歩きながら、そんなことを考えていた。なんのかんのと言いながら、そこがマイスイートホームにはちがいない。


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アナロジー思考でのぞむ「三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎」

2024年04月25日 | ちょっと考えたこと

 2つ以上の物ごとのあいだに共通点を見出し、そこに着目して自らが直面している問題の解決に応用する思考法をアナロジー思考という。ここで肝心なのは、その2つが、誰がどう見てもいかにも共通しているというようなものではなく、まったく異なっていると見えるようなことに共通点を見出すというところにある。
 独断と偏見で言わせてもらえば、ぼくたちが所属するこの業界、特に技術系には、それが苦手なひとが多いように感じる。いやいや、それは何も技術系ばかりではなく、経営層も事務方も含め、全体的にその傾向があるのではないか。そういう思考法を拒絶しているというべきだろうか。
 もしかしたら、そんな人間を侮蔑さえしているのかもしれない、と思わないでもない。
 オレ(アタシ)らとは畑違いでしょ。ぜんぜんカンケーないもん。だから参考になんかならないもんね。だのに余計なことを・・・てな感じで。

 だが、価値観や状況がめまぐるしく変化していく今という時代には、建設業に限らず、どのような業種であれ、アナロジー思考的な発想と物の見方が大切だろうとぼくは思っている。いや、今にはじまったことではなく、以前からそう考え、行動はしてきたが、今日このごろはよりいっそう強くそれを感じている。







 だから、というのもあるだろう。ぼくがこの催しのなかでも、都城市長の講演とスナックSUNあっこママの事例発表を強く薦めるのは。
 それはなにも、ぼくがその主催者のメンバーであり企画者の一員であるからという立場上から出ていだけではなく、きっと必ず、ぼくたちの仕事に役に立つ何かがそこにあると感じているからだ。

 これまでぼくの推進力となってきたTTPM(てっていてきに・パクって・真似る)は、何も業界だけに限ったことではない。異業種や異なる世界のひとがやっていることやったことも、その対象となる資格を十分に有している。その目的や構造、あるいは手段を拝借し、自らの問題解決などに活用する。その行為の実践において、たしかに同業者由来は手っ取り早く理解しやすい。だが、まったく異なる業界だからその対象とはなり得ないというのでは、考えが短絡的にすぎるのではないか。

 トカナントカ、いかにも・・というような理屈をつけてはみたが、本当のところは興味と好奇心。ま、すべてはそこから、と言っても差し支えないし、何よりソッチのほうがぼくに相応しいような気もする。
 
 5月16日、三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎。お申し込みは下記QRコードから。




 

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くさび

2024年04月24日 | ちょっと考えたこと
 
 ブログを更新せずにいたら、いつのまにか1週間ほどが経っていた。
 その前の週も似たりよったりなのだから、今月の更新カレンダーは、すき間だらけで目も当てられないものとなっている。

 なぜそうなったかというと、ここまで手が回らなかったからである。アタマが回らなかったと言った方が適切だろうか。どちらにしても、その根底にある問題は「ヤル気」である。
 このような場合、「ヤル気はあるのだが・・・」というのは言い訳にすぎない。そのあとにつづく文句が、「忙しい」であっても「他事忙殺」であっても、やらないということはすなわち、ヤル気がないというに等しい。

 思えばこういうのが、かつて多くの人がチャレンジしては挫けて折れた「ブログをつづけられない」(というこの場合の「ブログ」はもちろん象徴で、本来業務というか従来業務というか、それ以外の、いわゆる「余計なもの」)問題の最たる要因だろう。他にやることがある。優先順位が低い。その結果、あと回しにする。そしていつしか・・・。てな感じである。

 以前のぼくならば、ほぼこういうことはなかった。その理由は、突き詰めていけばたったひとつ。自らが自らに課した義務だったからだ。何をさておいても、いや何もさておかなくてもよいから、ヤル。つまり「ヤル気」があった。だから「ほぼ毎日」をつづけることができた。

 だが今は、何をさておいても、どころか、何もさておいてはいないのに、「今日は、ま、いいか」となってしまう。となると、今日の「ま、いいか」は明日の「ま、いいか」へと伝播し、そのうちその「書かない」が日常となり、いつしかフェードアウトしていく、となってしまうのだろう。現に今、そうなりかけている自分がここにいる。

 かつて、といってもまる一年にもならないかつて、そうやってフェードアウトしていくのだろう自分を想像しつつ、それもそれと書いたことは記憶にあたらしい。

 だが、今のぼくはもう少し「書く」をつづけたい。
 だから今、こうやって己の心に楔を打ち込んでいる。
 といっても、明日がどうなるかはわからないが、とにもかくにも、楔は打った。

 とりあえず言えることはそれしかない。
 ではまたあした。


 

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金の茶碗

2024年04月18日 | ちょっと考えたこと

 ある事件を報じるテレビニュースに映し出されたその純金製の茶碗を見たとたん、ぼくの脳内に浮かんだのは三代目桂米朝の高座姿。演じているのは『はてなの茶碗』だった。

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清水の茶店で安物の茶碗を見つめ「はてな」とつぶやいただけで帰ったのは、いかにも・・というような上品な身なり姿をした旦那。
「あれは衣棚(ころものたな)の茶道具屋の主人である茶金さんや。ということはこの茶碗、値打ち物にちないない」と隣りで見ていた油売りが、有り金の二両を軍資金にして強引に茶碗を買って持ち帰り、茶金さんに買い取りを迫る。
しかし、「あぁ、それなら傷もないのに漏るから、はてな、と首をかしげてながめていただけや」と聞いて意気消沈。それを目にした茶金さんは、地道に商売にはげめよと諭して三両で茶碗を買い取った。
後日、こんな話がありましたと茶金さんが関白鷹司公に茶碗を見せたところ、同じようにポタポタと漏る。
この不思議な茶碗の話が広まり、ついには帝(みかど)のお目にかかることになり、さらには豪商鴻池善右衛門がそれを千両で買い取る。
物語はそれでは終わらず、今度はその半分の五百両を・・・
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 そんな噺を思い起こしたある事件とはこれのこと。

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 日本橋高島屋(東京都中央区)で開かれた「大黄金展」の会場で販売価格1040万円の純金製茶わんが盗まれた事件で、窃盗容疑で逮捕された男から180万円で茶わんを買い取った業者が、別業者に四百数十万円で転売していたことが捜査関係者への取材で分かった。転売は窃盗事件が起きた11日のうちに実施されていた。(『朝日新聞DIGITAL 』4月17日5:00配信)
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 この事件を報じるテレビ画面に映し出された黄金の茶碗の画像から即座にこの噺を思い浮かべるというのは、たぶんぼくだけではなく、日本全国の落語好きのあいだで同時多発的に起こったことなのではないだろうか。

 「落語とは人間の業の肯定である」
 とは七代目立川談志のことばだが、現実に剥き出しとなった「業」は、ただただセコく世知辛い。とはいえそのセコさが、落語という芸能のたのしさをより一層際立てるのではあるけれど。


ー・ー・ー・ー・ー

 まことに残念なことに、今、YouTubeには三代目桂米朝がこの噺を演じた動画がない(かつては確かにあった)。代わりといっては甚だ失礼だが、五代目古今亭志ん生のそれを貼りつけるので、興味のある方はどうぞ。


 

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選ばれる地域建設企業とは何か ~三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎~

2024年04月15日 | ちょっと考えたこと

 毎年行っている「三方良しの公共事業推進カンファレンス」を、今年は宮崎市で5月16日に開催する。

 題して『選ばれる地域建設企業とは何か』。『誰もが働きやすく、地域に必要とされる企業になるために』という副題がつけられている。メニューは以下のとおりだ。

 まずはじめに、「ふるさと納税日本一」に輝く都城市の池田市長による特別講演。
 それにつづいて事例発表が3つ。最初が九州地方整備局大分河川国道事務所の取り組み、つづいて宮崎大学工学部の取り組み、3つめが地元で人気のスナックSUNの発表で、それらを受けたメニューの最後は、宮崎日日新聞社の編集局長を進行役に建設業若手経営者3人が語り合う座談会だ。

 そんななか、この企画にいっちょかんできたぼくでさえ興味津々なのが、都城市長の講演とスナックSUNの加藤ママによる発表だ。
 なんだ建設業に関係がないではないか、と思うなかれ。
 とはいえ現実にこのふたつは、CPDSの対象として申請を行った際に、そういう趣旨のもとで、それにかかる時間がユニット数から差っ引かれて承認されているし、そのように捉える向きがあるだろうことは想像ができる。そしてそれに対して理解ができないこともない。

 だとしても、そのような受け取り方が適切なのかどうかはまた別の話だ。少なくともぼくは、そのように捉えるのがよいことだとは思わない。「餅は餅屋」だとはいえ、餅屋からのみの情報に頼りきっている餅屋と、まったくの異業種からも広く情報を取得する餅屋のどちらにより多くの学びが起動し、それを自らの商売に活かすことができるかというと、圧倒的に後者の方に分があると考えるからだ。そしてそれは、今という時代の建設業界で生きるものならばなおさらだ。

 だから皆さんに強くオススメしたい。
 「三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎」
 5月16日13時から MRT micc(宮崎市)で。
 定員は先着200名さま。
 もちろん、オンライン生中継もあるので是非。

 






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