答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

「当たり前」のCCPM

2016年12月06日 | CCPM

先日の優良建設工事施工者表彰発表会のことをもうひとつだけ。

全6件の発表中2番めに登壇したわが社のSさんは、この10年間で4度目の受賞。そのプレゼンテーションはさすがに慣れたもので、真剣勝負の最終審査ではないことも相まってか、地に足が着いた安定感あふれる発表だった。

ところが、その内容で「?」と思わせる点がひとつだけあった。

CCPMについて言及されなかったのだ。

CCPM=クリティカルチェーン・プロジェクト・マネジメント。言わずと知れた今のわが社の骨格であり根幹。当然、ここ10年で計13回の発表のなかでも、その多少はともかく、CCPMについて触れられなかったことはほとんどない。

時間の制約上カットしたのか。それはあるだろう。だが、わたしはそうは感じなかった。

慣れ親しんで「当たり前」の風景となってしまったことから、その意義や存在感が希薄になったのではないか。そう感じたのである。自分たちのストロングポイントが見えなくなってしまいつつある、と言ってもいい。

とはいえその発表自体は、それがなくても堂々として立派なもので、あの会場にいるなかで、CCPMについて言及されない発表に違和感を感じたのは、たぶんわたしひとり。何事もなく発表は終わり、盛大な拍手のあと、どうもご苦労さまでしたチャンチャン、となるはずだった。

ところが、その後に控えた発注者監督職員の応援メッセージがわたしを唸らせた。

いわく、

自分がもっとも驚かされ評価したのはCCPMによる工程管理。

その具体的で細密な日々の工程管理は、これまで目にしたことがない素晴らしいものだった。

 

たぶん、それを聴いているときのわたしの顔ときたら、相好を崩してニヤニヤと、だらしないったらなかったろう。

だが、そのあと現実に引き戻されたわたしが、なんだか空恐ろしい気分になったのも事実である。自分たちにとっては「当たり前」のことが、他所さまから見たらわたしたちのストロングポイントだということ。これに気づいてないことは、なんとも恐ろしいことでもある。

なぜか。それについては繰り返しここで書いてきた。なぜ成果があがったかを当人たちが把握していなければ次へはつながらないからだ。そしてこれも繰り返し書いてきたことだが、わたしはその答えをコミュニケーション&コラボレーションだと思っている(まだ未完ではありますが)。それを推進する骨格がCCPMというツールであり、クリティカルチェーン・プロジェクト・マネジメントという考え方である。それがわからなければ、「当たり前」のストロングポイントは、すぐに「当たり前」でもストロングポイントでもなくなる。

それをあの場所で監督職員さんが、いみじくも証明してくれた。

そう感じたわたしなのである。

 

 

それから1週間が経ったきのう、別の場所で発表する同じ工事を題材にした論文が出来あがった。

CCPMに関する記述がたっぷりとそこに盛り込まれたのは、言うまでもない。

 

 

なぜできたか?

どこが良くてその成果があがったのか?

それがわからなければ明日へはつながらない。

 

 

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れっつアウトプット

2016年12月05日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

森崎さんが『アウトプットの重要さ』というお題でブログを書いていた。

ふむふむナルホドそりゃそうだ、と同感したので紹介する。

いわく、

なにせしゃべるのが下手なので、それをカバーするためにパワーポイントで「見える」資料を作らねばならないのだ。

しかし、多くの人の前で話す内容を考え、分かりやすくまとめ(実際に分かりやすいかは別として…)、緊張感を味わいながら限られた時間の中で話す、というのは自分を鍛えるよいトレーニングだと思えばなんとかこなせるものだ。

引き受けたことで、引き受けなかったことよりも確実に自分自身はレベルアップしているはずだ(本人の思い込み含む)。


おっしゃるとおり。

とはいえ、どこか誰かの資料をコピペしてパワーポイントで資料をつくり、ただただその文字を読むだけの人は、この貴重なトレーニングの機会を自ら放棄しているに等しい。勘違いしないでほしい。模倣が悪いと言っているわけではない。例えばこのわたしなぞは、常に模倣からしか思考をスタートさせることができない凡人だ。分岐点はそこからなのである。コピペの棒読みで終わるのか、模倣をベースにして自分の頭で考え自分の表現方法でパワポをつくり自分自身の言葉に置き換えて他人さまに語るのか。

かたやその経験は「余計なことを引き受けてしまった。次はもういいや」で終わり、もう一方は体験がじわじわと蓄積され、己の血となり肉となる。

 

またいわく、

インプット(学ぶ)だけではだめで、アウトプット(外に出す)することでより効果が上がるとよく言われる。
本を読んだら誰かに内容を話すことや、自分が経験したことを人前で話すことでより内容や意味が整理されるということだろう。

昨年からこのブログを週6回程度書くこともアウトプットの修行である。僅かでもなにか「おや?」と思ったり、ヒントになるようなことを情報発信したいものである。
そのためにはネタ収集が必要で、以前より新聞もよく読むようになったり、今まで以上に本を読んだり映画を見たり、いろんな施設や行事に足を運んだりするようになった。
その結果、自分の感性の肥やしに間違いなくなっている。

 

これもまたおっしゃるとおり。

「学び」とはすなわち「入力」することだと勘違いしている人はじつに多い。だが、入力を繰り返しているだけの人を待ち受けているのは、情報メタボという結果だ。「学び」を自分自身の腹に入れ、なおかつメタボにならないためには、「出力」することが不可欠である。「出力」するためには消化することが必須だ。「出力」と「消化」は同時進行だと言ってもいい。そういう意味では、「アウトプットすることでより効果が上がる」というよりは、アウトプットしなければ「学び」は「学び」たり得ないと表現したほうが適切だとわたしは思う。

「余計なことを引き受けてしまった。次はもういいや」という人と、「引き受けたことで、引き受けなかったことよりも確実に自分自身はレベルアップしているはずだ」という人の決定的な差異を、わたしは彼のブログから読み取ることができるのだ。

どちらを選ぶか。それは人それぞれだろう。

わたしはもちろん後者を選択するし、そう(しようと)する人を応援する。

前者を選択する人に言っておきたいのは、後者によってもたらされる恩恵やメリットが組織を強くしていくということを、ゆめゆめ忘れないでほしいということ。であればどうせなら、こっちを選んでほしいと切に願う。

「出力」するという行為は何も、大勢を前にして話をしたり、不特定多数に向けてWebで書いたりということでなくてもよい。まずは手始めに自分の周りに「出力」してみる。すると自分自身の至らなさに気づく。本当の意味での「学び」が起動するのはそこからだ。

出力しようぜエブリバディ。

れっつアウトプットなのである。



以上、森崎さんのブログに触発されて書いてみた。

「ネタ収集」の重要性についてはまた後日。

 

 

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しばし蜻蛉に遊ばれる ~ モネの庭から(その280)

2016年12月04日 | 北川村モネの庭マルモッタン

モネの庭ウォッチャーもわたしぐらいの境地ともなると、

庭と完全に一体化しているのか、

池の周りを飛びかう蜻蛉も、植物かなんかと勘違いするようで、

身体にとまったり頭にとまったり。

さすがに頭にとまった蜻蛉を撮ることはできないが、

身体にとまったら撮ってやろうと待ちかまえる。

だが、そう思うとその気が表に出てしまうのだろう。

なかなか思いどおりにはならない。

そりゃそうだ。

蜻蛉を思いどおりにするなど、思いあがりもはなはだしい。

とてもじゃないが、正しいオジさんの正しい心持ちとは言えない。

自称日本一のモネの庭ウォッチャーとしてもあるまじき態度だ。

考えをあらため、蜻蛉は無視することとし、

もみじの赤、メタセコイアのオレンジが映り込む池を撮ることに没入すると、

蜻蛉はすぐにやってきて、作業服の右腕にとまる。

右か・・・

右手に持っていた工事用コンデジを、そっと左の手に持ち替え、撮影を試みる。

近すぎてピントが合わない。

マクロにする。

まだダメだ。

スーパーマクロにする。

もちろん、蜻蛉はじっとはしてくれない。

飛び去ってはとまり、また飛び去ってはまたとまりを繰り返す。

するとどうだ。

何度も何度も繰り返しているうちに、右腕から動かなくなった。

息を止め撮る。

何枚も撮る。

ふ~っ。

何が境地だ。

このオジさん、煩悩の塊である。

土曜日の昼休み、水の庭。

しばし蜻蛉に遊ばれる。

 

 



 

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ぐちは云うまいこぼすまい、これが男の・・・

2016年12月03日 | ちょっと考えたこと

口に出してしまえばスッキリとすることがある。

だが、出せない。ただスッキリするだけのこと、問題の本質的解決にはまったくつながらない、と自分自身でわかっているからだ。

とはいえときどき、いっときのスッキリを求めて、詮ないことを口に出してみる。

と、いったん野に放たれた愚痴がまた別の愚痴を呼び、グチグチと文句がとめどなくなる。

人に対する愚痴は、すなわち誰かを非難するということだ。誰かを非難するということは、つまるところ自分自身を正当化する行為である。自らの正しさの反証としてそれにそぐわぬ他人の行為をあげつらう。その行為が失敗すればしめたものだ。それみたことか、言わんこっちゃない、オレの言うとおりやらんからイカンのだ。もとより、どちらかが完璧に正しいなどということは世の中になく、どちらかが完全な善だということもないが、わたしのような暑苦しいオジさんともなると、「自分が正しい」と信じて様々な判断や行為をしている。(「これってひょっとして間違いか?」と逡巡することはしょっちゅうですが)。

それゆえ愚痴は、対象たる他人の悪い結果をもって完結するという性格を持っている。他人の失敗が自分の成果となる。失敗を心底望んではいなくとも、それをもって完結となる以上、愚痴の対象たる他人の良い結果は自分自身にとって好ましい結果とは言えないのだ。

そんなおのれのダークサイドが理解できだしたころから、こんな心持ちを抱くようになった。

ぐちは云うまい こぼすまい

これが男の 生きる道

だが・・・・

口に出してしまえばスッキリとすることは、たしかにある。

我慢は正しいオジさんたるものの必須能力だとはいうものの、我慢するだけが能ではないのもまた正しいオジさんの心がまえとして正しい。要はアウトプットの仕方が問題なのだ。

ネガティブな考えをネガティブに出力するから愚痴になる。ポジティブな側面からポジティブな出力の仕方を意識してアウトプットすれば、愚痴もまたポジティブなものに昇華でき、愚痴ではなくなる(かもしれない)。

Webで8年半書きつづけてきた。

心がけてきたことの最たるものは、浅草の師匠の教えだ。

「腹が立ってたまらぬことや、ネガティブなことは書くな」

「どうしてもその思いが止まらぬ時はどうするんですか?」

「そんときゃ書くな。書くんだったらポジティブにだ。それだけは守れ」

その言葉を腹に入れ、ネガティブなブログにならないように心がけて書きつづけていたら、いつの間にかポジティブシンキングが身についてきた(あくまでWebで書くという行為上の話ですが)。

具体的な行為としては、「はてさてこれはそのまま出力していいものか?」と自問することだ。

してみると、

ぐちは云うまい こぼすまい

これが男の 生きる道

そう思って生きてきたが、どうもそうではないらしい。

「云うまい」でも「こぼすまい」でもなく、時と場合、表現の仕方を考えたうえでアウトプットする。

愚痴として産まれ落ち出力された言葉は不幸だ。同じオヤジの口から発せられるのなら、幸せな生い立ちを持たせてやることが、産みの親としての正しい務めではないか。


・・・・なんてことをつらつらと書き連ねていたら、何をそんなにグチグチ言いたかったのか、よくわからなくなってしまった。

自己暗示?

うん、こう見えてオジさん、けっこう単純なのである。

 

これが男の生きる道/植木等

 

そうそう、若かりしころの植木等を思い浮かべる、ってのもネガティブシンキングの螺旋から脱出するのにけっこう効果的だったりしますネ(もちろん歌付きで)。

 

 

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ある質疑応答から

2016年12月02日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

「言葉は悪いですが、それはマッチポンプのようなものなのではないでしょうか」

という言葉に、思わずメモする手を止め息を呑むわたし。

「それを言われるとつらいんだよネ」

と、内心ドキドキしながら展開を見守っていた。

一昨日の平成28年度高知県優良建設工事施工者表彰発表会、某社の発表のあと、質疑応答のコーナーで出た質問のなか、発せられた言葉である。

マッチポンプ、皆さん耳にしたことはあるだろうが、もう一度その意味をおさらいするべく引いてみる。

まずは三省堂大辞林から。

 

〔マッチを擦ってつけた火を自分で消火ポンプで消す意〕

自分で起こしたもめごとを鎮めてやると関係者にもちかけて報酬を得ること

 

う~ん、これはあまりにもキツイ。そしてあの質問の趣旨にもそぐわない。

ということで次、ウィキペディア。

 

マッチポンプとは、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である。

(略)

問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収集の立役者も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。

 

うん、質問の文脈としてはこれでいい(たぶん)。

つまり、「自分で原因をつくっておきながらその対策について評価をしてくれという行為ではないか」と質問者は言いたかったのだろうが、あらためて意味を読むと、たしかに「言葉は悪い」。

 

人間誰しもミステイクはある。(この場合のミステイクとは、判断ミスであるとか選択ミスであるとか、そういった類のことです。単純な間違いではありません)。常に変化流動する現場においてはなおさらだ。計画段階から完璧なものなどないと言っていい。だからこそ、そいつを修正していくプロセスが現場の醍醐味でもある。そしてそのミスを取り戻すべくとった対策が、われながら上出来じゃないかと思えるものであったりすることがよくある。

そりゃそうだ。ミスによる結果は、元に戻して帳消しになるものではない。それをご破算にするためには、さらに良い結果が求められる。

そのためには普段以上のエネルギーが必要だ。全力を上げて頭と身体を働かせなければミスは帳消しにできない。当然そのプロセスには智恵や創意工夫が必要だ。気がつけば結果としてそこに、発注者に対してアピールできるものがゴロゴロ転がっていた、ということがよくある。

元はといえば・・・と考えれば、それをアピールすることは、たしかに少々厚かましいかなと思わないでもない。

だからして、そこをつかれると少々つらい。

 

そういえば・・・

と、優良工事の最終審査が審査員を眼前においての7分間のプレゼンテーションで、そのあと質疑応答があったころの、あの質問を受けるときの極度の緊張感を思い出す。すべてではないが、厳しい質問もけっこうあった。わたし自身も、「え?そこついてくるの?」と目を白黒させた記憶がある。

たしかに今回の「マッチポンプ」という言葉に対しては、「何もそこまで言わなくても」と思う。だが、「自分で原因をつくっておきながらその対策について評価をしてくれという行為ではないか」という冷徹な指摘にはうなずけなくもない。そして、短いプレゼンテーションからそれを見抜いた洞察力には敬服するしかない。


そんな質疑応答から、かつて(といってもわずか4年前まで)、フルオープンフルコンタクト真剣勝負のプレゼン大会があったことを思い出し、またドキドキがよみがえるわたしなのだった。

 

 

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