答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

独り歩く

2024年04月26日 | ちょっと考えたこと
 雑踏のなかを独り歩くのが好きだ。大勢で歩くのでもなくふたりで歩くのでもなく、独りで歩く。

 かといって、ぼくがふだん住んでいる場所のように、外を歩いてもめったに人と出会うことがないようなところで、ひとり歩くのは好きではない。だいいち、それが夜の闇のなかともなれば、何が出てくるかわからず、独りでは怖くて歩けたものではない。何よりも雑踏、人ごみというのがよいのである。

 そしてそのときぼくは、決まって何かを考えながら歩いている。その何かの基となる対象は、そこで目に映るものであってもよいし、まったくちがうどこかの誰かのことでもよい。とにもかくにも、「独り」と「雑踏」という絶対条件の環境で「歩く」のである。逆に誰かと会話をしながらでは、そのたのしみがなくなってしまうし、独りであっても、周りが静かすぎるとたのしみは半減してしまう。

 と、なんだかんだ好き勝手を言っているが、それが日常となると、たぶん幾日もせぬうちに嫌になってしまうのだろうことは、これまでの体験から容易に想像がつく。
 要するに非日常が珍しいだけなのである。珍しい行いが、あるいっときたのしいだけなのである。本当に好ましいのがどちらであるか、それは、言わずもがなというものだろう。
 
 都会は、便利さと快楽の塊だ。とはいえそれは、人生の豊かさとイコールではない。都会と田舎、どちらに豊かな生活があるかを多くの都会人は知っている。だから多くの都会生活者がわざわざ田舎へと出向き、都会の雑踏に疲れた心身を癒す。それが現代人というものである。

 今さらではあるが、その当たり前の逆をいくぼくは、しかもあえて意識的に逆目を張っている節もあるぼくは、やはり変わり者なのだろうと思う。

 結局のところ、たくさんの人に紛れこんだ自分を俯瞰しているのがおもしろいのだろう。いや、もっとシンプルに、たくさんの人に紛れこむという行為そのものがたのしいのかもしれない。
 きのう、人っ子ひとりいない山の道を独り歩きながら、そんなことを考えていた。なんのかんのと言いながら、そこがマイスイートホームにはちがいない。


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アナロジー思考でのぞむ「三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎」

2024年04月25日 | ちょっと考えたこと

 2つ以上の物ごとのあいだに共通点を見出し、そこに着目して自らが直面している問題の解決に応用する思考法をアナロジー思考という。ここで肝心なのは、その2つが、誰がどう見てもいかにも共通しているというようなものではなく、まったく異なっていると見えるようなことに共通点を見出すというところにある。
 独断と偏見で言わせてもらえば、ぼくたちが所属するこの業界、特に技術系には、それが苦手なひとが多いように感じる。いやいや、それは何も技術系ばかりではなく、経営層も事務方も含め、全体的にその傾向があるのではないか。そういう思考法を拒絶しているというべきだろうか。
 もしかしたら、そんな人間を侮蔑さえしているのかもしれない、と思わないでもない。
 オレ(アタシ)らとは畑違いでしょ。ぜんぜんカンケーないもん。だから参考になんかならないもんね。だのに余計なことを・・・てな感じで。

 だが、価値観や状況がめまぐるしく変化していく今という時代には、建設業に限らず、どのような業種であれ、アナロジー思考的な発想と物の見方が大切だろうとぼくは思っている。いや、今にはじまったことではなく、以前からそう考え、行動はしてきたが、今日このごろはよりいっそう強くそれを感じている。







 だから、というのもあるだろう。ぼくがこの催しのなかでも、都城市長の講演とスナックSUNあっこママの事例発表を強く薦めるのは。
 それはなにも、ぼくがその主催者のメンバーであり企画者の一員であるからという立場上から出ていだけではなく、きっと必ず、ぼくたちの仕事に役に立つ何かがそこにあると感じているからだ。

 これまでぼくの推進力となってきたTTPM(てっていてきに・パクって・真似る)は、何も業界だけに限ったことではない。異業種や異なる世界のひとがやっていることやったことも、その対象となる資格を十分に有している。その目的や構造、あるいは手段を拝借し、自らの問題解決などに活用する。その行為の実践において、たしかに同業者由来は手っ取り早く理解しやすい。だが、まったく異なる業界だからその対象とはなり得ないというのでは、考えが短絡的にすぎるのではないか。

 トカナントカ、いかにも・・というような理屈をつけてはみたが、本当のところは興味と好奇心。ま、すべてはそこから、と言っても差し支えないし、何よりソッチのほうがぼくに相応しいような気もする。
 
 5月16日、三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎。お申し込みは下記QRコードから。




 

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くさび

2024年04月24日 | ちょっと考えたこと
 
 ブログを更新せずにいたら、いつのまにか1週間ほどが経っていた。
 その前の週も似たりよったりなのだから、今月の更新カレンダーは、すき間だらけで目も当てられないものとなっている。

 なぜそうなったかというと、ここまで手が回らなかったからである。アタマが回らなかったと言った方が適切だろうか。どちらにしても、その根底にある問題は「ヤル気」である。
 このような場合、「ヤル気はあるのだが・・・」というのは言い訳にすぎない。そのあとにつづく文句が、「忙しい」であっても「他事忙殺」であっても、やらないということはすなわち、ヤル気がないというに等しい。

 思えばこういうのが、かつて多くの人がチャレンジしては挫けて折れた「ブログをつづけられない」(というこの場合の「ブログ」はもちろん象徴で、本来業務というか従来業務というか、それ以外の、いわゆる「余計なもの」)問題の最たる要因だろう。他にやることがある。優先順位が低い。その結果、あと回しにする。そしていつしか・・・。てな感じである。

 以前のぼくならば、ほぼこういうことはなかった。その理由は、突き詰めていけばたったひとつ。自らが自らに課した義務だったからだ。何をさておいても、いや何もさておかなくてもよいから、ヤル。つまり「ヤル気」があった。だから「ほぼ毎日」をつづけることができた。

 だが今は、何をさておいても、どころか、何もさておいてはいないのに、「今日は、ま、いいか」となってしまう。となると、今日の「ま、いいか」は明日の「ま、いいか」へと伝播し、そのうちその「書かない」が日常となり、いつしかフェードアウトしていく、となってしまうのだろう。現に今、そうなりかけている自分がここにいる。

 かつて、といってもまる一年にもならないかつて、そうやってフェードアウトしていくのだろう自分を想像しつつ、それもそれと書いたことは記憶にあたらしい。

 だが、今のぼくはもう少し「書く」をつづけたい。
 だから今、こうやって己の心に楔を打ち込んでいる。
 といっても、明日がどうなるかはわからないが、とにもかくにも、楔は打った。

 とりあえず言えることはそれしかない。
 ではまたあした。


 

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金の茶碗

2024年04月18日 | ちょっと考えたこと

 ある事件を報じるテレビニュースに映し出されたその純金製の茶碗を見たとたん、ぼくの脳内に浮かんだのは三代目桂米朝の高座姿。演じているのは『はてなの茶碗』だった。

******
清水の茶店で安物の茶碗を見つめ「はてな」とつぶやいただけで帰ったのは、いかにも・・というような上品な身なり姿をした旦那。
「あれは衣棚(ころものたな)の茶道具屋の主人である茶金さんや。ということはこの茶碗、値打ち物にちないない」と隣りで見ていた油売りが、有り金の二両を軍資金にして強引に茶碗を買って持ち帰り、茶金さんに買い取りを迫る。
しかし、「あぁ、それなら傷もないのに漏るから、はてな、と首をかしげてながめていただけや」と聞いて意気消沈。それを目にした茶金さんは、地道に商売にはげめよと諭して三両で茶碗を買い取った。
後日、こんな話がありましたと茶金さんが関白鷹司公に茶碗を見せたところ、同じようにポタポタと漏る。
この不思議な茶碗の話が広まり、ついには帝(みかど)のお目にかかることになり、さらには豪商鴻池善右衛門がそれを千両で買い取る。
物語はそれでは終わらず、今度はその半分の五百両を・・・
******

 そんな噺を思い起こしたある事件とはこれのこと。

******
 日本橋高島屋(東京都中央区)で開かれた「大黄金展」の会場で販売価格1040万円の純金製茶わんが盗まれた事件で、窃盗容疑で逮捕された男から180万円で茶わんを買い取った業者が、別業者に四百数十万円で転売していたことが捜査関係者への取材で分かった。転売は窃盗事件が起きた11日のうちに実施されていた。(『朝日新聞DIGITAL 』4月17日5:00配信)
******

 この事件を報じるテレビ画面に映し出された黄金の茶碗の画像から即座にこの噺を思い浮かべるというのは、たぶんぼくだけではなく、日本全国の落語好きのあいだで同時多発的に起こったことなのではないだろうか。

 「落語とは人間の業の肯定である」
 とは七代目立川談志のことばだが、現実に剥き出しとなった「業」は、ただただセコく世知辛い。とはいえそのセコさが、落語という芸能のたのしさをより一層際立てるのではあるけれど。


ー・ー・ー・ー・ー

 まことに残念なことに、今、YouTubeには三代目桂米朝がこの噺を演じた動画がない(かつては確かにあった)。代わりといっては甚だ失礼だが、五代目古今亭志ん生のそれを貼りつけるので、興味のある方はどうぞ。


 

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選ばれる地域建設企業とは何か ~三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎~

2024年04月15日 | ちょっと考えたこと

 毎年行っている「三方良しの公共事業推進カンファレンス」を、今年は宮崎市で5月16日に開催する。

 題して『選ばれる地域建設企業とは何か』。『誰もが働きやすく、地域に必要とされる企業になるために』という副題がつけられている。メニューは以下のとおりだ。

 まずはじめに、「ふるさと納税日本一」に輝く都城市の池田市長による特別講演。
 それにつづいて事例発表が3つ。最初が九州地方整備局大分河川国道事務所の取り組み、つづいて宮崎大学工学部の取り組み、3つめが地元で人気のスナックSUNの発表で、それらを受けたメニューの最後は、宮崎日日新聞社の編集局長を進行役に建設業若手経営者3人が語り合う座談会だ。

 そんななか、この企画にいっちょかんできたぼくでさえ興味津々なのが、都城市長の講演とスナックSUNの加藤ママによる発表だ。
 なんだ建設業に関係がないではないか、と思うなかれ。
 とはいえ現実にこのふたつは、CPDSの対象として申請を行った際に、そういう趣旨のもとで、それにかかる時間がユニット数から差っ引かれて承認されているし、そのように捉える向きがあるだろうことは想像ができる。そしてそれに対して理解ができないこともない。

 だとしても、そのような受け取り方が適切なのかどうかはまた別の話だ。少なくともぼくは、そのように捉えるのがよいことだとは思わない。「餅は餅屋」だとはいえ、餅屋からのみの情報に頼りきっている餅屋と、まったくの異業種からも広く情報を取得する餅屋のどちらにより多くの学びが起動し、それを自らの商売に活かすことができるかというと、圧倒的に後者の方に分があると考えるからだ。そしてそれは、今という時代の建設業界で生きるものならばなおさらだ。

 だから皆さんに強くオススメしたい。
 「三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎」
 5月16日13時から MRT micc(宮崎市)で。
 定員は先着200名さま。
 もちろん、オンライン生中継もあるので是非。

 






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拗ね者

2024年04月10日 | ちょっと考えたこと

 やはりぼくは変わり者で捻くれ者だと、今日このごろはつくづく思う。
 それが世界的な時事であり、わが国の世相であり、あるいはごくごく卑近な出来事であっても、特別意図するところもないのに、気がつけば多数派の逆を考えていることが多い。
 
 こんなやつにもっとも相応しい生き方は、「世を拗ねる」だろう。それとも180度転がってその逆をいき、世を牽引する存在になるという手もないではない。だが、それにはそれ相応の能力や器量を有していることが必要だ。
 ということは、それ程の能力もなく器でもないぼくに、そもそもその道があるはずもなく、であれば、夜毎昼ごと酒を飲み、飲んでくだまき「世を拗ねる」というのが、それ相応の生き方だったはずのぼくを、なんとかマトモな社会人として踏みとどまらせてくれたのは、なんといっても、妻であり子らであり、つまり家族の存在に他ならない。

 そこにおいて自ら負おうと決め、自らに課した責任が、次第に会社という枠にも範囲を広げ、それがいつしか、誰に頼まれたわけでもないのにもっと広い枠組みに対するものにもなっていった。
 そうなると、「世を拗ねる」どころではない。
 といっても、人の見本になろうとまでは考えもしないが、「正しいジイさん」であるべきだとは思う。
 ところが、そうあろうとすると、これがなぜだか不思議なことに、なおさら多数派の逆目を張ることが多い。
 だとしても、かつて西部邁が唱えたように、「世論の逆がおおむね正しい」と胸を張ることができるなら、なんぼか楽なのだが、基本的にヘタレなぼくにはそれをすることができないのである。


 なんてことをつくづく思う今日このごろ。先日、わが社を訪れていたある人が、ぼくのパソコン画面に目を留め、こう質問してきた。

 「これ、どこの国ですか?」

 ディスプレイの中央には「環日本海・東アジア諸国図」が、でーんと居座っている。

 「日本ですよ」

 そう返したぼくの言葉に彼は、その地図がどこかの外国に見えた理由にすぐさま気づき、ナルホドとうなずいた。
 
 「いや、ものごとをある一面からしか見ることがないようにね。戒めですよ、自分への」

 「まるで地中海のようですよね」

 「ナルホド。たしかにそんなふうにも見えるわね。環日本海・東アジア諸国図というから、むしろそう見てくれた方が正解。けど、今の日本の常識では、地中海沿岸でひとくくりにすることはあっても日本海沿岸でそうすることはほとんどない。こうやって見るとちがった観点から見えるようになる。おもしろいでしょ?」

 なんのことはない。常日頃ぼくは、そう心がけているのである。ならば、その成果があがっているだけのことだ。ぼくの感覚的なものだけではなく、実際にぼくの言説が多数派の逆を行くことが多くなっていたとしても、不思議でもなんでもない。
 だとすればそれは、自分自身の望ましい姿だと表現しても差し支えないではないか。


 それもこれも含めて、やはりぼくは変わり者で捻くれ者だと、今日このごろはつくづく思う。とはいえやはり、そうでございと胸を張りはしないけどね。


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ぜんぜんだいじょーぶ

2024年04月08日 | ちょっと考えたこと

 まず、ぼくの基本的な考えを表明しておく。
 時代の変化とともに言葉は変わる。あえて変える必要はないが、変わったとしても咎めだてをすることはない。
 これが言葉の使い方に対するぼくの基本的態度だし、それはこの場でも再三再四あらわしてきた(つもり)。

 とはいってもそれは、すべてに対してそうであるわけではなく、「ぜんぜんかまわない」とか「ぜんぜんだいじょーぶ」とかの、いわゆる「全然+肯定語」に対しては違和感が拭いきれず、これまでできるだけ使用しないようにしてきた。
 とはいえ、ここで「できるだけ」という曖昧な表現にとどめるのが、ぼくの優柔で煮え切らなさゆえで、周囲がそれを使うのになじんでしまったぼくの脳は、いけないこととは思いながら、ついついそれを口に出してしまったりもする。

 そんなものだから、他人がそれを使う分には、毎度耳にするたびに違和感を感じつつも、よほどのことがなければ否定するまではしない。
 だが、否定派であることに変わりはない。つまり、「全然+肯定語」を「ぜんぜんかまわない」とか「ぜんぜんだいじょーぶ」と言って肯定することはないのである。

 ところが世の中というやつは、ぼくのような浅学非才が預かり知らぬことも多い。今日も今日とてたった今、幼いころより耳になじみ、正しいと思い込んでいるはずのその「全然+否定語」自体が、戦後に定着したものだという見解があること、文化庁国語課国語調査官である武田康宏氏の談で知った(ラジオ関西トピックス『ラジトピ』4月8日8:30配信)。
 事実、夏目漱石と太宰治という日本文学史上に燦然と輝くビッグネームが、前者は「全然同格である」(『趣味の遺伝』、1906年)、後者が「全然新しい」(『鷗』、1940年)というように、その「全然+肯定」を自身の作品で大っぴらに使っているというのだから、驚く他はない。

 氏によれば、「全然+肯定」の表現は「許されやすかった時期」と「許されにくかった時期」が繰り返されてきたという。

 う~ん・・・
 またひとつぼくの常識がひっくり返った。
 とはいえ「ぜんぜんだいじょーぶ」。驚きはするがショックではない。
 どころかむしろ、その論と事実が面白くさえある。
 なんとなれば、言葉の使い方に対するぼくの基本的態度は、「時代の変化とともに言葉は変わる」であるからだ。それにしても・・・・・

 びっくりしたなぁもう (*_*)


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I never make plans that far ahead.

2024年04月04日 | ちょっと考えたこと

 「まだはたらいてるんですか?たいへんですね」と言われたのは先々月、一回目の胆石発作で入院していたときのことだ。
 ベッドの脇にノートパソコンとモニターを置き、いかにも仕事に勤しんでいるかのようなぼくの姿を見た看護師の言葉である。
 一瞬、意味を計りかねたぼくは、その「まだ」が年齢のことをあらわしていることに気づき、妙齢の看護師に対して思わず苦笑いしながら、こう答えた。

 「そう、たいへんよ」
 
 そして、そうか世間一般では定年退職している齢なのだとあらためて思いが至った。
 もちろん、そう言った看護師になんらの悪気はなく、むしろその素直な物言いには好意すら感じられたのだが、はたしてそれは、ぼくのような年齢の男に対してもつ感覚として正しいのだろうか。すぐに調べてみた。
 
 『令和5年版高齢社会白書』によると、65~69歳の男性の就業者の割合は61.0パーセント。半数以上がはたらいている。それが70~74歳となると、41.8パーセントとなり約2割方落ちるのだが、それにしても、70歳をすぎてなお、半分近くの人がはたらいているというその結果は、少しばかり予想外だった。
 そして、そうか世間一般的にはいわゆる定年退職年齢とされることが多い65歳をすぎても、はたらいている人がたくさんいるのだと気づかされた。
 
 そんなことを思い出したのは今日、あたらしい弁当箱をもたされたからである。昼餉、包をあけると出てきた新品の曲げわっぱ弁当箱を目にし、「まだまだがんばんなさいよ」という妻からのエールが聞こえたような気がして、思わず背筋が伸びた。
 この先いつまではたらくことができるか、ボギーを気取って言ってみると、「そんな先のことはわからないさ」でしかないのだが。

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修業はつづくよ

2024年04月03日 | ちょっと考えたこと

 ずっと気にかかっている言葉がある
 現場のひとたちを撮るためファインダーをのぞくたびにその言葉が浮かんでくるといっても大げさではない。

 土木写真というジャンルがあるかどうかわからないが、あったとして、ぼくのそれは、いわゆる一般的に指すところの土木写真とはずいぶんと趣がちがう。意識して「顔」を撮るようにしてきたからだ。
 それがいつの頃からか、また、誰の影響でそうあろうとしたのかもはっきりとしている。山崎エリナさんが土木の現場を撮った作品を見たそのときから、ぼくもまたこうありたいと、人にフォーカスした写真を撮りはじめた。そういう意味で、彼女はぼくの師匠である。そうと公言したこともないし、本人の許可をもらってもいないが、歴然として師匠である。

 いや、「人にフォーカス」という意味では、その少し前から「現場ではたらく人」にフォーカスした写真を撮ろうとはしていた。人が計画し人が進めてモノができあがるのにも関わらず、どうしてか、写真にかぎらず関係する皆の意識全般として、肝心要の「人」がすっぽりと抜け落ち、モノばかりがクローズアップされるのは、ちと筋違いだし、大仰に言えば、そのままでは現場ではたらく人たちが救われないのではないかと感じたからだ。
 だが、その当初は「顔」ばかりではなかった。
 それが、あきらかに「顔」にこだわるようになったのは、「山崎エリナ」に出会って以来である。

 それから何年かが経った最近のある日、たまにはオレの写真も撮ってくれよと手持ちの iPhone を渡したのは、ふだん写真を撮るなどとは縁もゆかりもないような作業員のおじさんだった(ぼくよりは年下ですけど)。
 以下、想像のはるか上を行くデキだったその写真をFacebookに投稿したぼくが写真につけたキャプションと、それに対してある知人が返してくれたコメントだ。

ぼく
たまにはオレも撮ってよ
と言ってアイホンを渡すと
即座にフツーに自然体のわたしを撮ってくれた◯◯さん。
撮影者がよいのか
被写体がよいのか
それとも互いの関係がよいのか
さて正解はどれだろう?
たぶん全部やろな

知人
いい1枚です。写真は被写体は勿論ですが、いいな、と思えるのは何が写り込んでいるか、が大事で、そちらもGood。撮影した方、まさにGood Job!!
 
 繰り返すが、撮影者はふだんは写真撮影などとは無縁な人である。
 だからこそぼくはそこに、見たものを感性のおもむくまま切り撮るという、ある意味で写真を撮るという行為の原点と思えるものを再確認した。それとともに、被写体はむろんのこと、「何が写り込んでいるかが大事」というその言葉が、グサッと胸に刺さった。そしてそれ以来、現場のひとたちを撮るためファインダーをのぞくたびにその言葉が浮かんでくる。

 顔を撮る。
 ぼくが土木の現場ではたらく人を撮ろうとした原点を想えば、それはけっして間違いではない。だがそればかりでは、その「顔」が成り立つところの背景がわからない。背景とは、文字どおりの背景であり、そのひとの表情がそうなる所以としての背景でもある。ときにはそれもアリだろうが、そればかりではあきらかに片手落ちだ。
 そう気づけば、ぼくが真似しようとした対象としての「山崎エリナ」は、けっしてそうではないこともわかる。なぜだかぼくがその部分にだけ傾倒してしまっただけで、彼女の現場写真は、現場と現場ではたらく人とが分離されているわけではなく、一体となって切り撮り表現されている。

 思えば迂闊といえば迂闊きわまりないが、こと写真にかぎらず、ぼくにとってはいつものことといえばいつものことでもある。やってみて、気づいて、軌道修正しながらまたやってみる。かくしておじさんの写真修業はつづいていくのである。



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えーっと

2024年04月02日 | ちょっと考えたこと

 「えーっと」もしくはその亜種としての「えーと」「えとー」。
 それが長いにせよ短いにせよ、何かの言葉を発するときの前置きとして、そう発語する人がいる。同様なものとして、「えー」や「あー」があるが、それらも含めると、むしろそう言わない人の方が少数派なのではないかとも思えるほど、それは多い。

 そして、いかにも日本人っぽいなという雰囲気を醸し出すそれらは、何も日本語特有のものではなくさまざまな人種、いろいろな言語で使われているらしい。たとえばそれが英語なら「um」とか「uh」とか。
 そういえばたしかにそうだ。よくよく思い起こしていると英語話者はよくそれらを間に挟むし、いかにも英語っぽくするには、むしろ「um」とか「uh」とかを入れた方がそれらしく聞こえたりする。

 それら会話やスピーチに頻繁に登場する無意味な言葉のことをフィラーと呼ぶ。といってもそれは、まったく意味のないものかというとそうでもなく、たとえば、次の言葉を選ぶ時間稼ぎのためや、また、話の途中で一時的に発言を止めてフィラーを挟むことでまだ話が継続するのだと暗示する意味もある。つまりそれは、使い方によっては、コミュニケーションの流れを維持するために有用なものでもある。

 だが、フィラー全般について言えばそうかもしれないが、「えー」や「あー」はまだしも、「えーっと」はよくない。そこにつきまとう幼児性ゆえに、あまりにもマイナスイメージが強いからだ。
 多くの場合それは、無意識のうちに口をついて出ているはずだ。その心理は、たとえば次のようなものだろう。
 まず、選択肢が過剰にあって脳内でその判断を整理しているとき。次に、会話の相手や場面の重要性によって、緊張や不安を感じたりしてストレスがかかっているということも考えられる。3つ目に、そもそも言語を処理するスピードに自信がなく、会話が苦手な人である場合もそうなることが考えられる。原因をざっと考えただけでも、それらが思い浮かんだのだ、まだまだあるにちがいないが、それについての深堀りはしないでおく。

 いずれにしても、それらの要因のどれかによって「えーっと」が生まれるというのを、人は経験的また感覚的によく承知している。その結果、「えーっと」は相手にもまた不安感や不信感を生じさせてしまい、それが頻繁に登場する人との会話は、得てして上手くいかないことが多くなる。相手がいったんそれを気になりだすと、さらにそのマイナスイメージは増幅され、取り返しようがなくなってしまうのもよくあることだ。

 先日、そんな「えーっと」を極端に使う例があった。その人については今にはじまったことではなく、前からもその傾向があり、再三にわたり指摘はしていたが、いっこうに直る気配はない。それがさらに極端にあらわれたということは、過度な緊張状態におちいってしまったのだろう。目に見えてそれがわかったのだから、わかりやすいといえばわかりやすい。

 すると、その日からそれほど時が経ってはいないとき、これまたぼくが以前から認識していた「えーっと」話者が乱発した。
 そうなるとこれがまたよくないことに、ぼくの「えーっと」センサーが過敏に反応しはじめた。
 それからまた数日後、ぼくがノーマークだった人が、「えーっと」を使用することに気づいたのである。それもかなりの頻度で。

 これはよくないことだ。といっても、ただヤメろと言うだけでは能がない。なんとか改善したい。どうやって指摘しようか。上手な導き方を考えたあげく、その解が見つからないうちに、ある日の朝会の席上で衝撃的な事実に気づいた。
 こともあろうか自分自身の口をついてその言葉が出たのである。
 
 じつはぼくには自信があった。時をさかのぼること十数年前。他人さまの前でスピーチをする機会が徐々に増えていったあるとき妻に、次の2点を釘刺された。いわく、「早口でしゃべらない」「”えー”を入れない」。特にフィラーは、聴いてて不愉快になるという理由で、断固とした使用禁止命令が出た。
 持つべきものはなんとやらだ。いかにもと得心したぼくは、その翌日行われたけっこう大きな大会での事例発表で、できるだろうか?という若干の不安をかかえながらさっそくそれを実践した。すると、案ずるより生むが易し、思いがけず首尾が上々だったのに気をよくし、以後、あまり使わずに今に至っている(もちろんゼロではない)。
 だからぼくには自信があった。自分自身にはフィラーがないと。それなのに・・・あろうことか、まぎれもない自分の口から「えーっと」が飛び出したのである。

 そんなこともあるのか。
 驚きはあったが、イレギュラーなものだろうと高をくくっていた。
 ところがぼくの内に芽生えてしまった「えーっと警察」は見逃さない。
 なんとしたことだろう。意外にもぼくは、けっこうな頻度で「えーっと」を使用しているのである。自己分析では、選択を整理している場合に使うパターンのようだが、たとえそうだとしても許されるものではない。即刻直さなければと決意した。

 さて、またひとつ課題ができたが、首尾や如何、乞うご期待(と自分で自分に言って聞かせてみる)。

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