「家では呑まない」というひとは少なくない。
もちろん、その前段に「外では呑むが」という括弧がついたうえでの「家では呑まない」だ。
その理由はひとによってそれぞれだろう。
先日出会ったひと回り以上も年下の男性の場合はこうだった。
「時間がもったいないから」
「ナルホド、よくわかるなその気持ち」。
一年365日、病気にでもならないかぎり家呑みをつづけるぼくが、そう言って即座に同意したのは、幾度となくそう感じたことがあるからだ。
彼はなぜ「時間がもったいない」のか。ぼくはすぐ理解できたが、まわりはそうでもなかったらしい。その表情を見て取った彼は、すぐに言葉を足して理由をあきらかにした。
「呑むとなんにもする気がなくなるから」
「なんにも」といっても、本当に何もしないわけではない。だが、建設的な何かや生産的な何かをする気は薄れるし、たとえそうではなかったとしても、それを行うだけの根気がなくなってしまう。知的なスキルを発動させなければならないものに関しては特にそうだ。
かといって、皆が皆そうというわけでもなく、アルコールが身体に入るとなおさら頭脳が回転しはじめるというひともいる。現にぼくの知人のなかには、酒を呑みながら難解な本を読むひとがいたりもする。
しかし、ぼくはダメだ。
だから時として思う。好き好んでそのダメな時間と空間に身を置いているにはちがいないのだが、さすがにこれは「もったいないな」と思う。
「書く」が疎かになってしまった近ごろがそうだ。
呑まずにいれば、就寝までの時間をそれに充てることができるのに・・・そう思うことがある。
きのう、ChatGPTについて書いた本のなかで、口述筆記の方法について触れた箇所があった。それが身体性をともなって響いたのは、そんな近ごろのぼくの状況ゆえだろう。
口述筆記、といっても、その字面ほどに大げさなものではなく、ごくごく簡単な方法だ。
たとえば散歩をしているときや、またたとえば運転中など、思いつくままをGoogleアシスタントに音声入力し、表示されるテキストをChatGPTに校正させて文章にするのだという。そうすれば、「書く」に特別な割り当てることなく、文章ができるのだという。
ふむ。わるくないな。
近ごろすっかりChatGPTを相棒にしているぼくは、そう思った。
そして、そのあと浮かんだこの文章の断片をスマートフォンに向かってしゃべってみようかとも思った。
けどねえ・・
既のところで思いとどまった。
試してみるのはわるくない。だが、それがぼくの「書けない」にとってのソリューションになるとは思えない。
だがねえ・・
なぜだか思い切りがよくない。
たぶん未練である。これまでへの未練だ。
だが、近いうちにトライしてみようと思う。
なんとなればとうの昔にルビコン川は渡っているのだから。
と、ああだこうだとつらつら考えた末にひねり出した結論が「呑まない」にならないのは、いかにもぼくらしいと笑うしかないのだが・・・