答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

禍と福と

2024年03月06日 | ちょっと考えたこと

 禍福。
 災難と幸福、不運と幸運をあらわす言葉だ。
 中国古典には、この禍福について言いあらわしたものがいくつかある。まずそのなかでもっともポピュラーであろうと思えるのがこれだ。

 「禍福は糾える縄の如し」(史記『南越列伝』)

 禍(わざわい)に因よりて福と為す。成敗の転ずること、譬(たと)えば糾(あざな)える縄のごとし。
 
 不幸と幸福はより合わせた縄のように交互にめぐってくる、という意味だ。


 次に、
 「存亡禍福は皆己に在るのみ」(説苑『敬慎』) 

 孔子曰く、存亡禍福は皆己に在るのみ。天災地妖も、亦(また)殺(そ)ぐこと能(あたわ)ざるなり、と。
 
 人間の生き死にや幸不幸はすべて自分自身に原因がある、という意味をもつこれもまた、人口に広く膾炙している言葉だろう。


 ではこれはどうだろうか。

「意の存するところ即ち禍福となる」(三国志蜀書『許靖伝』)

 前2つに比べると、現代日本ではけっこうマイナーなのではないだろうか。
 許靖という漢の政治家が、中原の覇者となった曹操に対して諫言の書を送った。その中の一節である。

 この言葉の前段は、
 「足下、爵侯の任につき、責重の地にあたる。言、口より出でて即ち賞罰となる」
 そのあとに、
 「意の存するところ即ち禍福となる」というこの言葉がつづく。

 責任の重い地位についた貴方の言葉というものは、その口から出た途端に賞罰をともなってしまうので、貴方の心が存在する限り、すなわち相手の幸福や不幸そのものになってしまう。

つまり、高い地位についた人間は、その言葉にはじゅうぶんな責任をもたなければならない、という意味をもった格言である。


 ところが、浅田次郎はこれを「ものは考えようだ」と解釈しているそうだ。以下それをAudibleよりの書き起こしで記してみる。

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 自分の気持ちがある。その気持ちで幸福になったり不幸になったりする。じつは人生とはそういうもんなんだよと。わかりますなあ、なんとなく。
不安なときというのは何が起こっても不安、しかし気の持ちようによっては一杯の水を飲んでも、なんて幸せなんだろう、とこう思う。
つまり、幸福というのは客観的な現象ではなくて自分の主観が決めるものであるという格言であります。
これをしっかり頭の中に植えつけると全然不幸がなくなる。いかにもポジティブシンキングな考え方であります。
(浅田次郎『私的幸福論』より)
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 さて、これからあと30分もすれば、ぼくの胆嚢摘出手術がはじまる。
 以前に報告した胆石発作は、その後、こともあろうかふたたびこの身を苦しめ、再入院を経て、今般めでたく再々入院での手術とあいなった。年のはじめから、わが身に訪れたこの現実が禍であるか、それとも福であるか。たぶんこの先にとって、わるいことではないような・・・そんな気がする手術前。折よく、何の気なしに見ていたフェイスブックでこんな言葉に出会った。

 「春は心から訪れる」

 春まだ遠い、ある北国からの発信だ。
 やはり「ものは考えよう」なのである。


コメント (2)
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