因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

空間ゼリーvol.8『穢れ知らず』

2007-09-19 | 舞台
*坪田文作 深寅芥演出 ザムザ阿佐ヶ谷 公式サイトはこちら 公演は9日で終了 一部ダブルキャスト 
 鶴女房の民話をベースにした家族崩壊の物語。知らなくてもいいこと、知らないほうがいいことがある。敢えて知らないふりをしたほうがいい、そういう処し方もある。「見てはならないもの、知ってはいけないもの」を敢えて知ったものがどうなるか。

 小さな町で工場を営む家族の居間が舞台。木造の古い家の質感、畳の温かさ、奥に伸びる廊下などを感じさせる舞台美術である。母親は愛人を作って出奔、亡くなった父親の跡を継いだ長男とその妹たち、叔父夫婦がいる。叔父は工場を手伝い、叔母は病弱な様子だ。レンタルビデオ店で働きながら家事を取り仕切る次女、その下のまだ高校生の双子姉妹、民話の研究のためにこの家に寄宿している女子大生、なぜか家の中にもどんどん入ってくる工場の女性従業員も含めて、皆が朝食をとる。東京へ行ったまま、父親の葬儀にも出なかった長女が突然帰宅し、いびつながらもどうにか保っていた小さな家のバランスが乱れはじめ、やがて過去や現在も含めていろいろな真実が明かされていく。

 長女がなぜ戻って来たかは結局最後まではっきりしないが、弟(長男)との関係や東京でしていた仕事などは結構読める展開である。双子の妹の性格の違いの描写は絶妙。勉強が良くできるしっかりものの方は町に埋もれることを恐れ、闇雲に東京に憧れるが、のんびりやで甘えん坊の方が逆に地に足がついていることの皮肉。全身黒尽くめの長女が、前者に与える服が純白のワンピースであるのはちょっと意味深である。まるで家族のような気安さで家に出入りする長女の幼馴染の残酷さはややあざとい。血のつながりのある家族と、それに近い人物がひとつの空間に頻繁に出入りする。少し距離をおいた人物、たとえば民話研究をしている女子大生などをもっとからませれば、とも思う。

 実際にものを食べる場面の描写について考えた。ザムザのような小さな劇場ではごまかしがきかない。ほんものの食べ物を出して(しかも何回も)俳優に食べさせるなら、その場面をもっときちんとみせる必要があるのではないか。俳優はものを口に入れて咀嚼して飲み込み、それと平行して台詞も言わなければならない。演技する上でそうとうな負荷を強いられることになる。そこを敢えて行うなら、それなりの必然性、効果が必要だ。いくら慌ただしい食事風景とはいえ、家族がそれなりにちゃんと食べ終わるのに不自然でない時間を取り、かわされる会話にも工夫がいるだろう。何気ない日常を描くのは大変難しいことで、しかし前述の食事の場面はじめ、小さなことをひとつひとつクリアしていかないと、ギリシャ悲劇を思わせる忌まわしい血の呪いのようなこの一家の物語が空回りしてしまう。

 まだ数回しか行ったことがないが、ザムザ阿佐ヶ谷は好きな空間である。石造りのような階段を降りるとき既に、日常とは違う場所にいざなわれていることが感じられる。客席に身を置いているときの、何とも言えない居心地のよさは、この劇場で芝居を作る方々の思いが伝わってくるせいだろう。またこの場所で新鮮な体験ができることを願っている。

 

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