因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

こまつ座第九十九回公演『うかうか三十、ちょろちょろ四十』

2013-05-29 | 舞台

*井上ひさし作 鵜山仁演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 6月2日まで1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15
 上智大学に籍を置きながら、浅草のストリップ劇場・フランス座で文芸部員兼進行係として働いていた24歳の井上ひさしが書き、この年の文部省芸術祭脚本奨励賞を受賞した作品だ。「悲劇喜劇」に掲載され、活字となった井上戯曲第一号なのだが、今日まで上演されることがほとんどなかった幻のデヴュー作を、こまつ座が初演することになった。「上演されていなかった」と明言するもの、「上演機会がほとんどなかった」と少しぼかしたものなどもあるが、本作をこよなく愛する片山幹生氏によれば、人形劇団プークの舞台がとてもすばらしい由。

 自分はもちろん今回がはじめてである。新作ではないのに、はじめて上演される作品をみるのは不思議な気持ちであった。
 「きっと好きになるから」と世話役さんから背中を押されてお見合いにゆくようで、なんだか恥ずかしく、どきどきする。そして出会った相手は世話役さんから聞かされたよりもずっと素敵な人で、ひとめで好きになってしまった。まるでずっと前から知っていて、ずっと好きだった人のように・・・。

 年甲斐もなく乙女なたとえになりましたが、はじめてみた『うかうか三十、ちょろちょろ四十』の舞台は、まさにそのような印象であった。

 自分の井上ひさしベスト3は何かと改めて考えてみる。*『イーハトーボの劇列車』*『頭痛肩こり樋口一葉』*『十一ぴきのネコ』。順位を敢えてつけないのは、どれも大好きだからだ。そこへ遺作となった『組曲虐殺』の歌が聞こえ、そうなると『黙阿弥オペラ』も黙っているはずはない。だいたい作品すべてをみて戯曲を読んでいるわけでもないのに、3本を選ぶのは作者に対して失礼だ。自分のふじゅうぶんな「井上ひさし歴」において、今夜の『うかうか~』は新しいページとして確かに記されることになった。まずはそのことを喜び、感謝したい。

 上演時間が1時間15分と、井上ひさし作品にしては非常に短いもので、あっというまに終わったが、もっと長い時間みつづけていたような感覚が残る。

 東北の村はずれ、みごとな桜の木のそばに、賢く美しい娘(福田沙紀)がひとりで暮らしている。足の悪いとのさま(藤井隆)が娘を見初め、城に入れようとするが、娘には大工の許婚(鈴木裕樹)がいた。それから9年後、またさらに9年後、同じ桜の季節にとのさまは娘の家を訪れる。時のながれに沿って3つの場面がつづくシンプルなものである。劇中で何度も歌われる優しくこっけいなわらべ歌がみるものの心を和らげる(荻野清子音楽)民話風の寓話、後年の評伝劇や戦争責任を訴えるなど強い題材があるわけでもない、民話風の寓話といえようか。

 井上ひさし作品は上演時間が長いこともあり、饒舌な印象がある。膨大な資料を読み、丹念に取材や聞きとりをして書かれる戯曲は、題材となった事象や関わった人々の思いがぎっしりと詰まっている。よく言えば濃厚であり、逆にいえばいささか盛り込みすぎなのだ。
『うかうか~』は登場人物も少なく、時間もみじかい。しかし実際に語られていることば以上のさまざまなものがが潜んでいる。
 たとえば 自然と歳月のまえにはまったく無力な人間の存在や、善意と信じて施すことが結果的に相手を悲しませる矛盾や、悪意のない顔をした権力者のおごり、搾取される一方の東北の農民の苦しみなど、掘れば掘るほど深みにはまりそうで恐ろしい。
 あっというまに終わる芝居に、もっと知りたい、聞きたいという思いがわきおこってくる。

 終幕で廃墟となった娘の家は、あたかも東日本大震災の津波で崩壊したかのようだ。そこには優しさや温かさよりも冷徹な達観や諦念があり、これが作者24歳の初戯曲であることを改めて思い、戦慄をおぼえるのである。
 

 開幕して数週間経っているが、残念ながら空席が目立つ。カーテンコールはダブルコールになり、出演者の清々しい表情が嬉しい。ずっと本棚にしまったきりの戯曲が、俳優の声と肉体によってようやくこの世に生まれ出たのだ。いわば戯曲の誕生日ではないか。ぎっしりと満席の熱気で迎え、祝福したい。

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