因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

水素74%vol.6『誰』

2015-04-21 | 舞台

*田川啓介作・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 22日まで
 田川啓介が、劇団掘出者時代に初演(ワンダーランド掲載の拙稿はこちら)した作品である。2009年春当時はいまほどスマートフォンが普及しておらず、ツイッターやfacebookなどのSNSも同様であった。2015年によみがえる、いやあらたに示される若者たちの心の様相は?

 といささか気負いながらの観劇となった。さすがに初演での「ブログ」の台詞は、ツイッター、facebook、LINEなどに変わっていたものの、SNS環境の変化が本作の核に与えた影響はそれほど大きくはない。劇作家が自己の旧作を冷静に見つめなおし、必要な改訂を加え、新しい俳優を適材適所に配して的確な演出を施した。俳優も戯曲をよく読みこみ、演出を信頼して自分の役が何を求められているかを理解しての演技であった。
 その結果、目の前に展開される劇世界はじつに堅固であり、再演に耐えうる作品であることを示している。

 派遣社員の箕輪は孤独な日々に耐えられず、近所に住むだ学生の木田の姉に横恋慕したあげくに木田を脅迫、無理やり友だちにさせた・・・と、物語がはじまる前の設定からしてすでに異常なのだが、この状況はどんどんエスカレートしてゆく。
 木田が所属するサークルは「まなざしの会」といい、メンバーたちがお互いを見つめあうこと、毎日電話やメール、ツイッターやfacebook、LINEなどにリプライやメッセージ、コメントをしては、メンバーの悩みを親身になって聴き、受け入れるのだという。箕輪は自分を大学生だと偽り、まなざしの会へ強引に入り込もうとする。

 冒頭から箕輪がその異常ぶりを暴力的といっていいほどどかどかと示すために、観客はまず「おかしいのは箕輪だ」と認識し、彼に振り回されている木田はまともな人で、「迷惑を被って気の毒に」と思う。しかし部室につぎつぎと訪れるまなざしの会のメンバーたちは一見普通の大学生ながらサークルの趣旨がちょっとどうかというだけに、正常と異常、普通やまともという認識が気持ちの良いほど壊されていくのである。木田も例外ではない。
 いまどきの若者はこんな風なのか、どこかの大学に取材をしたのか、実際のモデルがあるのかなどと、頭の中が「信じられない」モードで働くが、舞台は不思議な吸引力でこちらを引きつけ、彼らのような若者には、自分が会ったことがないだけで、もしかするとこういったコミュニティは現実にもありうるのではないかと思わせる。

 高崎線で事件が起こり、死者が出た、紙コップの飲み物に毒物が混入されていたなどなど、外部のできごとは台詞のなかにでてくるが、それは物語にあまり影響は及ぼさない。本作が初演された2009年からいまの2015年のあいだには、東日本大震災、原発事故という未曽有の大災害と大事故が起こっている。しかし作品にはまったく反映されていない。2011年3月11日以来、多くの創造者が少なからぬ影響を受け、311を題材にしたさまざまな作品が生み出されており、観客も創造物を通して311と、この国のありようを考えることを余儀なくされた。それらが一種の同調圧力を産んだこともたしかで、311と創造者との関係は、これからも検証が必要であろう。

 『誰』は311とも新しい安全保障法とも、大学生のブラックバイトなど昨今の世相の変化に、びくともしない。登場人物たちの関心は何より自分自身である。自分が相手にどう思われているか、自分を受け入れてもらうこと、認めてもらうことに汲々としている。ひたすら内側の世界でもがくばかりで、そこには311も貧困格差もイスラム国も存在しない。だから世相を反映しない2015年版『誰』は、まちがっていないのだ。

 田川啓介の作品を振り返ってみる。性格がいちじるしく歪み、周囲へのふるまいが粗暴な「極端側」の人々がいて、彼や彼女たちに振り回され、傷つけられる「まとも側」の人々がいる。前者からは悪意が溢れ出し、その毒気に充てられながら、後者に同情する。しかし後者にもそうとうな問題があることがわかってくる。にも関わらず、「現実ばなれしたありえない設定」でもなく、「現実にはこんな人ぜったいいない」とも思われないのは、田川作品の人物と似たような匂いを持つ人、何かのはずみに壊れてしまいそうな人の存在を現実に実感しているからであり、他者だけではない、自分もまた、そういった資質を持っていることを認めざるを得ないからであろう。

 いずれにしても「周囲にいてほしくない人たち」であり、自分が似ていることなど、できれば認めたくない人々ばかりである。こういう人物を演じることに対して、俳優はどんな思いを持つのだろうか。今回の俳優さんたちは、普通にみえながら急激に、あるいは徐々に歪んだ面をさらけ出していく過程をみごとにみせており、かといって過剰で劇画風の演技にはなっていない。
 何かというと半裸で大学構内を走り回る学生や、うっとうしい中年の守衛などは若干スパイス的なポジションになるが、それでもある種の現実感を根底に持っている。自分がもっともおもしろいと感じたのは、恋人の暴力に悩む友だちに同情し、手を差し伸べるふりをしながら、手のひらを返したように本音を吐き出す女子大生であった。

 自分はいま「本音」ということばを使った。『誰』の若者たちは即座に、「本音ってなに?」、「建前ってなに?」と突っ込んでくるだろう。本音をぶつけあうことも、相手を気づかって本心を明かさないのも人間のほんとうの心である。
 「ほんとうってなに?」。それを探すために、田川啓介の作品はあるのだと思う。

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