優厳 × 赤鬼通信

社会参加活動の支援を目指す「なんちゃって社会貢献チーム」の、「優しく厳しい遊び場づくり」の迷走過程を記して行きます。

「『分からない』程度の自分」でいるわけにはいかない

2006年05月01日 | Weblog
 さて、地上戦の話をしたついでに、もう少し。
 私の主義は元々、仕事は金を稼ぐための手段であって、それ以上の意味は無いと思っています。でも最近、「それ以上の意味は無い」の後に、「が、私が送り出す学生たちは、絶対に社会を良いものに動かしていくと信じている」と付け加えるようになっています。
 全ての人が「そうだ」とは言わないでしょうが、私などは「1円でも高く自分を買ってくれる人が神様だ」と思っていますので、できるだけ価値を高めるために、「ここ」でやれる最大限のパフォーマンスを、できるだけの低コスト×高品質で展開できることが最大使命だと踏まえてます。いつも役所で仕事をしてるときは、それが故か、あるいは左遷された宿命なのか(笑)、いつも行き先が「1名減」になってたものです。故に、人がいなくとも、金が無くても出来る仕事は何か・・・を、うまく遣り繰りして進める場に置かれていたものです。そのため、今でも安い資金を組み合わせて、実の多い行事を繰り広げることになる。1万円の元手があれば、案外楽しい行事がやれる。金で時間を買わずとも、いろんなことがやれるはず。

 「1円でも高く自分を買ってくれる人が神様だ」と思ってるだけに、オールマイティーに評価はされてもされなくともいいのだけど、評価というか、相手が「分からない」ところに立たれるのが、実は相当きつい。というか、まぁ・・勘弁してくれよ、と思ってしまう。悪気は無いのだろうし、実際決断することに慣れてなかったりするのだろうが、「分からない」という言葉は、いつか決定的な意味を持つことがある。
 「分からない」・・便利な言葉だ、確かに。でも、「分からない」だけでは何も進まなくなる。「分からない」で済んでしまうのなら、初めから何処へも進まないでも済んでしまう。世界が二分割されるような単純なものじゃない時代なだけに、なるほど分からないことは多いのかもしれないけど、「分からない」という判断を下されると動きが止まってしまうことになるので、止まってられない人は、どちらかの判断を下すこととなる。そして「動き始める」のだろう。往々にして、何も変わらずに動き始める・・・得たか、あるいは失ったかのどちらかであっても気付かないまま。

 欲しいものが分からないままでいると、みすみすその手から擦り抜けてしまったりすることがある。で、何らかの場面で「そのことの大きさ」に気付けば、授業料としては元を取れることもあるのだが、もっと早く明確になってれば、大きな魚を取り逃がすこともなかったのになー・・と思わないこともない、自分も含めて。つい先日、そんな話をしたものだった。
 ふと、思ったのこと・・・「分からない」は、実は「評価されていない」ことを意味するのではないのだろうか? 自分を売り込みに行くとき、「分からない」と称された場合は、きっと商品としての魅力が足りないことを如実に意味してるはずだ。もっと魅力とか効果が明らかならば、「分からない」という回答は無いはずだ。ここで、さらに相手に売り込むか、それとも別の市場へ売り込みに行くか、止まってるわけにはいかないのであれば、どちらかの判断を自らに強いることになる。
 「『分からない』程度の自分」でいるわけにはいかないのだ。だって、1円だって高く値を付けてくれる人がいるのであれば、そこに応えなければならない。打つ手がいっぱいあるのに、手を打たずに、弾を撃たずにいるのは、まるで無価値で無意味なのだ。
 欲しいものがあったら、どんなことをしてでも手に入れる。望んだものが全て手に入るわけではないだろうけど、望むことができて、手を伸ばすことができるのならば、痛い思いをしてでも、手を伸ばして明確な意思で以って「求める」べきなのだ。「求めよ、されば与えられん」、本当にその通りである。「分からない」とか言ってると、全てを見逃してしまうことになりかねない。 
 ・・・そんなことを考えるGW(ゴールデン・ウィークポイント)であった、もちろん仕事がわんさかである。

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