ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

水戸黄門こと水戸光圀の治世、文化事業では“名君”だったが領民にとってはどんな藩主様?

2023-06-21 | 茨城県南 歴史と風俗

水戸光圀  
  光圀は1661(寛文元)年8月、初代頼房のあとを継いで2代藩主となり、
1690(元禄3)年10月、養子綱條(つなえだ)に職を譲って退くまでの約30年 藩主として勤め、
その後も1700(元禄13)年12月に死去するまで太田の西山荘で「大日本史」の編纂にあたった。 

 光圀は「大日本史」を編纂をはじめに各種の文化事業にかかわり、日本の学問の発展に大きな貢献をした。
また水戸城は石垣も天守閣もなかったが、学問尊重、学者を優遇し天下の水戸としての基礎を築いたことは、
光圀の大きな業績である。名君と呼ばれる所以である。
  
  

 しかしながら、水戸藩は、第2代藩主光圀が没する頃から財政難が表面化した。

 これは、「大日本史」を中心とする文化事業に多額の費用を要したことが一因であるが、
御三家で格式が高く交際費が多かったことと、定府制で江戸と水戸の二重生活を余儀なくされたことが、大きな原因であった。

  藩の財政難を解決するためいろいろな策を施したがことごとく失敗したため、
領民に苦難な生活を強いることになった。“一民豊楽万民貧苦” が実態であった。


●1602(慶長7)年 武田信吉、下総佐倉城(4万石)より転じ、水戸城主(15万石)となる。

●1603(慶長8)年 武田信吉、水戸で病死する。
●1607(慶長12)年 中山信吉、附家老となる(一説に慶長13年)。
●1609(慶長14)年 徳川頼房、水戸25万石の藩主となる。
●1610(慶長15)伊奈忠次、備前堀(伊奈堀)を開削する。
●1616(元和2)年 頼房、千代田城内松原小路に屋敷を賜る。
●1622(元和8)年 水戸家、江戸神田台(本郷駒込)に別に屋敷を与えられる。 
                           頼房、3万石加増され、28万石となる。
●1626(寛永5)年 光圀、水戸柵町三木之次邸に生まれる。
●1629(寛永6)年 江戸小石川に屋敷を与えられる。
●1633(寛永10)年 光圀、世子に決定する。
●1638(寛永15)年 水戸城の修築工事が完成する。

●1639(寛永16)年 全領の宗門人別改帳が作成する。


〔宗門人別改帳〕

 江戸時代、幕府はキリスト教禁止令を発布し、
やがて寺請制度を確立させ、民衆がどのような宗教宗派を信仰しているかを定期的に調査するようになる。
これを宗門改と呼び、これによって作成された台帳を宗門改帳と呼んだ。 

 1665(寛文5)年に幕府が諸藩にも宗門改帳の作成を命じると、
人別帳に宗旨を記述するという形で宗門改帳が作成されるようになり、これが宗門人別改帳となる。

 1671(寛文11)年に幕府はこれを法的に整備し、
宗門人別改として定期的に調査を行うように義務付けている。
 後年になるとキリシタン摘発の激減もあって、宗門人別改帳は戸籍原簿や租税台帳の側面を強く持つようになった。 

 改帳には、家族単位の氏名と年齢、檀徒として属する寺院名などが記載されており、
事実上の戸籍として機能していた。

 婚姻や丁稚奉公などで土地を離れる際には寺請証文を起こし、移転先で新たな改帳へ記載することとされた。

  こうした手続きをせずに移動(逃散や逃亡など)をすると、
改帳の記載から漏れて帳外れ(無宿)扱いになり、
居住の制約などを受けるなどの不利益を被ることになる。
 そして、これらの人間を非人と呼んだ。

 18世紀になると宗教調査的な目的も薄れ、人口動態を確認し、
徴税などのための基礎資料として活用されるようになった。 

〔厳しい検地〕

 常陸では太閤検知後の1602(慶長7)年、
代官伊奈備前守忠次が、佐竹移封後、幕府の直轄地となった地域に検地を行った(備前検地)。

 この検知は太閤検地にならったものであるが、
一尺の空き地も残さず “慶長の苛法” といわれるほど厳重に実施された。

 水戸藩は、初めは、この検地の結果の上に領主支配を行っていたが、
1641(寛永18)年なって独自の立場で領内の検地を強行するようになった。

 水戸藩最初の検地は、太閤検地の六尺三寸を一歩(坪)としたのを、方六尺を一歩に改めた。
 これにより一反につき平均一割強の年貢が増徴したのと同じ結果になり、陰田は厳重に取り調べられた。 
 
                  

【関連記事】
江戸時代 水戸藩は百姓一揆に強硬な姿勢で臨み刑は過酷であった  



 水戸藩は元々生産力が低いうえ、年貢率が高かったので、農民の暮らしは楽ではなかった。

 農民が領主に納める年貢は、田は米(籾)で納め、畑は米の値段に換算して金で納めるのが一般的であった。

 年貢率は田と畑とでは同一ではなく、
1641(寛永18)年の検地より前は、田が四ツ八分余(四割八分余)、畑が六ツ二分(六割二分余)と
畑の年貢率のほうが多かったが、後世ではこれが逆になった。 

これを平均すると年貢率が五割五分と大分高い。

●1640(寛永17)年 隠田禁止の「捷」(3カ条)、検地役人の役料等についての「定」(5カ条)、
「起請文前書」などが江戸邸より水戸に通達される。


●1641(寛永18)年 領内総検地を実施する(正月11日開始、9月頃完了)。

   水戸藩の実高36万9400石余となる。
  多賀郡金沢村庄屋照山修理ら、検地免除を嘆願して処刑される。


●1642(寛永19)年 畑年貢徴収法として「三雑穀切返し法」が施行される。  

●1643(寛永20)年 藩法(幕府法度遵守、文武弓馬の道精励、忠孝礼儀、その他27カ条)制定される。
●1644(正保元)年 総家臣団の知行割替えを断行する。
●1648(慶安元)年 辰之口堰着工する(翌年竣工)。
             岩崎堰着工する(承応元年竣工)。

〔慶安のお触書〕
   当事、農民に対しては年貢の確保のため日常生活の隅々までこと細かく規制されていた。
その一端を1649(慶応2)年に出された全32条からなる 「慶安のお触書」で知ることができる。
 農民は「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」 と例えられるほど絞りとられたことが分かる。

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(以下、「慶安のお触書」の一部、口語訳。)

一、幕席の法令を守らなかったり、領主の旗本や天領の代官のことをなおざりにせず、
   なおまた、村の名主や組頭を真の親と思うようにせよ。


一、朝、早起きをして草を刈り、昼は田畑の耕作をし、夜は縄をない、俵を編み、
  どんな仕事でも手を抜かないようにせよ。  


一、酒・茶を買って飲んではならない。妻子も同様である。 


一、百姓は分別がなく、先のことも考えない者であるから、
  秋になると米・雑穀をおしげもたく妻子へ食わせてしまうことになる。
  常に正月・二月・三月の頃(食物が少ないとき)の気持を持って、食物を大切にすべきだ。

   ついては、雑穀が第一であるから、麦・粟・稗・菜・大根、
  その他何でも雑穀をつくり、
  米を多く食べないようにしなければたらない。
  飢饅の時を考えれば、犬豆の葉・小豆の葉・ささげの葉・
  いもの落葉などをおしげもなく捨てることは、もったいないことである。


一、男は田畑の耕作に精をだし、
  女房はおはたを(苧の機織で)稼ぎ、夜なべをして、
  夫婦共に稼ぐようにせよ。
  したがって、見てくれの良い女房でも、夫のことをないがしろにし、
  茶のみ話が大好きで、杜寺への参詣や行楽を好む女房は離婚せよ。


   しかし、子供が多くいて、前々から世話になっている女房ならば別である。
  また、見た目は悪くても、夫の家庭を大切にする女房は、とにかく大切にすること。


一、百姓は、衣類については麻布・木綿の外は帯や衣の裏にも使ってはならない。
   少しは商発の心がまえを持って、財産をふやすようにせよ。
  その理由は、年貢を納めるため雑穀を売る時に、
  また買う時にも、商売の心が無かったら人に出し抜かれるからである。 


一、たばこをのんではならない。これは職のたしにもならず、
  結局のちに厄介なことになるものである。
  その上、時間もかかり、代金もいり、火の用心にも悪い。
  すべて、損なものである。  

  右のように物事に念を入れ、家計が楽になるように稼ぐようにせよ。
  ・・・・・・・年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど楽なものはない。
  よくよくこの趣旨を心がけ、子孫代々にまでも語り継ぎ、
  一生懸命稼ぐようにすべきである。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「年貢の納め時」
 
 「年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど楽なものはない。」とはよく言ったものだ。
 年貢の納入時期は毎年11月。米の収穫が思うようにいかぬから、
農民は減免をもとめ色々抵抗したが、お上に逆らえず、しぶしぶ年貢を納めた。
 これを 「年貢の納め時」 と言った。

  この「お触書」をみると、たばこ、綿、菜種などの商品作物が栽培されていたこと、
農民が酒を飲み、煙草を吸っていたことが分かる。

 酒を飲むな煙草を吸うなとお上から言われ、
苦労して作った米などの作物を年貢としての納めることは農民にとっては大変なことであった。
 まるで二足歩行の家畜ではないか。

●1656(明暦2)年 小場江堰着工する(万治元年竣工)。

●1657(明暦3)年 江戸駒込邸に史局を設け、『大日本史』の編纂に着手する。
●1661(寛文元)年 光圏、第2代藩主となる。
●1662(寛文2)年 笠原水道着工する(翌3年完成)。

●1666(寛文6)年 一村一鎮守制を定め、多数の社寺を整理する。
     この年、光圀、大船快風丸を建造する。 

  藩主光圀は、大船快風丸を建造して蝦夷地探検を行い物産を交易したり、
紙の生産奨励と専売制、金山の採掘、馬の放牧などを行って産業の振興に努めた。


●1670(寛文10)年 軍制改編が行われる。
●1671(寛文11)年 綱条、光圀の世子となる。
●1672(寛文12)年 江戸駒込の水戸藩別邸の史局を小石川本邸に移し、彰考館と名づける。
●1676(延宝4)年 安史局の史料収集はじまる。
●1679(延宝7)年 『扶桑拾葉集』30巻成稿。
●1683(天和3)年 彰考館に総裁を設け、初代に人見懋斎が任命される。「新撰紀伝」104巻完成する。


〔財政難〕  

 元禄から宝永になると水戸藩の財政難ははなはだしくなり、藩士の俸禄も滞りがちとなった。
江戸初期の農村は自給自足経済が原則であったが、元禄頃になると農村では商品作物の栽培が盛んになった。
 その結果、農村は貨幣経済に巻き込まれていった。武士も同様であった。 

 “名君”の光圀が水戸から遠く離れた江戸で「大日本史」の編纂が本格的に行われていた頃、
水戸藩では城下町に住む町民も生活に苦しみ農民は高い年貢を払わなければならなかった。

 しかも農民は高い年貢を払わなければならなかっただけでなく、色々な名目で税を課されていた。
畑百石の収穫高に対して、大豆、稗(ひえ)、荏(え、じょうね)の三雑穀を納めることになっていた。

  農民には不利な値段で三雑穀を買い取らせるような形で金納させる「三雑穀切り返し法」をはじめ
いろいろな形の付加税や臨時の税が課せられた。

 年貢以外にも助郷や夫役という労力の提供も義務付けられていた。
 それこそ乾いた雑巾を絞るように絞り取られたのであろう。


●1688(元禄元)年 紙専売制を実施する(宝永4年廃止)。
     栗山潜鋒の「保建大記」成る。
●1690(元禄3)年 光圀致仕し、綱条、第3代藩主となる。
     契沖、『万葉代匠記』精選本を完成する。
     領内年貢付荒高6万1千余石に達する。   
●1691(元禄4)年 光圀、太田西山に退隠する(64歳)。 
     光圀、水戸家の墓地瑞竜山に寿蔵碑、梅里先生の碑を建てる。
●1693(元禄6)年 安積濃泊、彰考館総裁となる。

●1694(元禄7)年 光圀、藤井紋太夫を小石川邸で手討ちにする。 

〔綱紀の弛緩〕
 藩主光圀は、民政では年貢の減免、凶作や飢饉に備えて領内各地に稗(ひえ)倉を建てたり、
「救荒食法」「救民妙薬集」を編纂して農民の間に本草医学の知識を広めたり、
孝子節婦を表彰し道義の高揚を図った。

 しかしながら、貨幣経済の浸透、豪農・豪商の土地兼併、貧農の増加による藩の財政は悪化し、
領民の生活難が目立つようになり家中の風儀が乱れてきた。

 1694(元禄7)年、光圀自身が藩の老中藤井紋太夫を小石川邸で手打ちにしたが、
これは綱紀の弛緩
を物語るものである。


●1696(元禄9)年 領内神社の整理を実施する。
●1697(元禄10)年 「百王本紀」完成する。
●1698(元禄11)年 彰考館を江戸から水戸城内に移す。 
●1700(元禄13)年 光圀(義公)、西山荘で死去する(73歳)。


〔御用金の徴収〕
 この頃から藩の財政難が表面化した。
 この年、領内の富農や城下の町人に藩としては初めて「御用金」を命じた。
これは将軍綱吉の小石川藩邸御成りの費用に充てるためであった。

 水戸藩としても生活難に苦しむ農民や町民の救済のため家臣には江戸詰費用の増額、
年賦借金の貸出、農民には籾(もみ)や金の貸与を行い、度々倹約令もだしていた。 


 光圀没後は、毎年のように御用金を徴収し、藩の財政難は慢性化した。
 この年の御用金の総額は、1万6338両で、出金者数は153人であった。

 一人当たり約107両である。
 当時の1両は現在の1万円以上の額に相当
したから、庶民にとっては大きな出費であった。


●1701(元禄14)年 新田などを加え35万石を幕府から公認される。
     『礼儀類典』510巻・付図3巻完成する。
●1703(元禄16)年 江戸の大地震で小石川邸全焼、駒込邸過半を焼失する。 
●1704(宝永元)年 はじめて藩札を発行する。


〔藩札の発行と開発事業〕

 水戸藩は金貨一分(一両の四分の一)にかわる紙幣(藩札といった)を大量に発行して急場をしのいだ。
   水戸藩は、宝永期に入ると、家臣に俸禄を定期的に支払うことが困難になり、財政再建の実行を迫られるようになった。

 そこで水戸藩は浪士事業家・松波勘十郎を招き、
思い切った積極的開発策を実施し一挙に財政難を切り抜けようとしたが成功しなかった(宝永の改革)。


 この時の事業で最大のものは、
涸沼と北浦を船で結ぶため北浦にそそぐ巴川と涸沼の間に運河を計画したことである。
運河の工事は1709(宝永6)年1月、領内農民の大規模な一揆にあって挫折した。

 また平地林を伐採して農地として生産の増加を図ったが、
水戸城と仙波湖を干拓して増産しようとしたが家臣団の反対にあって、これも頓挫した。 


●1706(宝永3)年 松波勘十郎、300人扶持を与えられ、「勝手向之御用」を司る。

●1708(宝永5)年 勘十郎、財政改革を行う。領内農民、改革反対の大一撲を起す。
●1709(宝永6)年 領内農民の改革反対一揆が活発となる。勘十郎、罷免される。

●1711(正徳元)年 宗尭、綱条の世子となる。
●1715(正徳5)年 紀伝の書名を『大日本史』と決定する。「大日本史叙」成る。
     正徳本『大日本史』(本紀73巻、列伝170巻)が脱稿する。
●1718(享保3)年 綱条死去し、宗尭、第4代藩主となる。 
  


〔人々の暮らし〕
   荻生徂徠は「政談」の中で、
「昔は農村では特に貨幣が不足し、いっさいのものを銭では買わず、
皆米や麦で買っていたことを、私(荻生徂徠)は見て覚えている」。

 ところが、最近の様子を聞いてみると、
元禄の頃より田舎へも銭が普及し、銭で物を買うようになっている。

 ・・・・・・・・・・・・今の時節、武士は旅の宿にいるような不安定な状態なので、
お金がなくてはたちゆないから、米を売ってお金にして商人より物を買って日々を送っている。
 そこで、商人が主で武家は客である。

 したがって、諸物価の値段は武家が思うようにはならないのだ。
武家が皆知行地に住んでいる時は、米を売らなくてもすむので、
商人が米を欲しがるから武家が主となり、商人は客となる。

  ゆえに、諸物価の値段は武家の思うままになる。
これは皆、昔の聖人の広大深甚の知恵より生まれた万古不易の掟である。
右のように米を大変高値にすれば、城下町に住む町人は皆雑穀を食べるようになるであろう。」
と記している。 


 荻生徂徠の「政談」は、徳川吉宗の諮問に応える形式で幕政改革についての意見書。
全4巻。享保期(1716~1736年)に作られたもの。



〔水戸黄門様は名君といわれるが

  領民にとっては “とんでもないとんでもない”・・・・・・〕

 水戸黄門諸国漫遊記』は数ある時代物のうちで、人気の衰えない話である。
 水戸黄門様は白いひげをたくわえ、助さん、格さんを従え国々を漫遊し、
行く先々で「この印籠が目に入らぬか!」と悪代官やその手下を懲らしめ、
苛政に苦しめられていた町民や農民を助けたという話は映画や講談などで有名である。

 この黄門像は天下の副将軍としてのものであり、その下敷きとなっているのは二代水戸藩主水戸光圀としての名君の誉である。
を光圀は『大日本史』の編纂のほか、士風の高揚、寺社の整理と復興、農業の増進など積極的な政治を進め、藩体制の基礎を作った。
 光圀が死んだとき江戸の人々は「天が下二つの宝つきはてぬ佐渡の金山水戸の黄門」とうたって悲しんだといわれているが、
映画や講談の「水戸黄門様」は、明治20年代に作られた架空の話である。

 実際の水戸光圀との違いに留意する必要がある。 

 その一は、水戸の徳川家が天下の副将軍と称することで、
あたかも将軍家に次ぐ高位にあるかの印象を与えることである。
実際の水戸藩は、尾張・紀伊についで御三家の中では最も格下であった。

 二つ目は、江戸時代は、いきなり「葵の御紋」を振りかざして
善悪の決着がつけられるような社会ではなかったという事である。

 身分を問わず訴訟が行われ、公然の対決や扱い人を入れての内済(ないさい)・和談(わだん)というのが公事の処理であり、
犯罪であれば、武士は目付、町人は町奉行、寺社関係は寺社奉行と、
それぞれの身分に応じた司直の機構がある。
そういう機構の縄張りを無視できなくなってくるのが近世である。 

 もちろん頭越しの影響力行使や手加減はあった。
だが、それは規則・制度を運用する条件としてである。
『漫遊記』の登場はそよな規則ずくめで非効率な社会に対する反発とい言う側面があった。


 光圀のような名君藩主によって作られてゆく藩体制の内では、
農民や町民は生活難に苦しんでいた。

 時期がたつにつれ、他の藩と同様、財政などの行き詰まりを深めたため、
史実以上に誇張された名君像が作られたという事情もある。

“水戸黄門”こと水戸光圀の治世をみると、文化事業では“名君”といわれるが、
藩財政の悪化と領民が生活苦に呻吟していたにも関わらず「大日本史」の編纂など文化事業に注力していた。
 領民にとっては、“とんでもないとんでもない”統治者であったと見るのが妥当のようである。



【参照文献】 

鈴木暎一著「水戸藩のあゆみ」筑波書林 1993年8月25日   
瀬谷義彦・豊崎 卓著「歴史シリーズ8 茨城県の歴史」山川出版社 昭和62年8月20日 
深谷克己著「大系日本尾の史⑨士農工商の世界」小学館 1993年4月20日 

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