ほるほる

矢作川のほとりで枝下(しだれ)用水を、
徐福・百済王で中韓日の渡来人伝説を楽しむ
逵(つじ)志保のページです

2020年1月25日 東海日中関係学会研究発表「中韓日をめぐる徐福伝説の現在」発表要旨

2020-01-29 00:46:12 | 徐福伝説
2020年1月25日、東海日中関係学会で研究発表をおこないました。
どんな発表をしよう、というのは前夜まで悩んでいましたが、
今回、服装だけはかなり前から決めていました。

「いつも地味な色だから、もっと華やかな色を身に着けなさい」と
昨秋来日した大兄・張雲方さんが思い切って買ってくださったというシルクのショール、
これでいこうと決めていたのです。

ですが実は中国のショールってボタンが付いていて、
クルンと首に巻くだけではない、いろんな巻き方があるようで、
どうしたらいいんだろうと大兄に相談、
なんとお店まで行って、店員さんにあれこれ巻き方を動画にしてもらって
送ってくださいました。
で、こんな感じになりました。好評!



以下は発表要旨です。
ダダっと打ったものですが、このあと別の視点で徐福を書きたいと思っていて、
だから余計に、今話していることを書き留めておこうと思いました。


 報告者は中韓日をめぐる徐福伝説を、民俗学の立場から調査研究してきた。徐福伝説の真偽ではなく、地域がいかにその伝説とともに生き、そしてこれから生きていこうとしているが研究対象となる。近年の中国の徐福伝説をとりまく状況を中心に紹介し、中韓日の徐福伝説を通してなにが見えてくるのかを考えてみたい。

1 徐福伝説の歴史的変容
 司馬遷『史記』には、紀元前219年、始皇帝の命を受けて、徐福が童男童女数千人とともに、東海の三神山(蓬萊・方丈・瀛洲)へ不死薬を求めて船出したことが記されている。徐福は五穀の種と百工と呼ばれる先進の技術者も連れており、後に広い野原の水のあるところを得て王となり、帰らなかったと伝わる。徐福伝説は以来中韓日で書き継がれ、歴史的変容を遂げてきた。白楽天は船のなかで老いて亡くなる童男童女を描き(「新楽府五十首(其四)海漫漫戒求仙也」)、釋義楚は日本僧からの聞き取りとして、徐福の日本渡来を初めて記した(『義楚六帖』)。その後、日本の詩人・絶海中津は明の太祖に謁見し、詩をおくりあっている。これは単なる文化交流ではなく、中国が倭寇に手を焼き、日本へのメッセージを送りたかったためだと言われている。徐福は昔から政治的場面で使われてきたのである。
 徐福を描いた作品はこれまで600以上を数える。現在も本宮ひろ志が漫画『こううんりゅうすい(行雲流水)〈徐福〉』(集英社)を連載し、ゲームや映画もつくられている。

2 徐福伝説との出会い、徐福縁
 報告者が徐福伝説と出会ったのは、1987年に日本高校生友好訪中団による訪中があり、外国人団体に贛楡県行きが初めて許可されたときのことである。そこには抗日山があり、戦中の話と同時に、この地は徐福の故郷であり、2200年も前の徐福から続く日中友好の歴史を引き継いでほしいと言われた。そこから徐福伝説研究をはじめ、徐福縁ある方々に支えられて35年が経った。

3 中韓日をめぐる徐福伝説の動向
 近年の中韓日をめぐる徐福伝説の動向を見ていこう。1978年、鄧小平氏は日中平和友好条約調印のために訪日したが、そのとき「蓬莱の国に不死薬を求めにきたが、いまはもうない。代わりに新しい技術を持ち帰りたい」と話した。このとき日本政府は、熊野地方で徐福が不死薬として求めたと伝わる天台烏薬を土産に渡している。このように近年も徐福は政治的場面で使われた。
 2008年、中国で「徐福東渡伝説」が国家級非物質文化遺産として登録された。その司令を出したのは、浙江省総書記時代の習近平氏であった。習近平氏は2014年7月の訪韓の際、ソウル大学にて講演したが、そのとき「かつて徐福が来た韓国に来た」と挨拶している。
 にもかかわらず、2012年9月、尖閣諸島国有化をめぐって日中関係は冷え込み、徐福東渡2222年中国徐福文化象山国際大会は、急遽開催中止となった。この国際大会は象山の港町での海開き祭典が、徐福船団の船出を連想させるということで、この祭りの日に合わせて準備されていた。しかし2012年のこのとき、海開きの祭典は尖閣諸島に抗議の船が出発していると報道された。
 それから3年、それまで徐福のイベントは許可されなかったが、ようやく2015年10月、中国江蘇省連雲港市贛楡区で開催されることになった。テーマ「徐福文化と“一帯一路”の接点建設国際シンポジウム」は、地方政府がイベント開催の許可を得るために考えた苦肉の策だった。
 政治に翻弄されることなく、これまで築き上げてきた地域間のネットワークを、今後強化させていこうと、世界文化遺産登録を目標に掲げ、徐福文化国際研究協議会と事務局設立が中国で宣言された。それに対応するため、2016年5月には日本徐福協会が設立された。中止となっていた象山国際大会は、ようやくこの年に開催された。前述の海開きの祭典の姿は、ようやく徐福の船出と重ねられた。
 ここで今回の演題を「中韓日」としていることについて説明しておきたい。報告者は主催者がイベント名を中国語・韓国語・日本語で並列表記する際、国ごとに中日韓、韓日中、日中韓と入れ替えるのを見て、徐福渡海の方向に合わせ、中韓日に揃えたほうがいいのではないかと提案してきた。韓国咸陽など、少しずつ報告者の意見が反映されるようになってきている。

4 徐福伝説の現在
 昨年度の状況から、徐福伝説の現在を考えてみよう。2019年4月26日〜29日、琅琊及徐福研究会(中国山東省)で「2019年 中韓日の専門家による琅琊徐福出航地の国際交流活動」がおこなわれた。続いて4月30日〜5月1日、蘇州市徐福研究会(中国江蘇省)で「「徐福千灯から東に渡る」演舞初演式」がおこなわれた。どちらもこれまでの徐福研究の発表会ではなく、徐福を通した中韓日の交流であり、今後より多くの人びとに徐福を伝えるにはどのように展開していくべきかがテーマとなった。この傾向は韓国でも日本でも同様である。
 そうした流れのなかで、昨秋、魯東大学(中国山東省)で徐福プロジェクトを立ち上げようと大学研究者らが動き出した。徐福研究の環境を整えるため、中韓日の徐福の基礎資料とそれぞれの研究成果を共有できるものにしていこうという徐福プロジェクトが始まろうとしている。

5 徐福伝説とはなにか
 徐福伝説を民俗学の立場で見てみると、中韓日のもうひとつの交流史が見えてきた。昔も今も徐福は中韓日の政治的場面に登場する。徐福伝説はその時代の要請を受け、ときに浮上しときに隠され、それでも地域の人びとのアイデンティティとなっている。
 昨秋、徐福が探したと伝わる不死薬・天台烏薬の種を和歌山県新宮市から持ち帰った。種は庭で元気に芽を出した。徐福伝説を通して見えてくる中韓日の交流史、それはこれからも政治に翻弄されることになろうが、2012年のときのように、これからどうなるのかと心配するのではなく、それを乗り越えたいま、天台烏薬への水やりを忘れないのと同じように、徐福伝説が作り出す中韓日の交流史に主体的に取り組んでいきたいと考えている。

2020年の徐福伝説に関するイベント
 1月20日(月)童男山ふすべ  【福岡県八女市】
 3月14日(土)延岡徐福伝説伝承会講演会(逵)・映画「徐福」上映  【宮崎県延岡市】
 8月12日(水)・13日(木)第58回熊野徐福万燈祭・新宮花火大会 【和歌山県新宮市】
 9月25日(金)−10月25日(日)咸陽山参アンチエイジングEXPO【韓国慶尚南道咸陽郡】
 11月3日(祝・火) 与謝蕪村「方士求不老不死図」施薬寺特別公開 【京都府与謝野町】
 未定 徐福文化国際シンポジウム    【中国江蘇省連雲港市贛楡区】
 未定 国際徐福文化祭    【韓国・済州島西帰浦市】

逵 志保(つじ しほ)horuhoru4@gmail.com
1967年東京生まれ、あま市在住 
豊田土地改良区資料室長、愛知県立大学・中京大学・愛知淑徳大学非常勤講師
魯東大学兼職教授(中国山東省煙台市)
愛知県立大学大学院国際文化研究科博士課程修了。博士(国際文化)。
著書:『徐福伝説考』(1991年、一季出版)、『徐福論』(2004年、新典社)、共著『枝下用水史』(2015年、風媒社)ほか
日本民俗学会会員、日本口承文芸学会会員、東海日中関係学会理事、治水神・禹王研究会理事、日本ペンクラブ会員、津島市文化財保護審議会委員、
蘇州市徐福研究会顧問(中国江蘇省)、連雲港市徐福研究所特約研究員(中国江蘇省)、
琅琊及徐福研究会特約研究員(中国山東省)、
巨済徐福会研究顧問(韓国慶尚南道)、済州徐福文化国際交流協会諮問委員(韓国済州道)、
日本徐福協会顧問、八女徐福会顧問(福岡県)、熊野市観光大使(三重県)
2011年 徐福文化研究特別貢献賞受賞(中国国際徐福文化交流協会)
2013年 徐福文化学術研究賞受賞(中国徐福会)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「西の正倉院みさと文学賞」... | トップ | 2020年2月1日(土)〜3月8日... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

徐福伝説」カテゴリの最新記事