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読書力(斎藤孝)

2009-03-21 00:09:07 | 本と雑誌

Dokusyoryoku1 読書力(岩波新書)
★★★★☆’:85点

斎藤孝氏が読書について熱く語った素晴らしい本です。斎藤氏にとってはやや古い著作(2002年)で、書名・テーマ的に当然読んでいて不思議なのに、何故かこれまで読んでいませんでした。

読み始めてすぐに、この本には良いと思うところが多いと判断し、いつもよくやるページの端折りやメモパッド貼りもあまりせず、なるべく集中して読むようにしました。特に、序章「読書力とは何か」、第1章「自分をつくる-自己形成としての読書」が素晴らしかったです。

まずは、「まえがき」より抜粋。

日本ではいつのまにか、本は、「当然読むべきもの」から「別に読まなくてもいい」ものへと変化してしまった。読書は・・・・ぜひとも習慣化すべき「技」だと頑固に考えている。「読書力」は日本の地力。私は、この国は読書立国だと勝手に考えている。読書力さえあればなんとかなる。数多くの学生たちを見てきて、しばしば切実にそう思う。

「単なる娯楽のためだけではなく」、「多少とも精神の緊張を伴う読書」が、この本のテーマだ。ちょっときついけれども楽しい。この感覚を読書で子どもたちに、そして大人たちに味わってもらいたい。この感覚があれば、どの本を読むのかはやがて自分で決めていけるし、ゆたかな世界へ入っていける。

一部省略していますが、この「まえがき」をここまで読んだだけで、激しく同意。”「単なる娯楽のためだけではなく」、「多少とも精神の緊張を伴う読書」”は、最近、楽しみのための読書が殆どである私にとってやや耳の痛い意見ですが、その意図は十分に理解できます。

「読書力がある」ことの1つの目安のラインとして、「文庫100冊・新書50冊を読んだ」というものが掲げられているのも具体的で良いと思います。文庫については、推理小説や完全な娯楽本を除いたもので、星新一のショートショートは質が高いものの除外。漱石の名作群は問題なし。司馬遼太郎の小説あたりが境界線というハイレベルなものです。期間については、文庫100冊は4年間でとなっていました。

期間は別として、私は数で言えば「文庫100冊・新書50冊を読んだ」は楽にクリアしているものの、質を問われると疑問符がつきますね。哲学書・思想書・経済書は殆ど未読ですし、人文科学・社会科学系の読書量は少ないです。外国人の著書も一部の小説以外は殆ど読んでいません。人によって嗜好の違いもあるので、斎藤氏の基準に必ずしもぴったりと適合しなくてもやむなしと思いますが、「いきの構造」「風土」「陰影礼賛」「忘れられた日本人」などは、やはり読んでみないといけないかな?

第1章「自分をつくる-自己形成としての読書」では、「一人になる」時間の楽しさを知る、自分と向き合う厳しさとしての読書、単独者として門を叩く、経験を確認する、人間劇場、読書自体が体験となる読書などの項目が良かったです。また、第3章「自分を広げる-読書はコミュニケーション力の基礎だ」の内容にもうなずけるものが多かったです。そう、まえがきにもあったように、読書力さえあれば色んなことにおいてなんとかなると思います。

巻末の「文庫百選」-読書力おすすめブックリスト-も面白かったし、良かったですね。私が読んだことがあるのは15、6冊でしたけれど。ここに挙げられてる本もいずれ読みたいなあと思いました。

この「読書力」を読んで、感銘・共感を覚える人、ああそうなんだなあ・・・とか なるほどなあ・・・と思う人、「うんうん、そうそう」とうなずく人、そして、いささかの劣等感を抱く人(読書力の無い人は劣等感すら抱かないはずなので)。そういう人であれば、私は洞察力・総合判断力のある人、きちんと自己形成ができている人/できる人、人の話をきちんと聞いて理解し自分の考えもきちんと伝えることができる人、として信頼するに足る人と判断して良いと思います。もちろん読書力だけですべてが決まる訳ではありませんが、人を評価する一つの大きな基準になると思います。これからは、「楽しみのための読書」の中に「多少とも精神の緊張を伴う読書」も混ぜていきたいものです。なかなか難しいとは思いますけれど。

(「BOOK」データベースより)
本を読むことの意味は何?案外答えにくい問いに、「読書によって…の力がつく」という形で考え、コミュニケーションの力、人間を理解する力との関わりを示します。自分をつくり、鍛え、広げることが、読書とどう結びついているかを述べて、あらためて読書の本質を見つめます。心に残るフレーズ、工夫の手がかりも満載です。