母をおもう
2008年は「子年」。母は69歳で他界したが、生きていれば今年は96歳である。私のすぐ下の弟もまた子年である(本年還暦で団塊真っ只中)が、この二人は部屋の模様替えが好きで、思い立ったら夜中でもガタゴトと家具を動かすことを厭わないという、何ともはた迷惑な趣味で一致していたものである。(子年の方ってみんなこうですか?)
母は唐津の高等女学校を出た後「女子高等師範学校」に進みたかったのであるが親が許してくれなかったと後々までこぼしていた。私は教師志望など更々抱かなかったが、母の場合、進学していたら、おそらく人間味あふれる良き教師になっていただろうにとひそかに思う。
母は和裁と料理が上手だった。私の結納の日、小林昌明先生と末永昶牧師とO兄が我が家を訪れ、型通りの事が終わった後、母は楽しみながら「和」のフルコースのもてなしをした。そして、母の頭の中では娘の結婚に際しては着物を持たせることが常識であったらしく、一通りのものを仕立ててくれた。けれど時代は最早洋の時代であり、それらは頻繁に袖を通されることはないまま、母の死後運転免許を取得した私は、もう着物を着ることはないだろうと、心中ひそかに決別したつもりでいた。
母の49日が過ぎて兄嫁や弟嫁達と形見分けをし、何枚かの着物や帯なども持ち帰り、箪笥に押し込んだままで15年程が過ぎていた。ある日箪笥を開け、胴裏にシミが広がり、表面も何か湿気を帯びたようなごわっとした紬の着物等を手にした時、日々の忙しさの中で封印していた母の思い出が弾け飛び散り、涙が溢れて仕方がなかった。母を着よう―、しみじみ思った。洗い張りに出し、母と違って細身の私だから仕立て直しを頼み・・・、こうして晩年の母を着て運転する娘となった。
母は思いがけず早く亡くなったために伝道は叶わないままだった。しかし私達一家が小倉にいた頃、母教会の末永牧師夫人より電話が掛かってきた。「塩狩峠」の映写会の案内で母を訪ねたところ、「そんなにいい映画でしたら友人達にも紹介いたしましょう」と20枚近い券を引受けたのだという。娘たちが関わる教会へのひたすらな信頼があった。
ことごとくその人柄は母に似ない娘であるように思うが、子年の正月、ひとしきり母が恋しい。
O.K.
2008年は「子年」。母は69歳で他界したが、生きていれば今年は96歳である。私のすぐ下の弟もまた子年である(本年還暦で団塊真っ只中)が、この二人は部屋の模様替えが好きで、思い立ったら夜中でもガタゴトと家具を動かすことを厭わないという、何ともはた迷惑な趣味で一致していたものである。(子年の方ってみんなこうですか?)
母は唐津の高等女学校を出た後「女子高等師範学校」に進みたかったのであるが親が許してくれなかったと後々までこぼしていた。私は教師志望など更々抱かなかったが、母の場合、進学していたら、おそらく人間味あふれる良き教師になっていただろうにとひそかに思う。
母は和裁と料理が上手だった。私の結納の日、小林昌明先生と末永昶牧師とO兄が我が家を訪れ、型通りの事が終わった後、母は楽しみながら「和」のフルコースのもてなしをした。そして、母の頭の中では娘の結婚に際しては着物を持たせることが常識であったらしく、一通りのものを仕立ててくれた。けれど時代は最早洋の時代であり、それらは頻繁に袖を通されることはないまま、母の死後運転免許を取得した私は、もう着物を着ることはないだろうと、心中ひそかに決別したつもりでいた。
母の49日が過ぎて兄嫁や弟嫁達と形見分けをし、何枚かの着物や帯なども持ち帰り、箪笥に押し込んだままで15年程が過ぎていた。ある日箪笥を開け、胴裏にシミが広がり、表面も何か湿気を帯びたようなごわっとした紬の着物等を手にした時、日々の忙しさの中で封印していた母の思い出が弾け飛び散り、涙が溢れて仕方がなかった。母を着よう―、しみじみ思った。洗い張りに出し、母と違って細身の私だから仕立て直しを頼み・・・、こうして晩年の母を着て運転する娘となった。
母は思いがけず早く亡くなったために伝道は叶わないままだった。しかし私達一家が小倉にいた頃、母教会の末永牧師夫人より電話が掛かってきた。「塩狩峠」の映写会の案内で母を訪ねたところ、「そんなにいい映画でしたら友人達にも紹介いたしましょう」と20枚近い券を引受けたのだという。娘たちが関わる教会へのひたすらな信頼があった。
ことごとくその人柄は母に似ない娘であるように思うが、子年の正月、ひとしきり母が恋しい。
O.K.