風 囁

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている教会員の証し集

2006年3月5日 モンブラン登山記(後編)

2007年03月31日 23時48分43秒 | 教会員の証し
   モンブラン登山記(後編)

 その間、わずかの平地で休憩を取りながら前進あるのみ。黙々と登る。横を向けば下まで1000メートルは滑落しそうだ。さらに頂上近くになると高山病ではないかと思われる吐き気と頭痛がしてくる。常時危険を感じながら、さらに登っていくと、気が付けば午後4時30分にようやく頂上に辿り着いた。
 快晴・絶景である。渺々(ビョウビョウ)たる静寂と光のかなたにスイス、イタリア、オーストリアのアルプスが輝いて見えた。まさに感動と、自然への畏怖の念を同時に授かり全身に衝撃が走った。夕暮れとなりヘッドライトを点灯してグーテ小屋へ到着した。仰ぎ見れば満天の星座の輝きと果てしなく広がる宇宙の星屑に又、感動した。
 7月3日、早朝、黄金色の光に染まった積雪の稜線を一気に下った。一挙に18時間も歩いたモンブランに感謝と別れを告げスイスに戻り、清楚な高山の花々の群落カールがあるセントニコラウスのワーンホルンとサースフェのシュピルボーデンにも登った。
 ヨーロッパアルプスの山々の山頂には必ず十字架が建ててあって、なぜか、いつもドイツ語で「神我らと共にあり」と記されている。まさに「そのとおりです。アーメン」と心の中で叫んだ。
  此の度の登山は10日間でモンブランを始め、5箇所のアルプスを登頂・踏破したが、少々オーバーワークとなったので、日本に帰って体重を計ってみると8キロも減少していた。
しかし、主からは肥満になる程の恵み(感動)をいただいた。

  T.N

2006年2月26日 モンブラン登山記(前編)

2007年03月30日 17時13分39秒 | 教会員の証し
   モンブラン登山記(前編)

 ヨーロッパ最高峰モンブラン(4807m)へは2005年6月29日に出発し、スイスのチューリヒ経由で、電車~登山電車を4度も乗り継ぎながら、登山者で賑わうフランスのシャモニーに到着したのは7月1日である。
 早速、体調を高所対応させるためモンブランと対面する位置にあるブレベントからラックブランを縦走して、翌日に登る雄大なモンブランの全景を眺めた。
 モンブラン山群のなかで、荒々しいドリュウやグランドジョラスと異なって、一段と高いところに真っ白い、丸いお餅が重なっているような雄姿だ。ヨーロッパアルプスの中央部で静かに地球の鼓動を感じながら存在感を示し、未来をも黙視している。しばらくは息を呑んで見つめていた。
 そして私の意気込みを知っていたかのように、ずっと待っていてくれたような気がしていた。下山し、シャモニーのモンブランガイド組合に行き、翌日からのパートナーとなるフランス人登山ガイドのメラ・モンテンバーさんと会い、ルートプランの打ち合わせをする。二日後から天候状況が悪くなると言うので、翌日は早朝五時半に出発し、一気に登頂を目指すというのだ。
 7月2日、夢にまで見たモンブラン登頂を目指す。さすがに前夜は興奮して四時間ほどしか眠れなかった。しかし、意気軒昂である。ホテルを出発しモンブラン登山口のエギーュ・デェ・ミディを越えると、雪と氷の別世界。いきなり両サイド800mの落差のある1.5m幅の雪尾根を歩く。
 ガイドのメラとザイルで繋ぎ合い、足にはアイゼンを装着し、両手にストックとピッケルを持って一歩一歩確認しながら歩くのだ。途中の雪質は、ズボッと深く入る場所、シャーベット状の場所、急斜面で片足を雪に踏み込ませながら先へ回り込まないと進めない場所。
 さらに斜面全体が雪崩で落ちそうになっている場所。積雪が凍って降ってくるアイスフォールがある場所等々、百m登るのに一時間はかかった。(次週へ続く)

  T.N

2006年2月19日 平尾の早春 蝶の通い路

2007年03月29日 17時39分45秒 | 教会員の証し
  平尾の早春 蝶の通い路

 日々大雪の災害の情報も多く、不順な冬だったが、立春も過ぎると教会の裏庭の梅は蕾をふくらませ、銀杏、蜜柑、柿の喬木も芽をつ吹く気配を見せる。これらの幹にまつわりつく様に常緑のヤツデ、ぐみ、東のブロック塀に沿って、紫陽花、山茶花、ヒメシャラ等園芸種も混じるが、かっての平尾の雑木林を思わせる。
 地面にはもう蕗のとうが幾つも頭を出している。教会堂新築前から斑の花を付けるほととぎす、水仙のひと群れがあったが今は見当たらない。今の物置のあたり、かなり大きい無花果の木があった。目の高さぐらいのところから折れたように太く短い枝が伸びていたが、更に小さな枝にわかれ実がなっているのを見た記憶がある。
 いちじくの木への呪い(マタイ21、マルコ11)の物語に付加されている説明句の中に「主の言葉」が伝承されていることは知らなかった。不勉強を恥じる。
 教会堂新築前、北側の生垣と隣家の塀や植木の間を雀より早く低く飛ぶ川蝉や更に小型のみそさざいがいた。隅の金網をもぐって小さな蛇が往来していた。白みがかった灰色で顎が張り気味で、毒をもっているかもしれないが可愛らしくも見えた。
 90年代に入ってへびは姿を消した。蝶が稀に蜜柑の葉の上で脱皮するのを見たこともあるが、大抵どこからかカップルでそよ風に乗って現れる。黄色と黒、又は羽根に赤い点のある真っ黒のアゲハも何時もカップルである。アオスジアゲハは単身でこのごろ訪れは少なくなった。
 アサヒマダラは、高々と2階の屋根の高さから舞い降りるように背の高い木の上に止まった。この頃は見かけない、今年はどうだろうか。それにしてもこれらの蝶は何処から来るのか?高宮の浄水池あたりの森か?
 小学生でも知っていることかもしれない。昨年晩秋の1日、植物園に行った。ガラス張りの大温室近くの背の低い潅木の林に、いたいた!幼蝶が5センチ以下、色は淡いが、逞しい。福岡はいい所だ。

  O.G

2006年2月12日 謙遜に生きる

2007年03月28日 22時08分31秒 | 教会員の証し
     謙遜に生きる

 クリスマスの日に、右近さんが「ゆっくり読んで下さい」と、自筆で書かれた美しい詩集を下さいました。それは、『最上のわざ』という、ヘルマンホイベルの詩集でした。
 此の詩の中に、『此の世で最上のわざは何か、楽しい心で年をとり、こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾しよう、神は一番善い仕事を残して下さる、それは祈りだ』とあります。
 私は年をとって来ますと、若い時には何でも出来ていたのに、今は何をしてもだめだ、と苛立たしく悩み落ち込むことがあります。此の詩を読んでからは、神様に対して、自分はもっと謙虚でなければならないと思うようになりました。
 少し昔の話になりますが、私は西南女学院の生徒の頃にバプテスマを受けました。その後、母校の先生になり、生徒と共に聖書を学び、奉仕活動にもよく参加していました。私は信仰生活も自分なりに続けてきたし、充実した生涯であったと思っていました。
 けれども今思いますと、私は傲慢であり、罪深いものだと思うようになりました。自分の気のつかないところで、多くの人の心を傷つけてきたことかと反省し、もっと謙遜でなければならないと神様にお詫びをしました。
 神様に感謝し、すべての人の上に神様のお恵みを求めるお祈りをし、残る日々を謙遜に明るく送りたいと願っております。

  I.H

2006年2月5日 も一度会いたい

2007年03月27日 23時55分09秒 | 教会員の証し
    も一度会いたい

主人を見送って32年になる。
 彼の姉は私の叔母、従って親戚は彼の人となりをよく知っていて評判はよかった。9才年上だったので頼りがいがあった。結婚して少したったころ「何時か海水浴場で見かけたけど、あんなチンピラと結婚するなんて思ひもしなかった。」と云われた。家では子供の躾のことで時々雷がおちた。私が「父は一度もそんなに怒らなかった」と云うと「九州もんは怒る時は怒るんだ」と威張っていた。
 定年を迎え、私は手仕事が好きで、頼まれて仕立物等して楽しんでいた。そんな私によく話しかけてきた。体調が余りよくなかったせいだったと思う。「お前はオレと結婚してよかったと思ってるか…。」私は「勿論感謝してますよ」と云うべきだったのに、この手の会話は苦手なので云いそびれてしまった。
 彼は更に「オレは又生れ変わってもお前で我慢するよ…」と。その時も、娘もいるし息子も就職したばかりなのに…この人はもう…と思うと胸がつまって、ヤッパリ何も云えなかった。今になって考えると頼りない私に、子供たちをゆだねて先立つものとして、私への最大の餞の言葉であり、エールだったのだと受け止めている。
 12月10日、彼の地上での最後の日、救急車を待つ間「お前にメソメソされると死んでも死にきれないけど、お前ならしっかり生きてゆけるよ。」と云ってくれた。私は私の支え主であられるイエス・キリストへの彼の確かな信仰告白だと思った。
 こう云う訳で私はも一度、彼に会いたい。そして心から「有難うございました」と云いたい。

 神与え、神とり去りたもう。
          (ヨブ記1章21節)

  U.T

2006年1月29日 ミクロの美術館

2007年03月27日 00時24分07秒 | 教会員の証し
   ミクロの美術館

 人間の肉眼では見ることの出来ないミクロのものを電子顕微鏡を通して移された写真がいくつか新聞に発表されていました。「ミクロの美術館」というタイトルでした。
 その中のひとつ、水草の茎の切り口はさながら細い糸で編んだレースのモチーフのようです。一ミリメートルの百分の一くらいの厚さにスライスして撮影されるそうで大変な作業です。
 そのレースの穴に当たるところは、吸い上げた水や養分を通す導管や師管が入っているところですが、単に水を通す管に過ぎないものの配置がレースのように美しく整った形をしているのに驚きました。
 ほかにゼラニュウムの花びらの細胞に出来たしわの形や朝顔の花粉などなど、その一つ一つに驚き、嘆声を上げました。
 その写真で、創世記のことを思いました。創世記1章11節「神は言われた。地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を地に芽生えさせよ。そのようになった。…神はこれを見て良しとされた」。
 何気なく読んでいたこの短い一節の中に、植物の創造のすべてが記されています。創造の神は、人の目には見えないミクロの部分にいたるまであまねく創造され、そして良しとされたのであると改めて思いました。
 この写真を発表した人は、もと大学で生物学を研究していた人ですが、これらの対象をアートの目で見るようになり、大学を辞めてバイオアートの写真のシャッターを押し続けておられるのだそうです。すでに写真集も出版されているようです。
 私に科学のことはわかりませんが、創造の世界は限りなく神秘に満ちていると思いました。

  K.Y

2006年1月22日 地方連合少年少女会役員になって

2007年03月25日 22時53分07秒 | 教会員の証し
 地方連合少年少女会役員になって

 去年の三月の終わりにあった、地方連合少年少女会主催の春の修養会に僕は参加した。本当に楽しい、内容の濃い三日間で、あっという間に過ぎてしまったのを覚えている。多くの事を学び、いろんな事を考えさせられる修養会であった。
 そんな修養会に影響を受けて、自分も神様のために何かできることはないかと考えたのがきっかけで、僕は去年の四月から少年少女会の新役員として会計をしている。
 今まで人の前に立って何かをやるということが苦手だった僕が、よく決心したものだと思うが、やっぱりそこには神様のお導きがあったのではないかと思う。役員になってもう九か月ぐらいたつが、役員としての仕事は思っていた以上に大変に感じる。
 役員同士のぶつかり合いや、いろんなトラブルもあった。それでも、神様の支えの中で、これまでに交流会、讃美集会と役員全員で協力していいものが作れてきていると思う。
 いよいよ、春の修養会が三月の終わりにある。最後まで自分の仕事を責任をもってやり遂げたい。そしてまた、その中で自分の信仰を深めていければいいなあと思う。

  T.K

2006年1月15日 神のなされることは皆その時にかなって美しい

2007年03月24日 10時34分43秒 | 教会員の証し
神のなされることは皆その時にかなって美しい
           (伝道の書3章11節)

 教会の礼拝堂が好きである。勿論、平尾教会の礼拝堂だ。椅子に座ると、豊かな配色の十字架のステンドグラスが望める。礼拝中に陽があたると、虹色のこもれびが会堂の一角に生まれる。
 美しいものは、人の気持ちをやさしくする。
世界には、美しいものが沢山ある。大自然の営みに現れる「美」に感動する。
 美しさは、なにも視覚だけではない。清らかなバッハのメロディ。讃美の歌声。ハンドベルが奏でる音の重なり…。
 そして、何よりすばらしいのは、神の業である。
人の知恵では、とうていはかりしれない神の業がある。時に、万事窮すという状況が人を襲う。我々は幸いなるかな、「祈り」という手段を与えられている。そして、祈りは聞かれる。しかし、その解決手段はまったく想定外のことがある。そんな時、私の心の中にこの聖句が浮かぶ。
 『神のなされることは皆その時にかなって美しい…』
主のすばらしきみ業に感動する。そして、常に私をつなぎとめて下さる主にただ感謝するのみである。

  E.E

2006年1月8日 年の初めに

2007年03月23日 23時16分27秒 | 教会員の証し
     年の初めに

 2006年になり早くも一週間が過ぎようとしています。一日の風囁、K兄の信仰告白、その前の週の御両親の子供への思いの文章はとても暖かく、心に残るものでした。
 で、次の風囁をとバトンが渡され、お正月休みも四日あるし大丈夫と引き受けたのですが、何事もせっぱ詰まってから取り掛かるという元来の性格(今年こそ直したい!)の結果、提出ギリギリの木曜日の朝の通勤電車の中で書き始めるという非常事態になってしまっています。
 その上売れない小説家のようになかなか書くことができず(頭の中では色々浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返してはいるのですが…)苦戦している状態です。
 いつもこの時間、聖書を読むことにしているのに(あっ、もうすぐ筑前新宮駅、降りないと、続きはお昼休みに、何とかなるかなー) という訳で昼食を早く済ませ、また書き始めたところですが、午前中の仕事を済ませた後の頭の中はほとんどぼーっとしてて、何を書こうとしていたのかちっとも浮かんでこないのです。(きっとたぶん、朝書こうとしていたのと違うと思うけど)春の補選で執事に決まった時、私が先ず思ったのは(自分の事はしっかり除外していたので)神様、間違っていませんか?いやきっと間違われたに違いない、なんで私?ということでした。
 だって何でもご存知の神様なのに、私に出来るはずがないと!でもやっぱり神様は正しかったとこの頃つくづく感じています。私の至らないところを小野兄はじめ平尾の兄弟姉妹、皆でちゃんと補ってくれているのですから( 心の中でいっぱい感謝しています。)

  N.A

2006年1月1日 しんこうこくはく

2007年03月22日 22時16分18秒 | 教会員の証し
   しんこうこくはく

 ぼくは、12がつ25にちのきょう、バプテスマをうけることになりました。ぼくのわるいところは、おかあさんのゆうことをききません。なんかいもおかあさんがいっても、耳に入りません。
 まだわるいところがあります。おとうとといもうととおかあさんのとりあいっこをして、ゆずりません。
 ぼくは、バプテスマをうけたくなったのは、イエスさまがじぶんからじゅうじかにかかったからです。
 じゅうじかにかかったら、なんでしぬのかな、とおもっていました。でもわかりました。それは手に大きなくぎをうたれて、やりでおなかやこしをさされるからです。でも、じゅうじかにかかって、おはかにいれられて3日目によみがえりました。
 そして、いまイエスさまがここにいて、みんなをあいして、かみさまがぼくもあいして、まもっていることをしんじます。イエスさまは、いま、ここにいるけど、目で見れません。
 でも、こんどから、いつもそのイエスさまはぼくといっしょにいてくださいます。イエスさまにこれからもあいされたいです。 (12月25日)

  H.K

2005年12月18日 クリスマスは、やっぱ教会でしょ

2007年03月21日 20時57分15秒 | 教会員の証し
 クリスマスは、やっぱ教会でしょ

 バプテスマから明日でちょうど一年。ちょうど節目のときに、この風囁を書く機会を与えられました。感謝です。そこで久々に信仰告白の原稿を読み返してみました。一年前は何もかもがいっぱい、いっぱいだったことがよくわかる…。
 一年経って、私自身何か変わっただろうか。自分ではよくわかりません。相変わらず仕事は忙しいし、礼拝も行けたり、行けなかったり…。しかし、一つだけ変わったと自覚できることがあります。
 それは「教会に来ませんか。」とお誘いする言葉が自然に言えるようになったということです。仕事を理由に、礼拝に出席できていない私がお誘いしているのもおかしな話ですが…。
 以前、会社の飲み会の席で女性社員をお誘いしたことがありました。お酒の席だったので、かるく聞き流されたと思っていました。周りの同僚もヘタなナンパだとひやかしていましたし…。
 ところが先日、彼女のほうから礼拝に行ってみたいと声をかけてきてくれました。ちゃんと受け止めてくれていたのかと思うと嬉しかったです。「神様ありがとうございまぁ~す!」 と浮かれる気持ちを抑えつつ、クリスマス礼拝にお誘いしました。ホントに来てくれるかどうかはわかりませんが、それでも私にはOKです。
 一人でも多くの方に教会を訪れてもらいたい、クリスマスのときだけでなく…。でも、まずはクリスマス礼拝。一番お誘いしやすいときだと思います。これからクリスマスまでにいったい何人の方をお誘いすることができて、何人の方が教会を訪れてくれるでしょうか。
 今週は忘年会がたて続けにあります。ヘタなナンパと思われないように気を付けながら、自分なりにお誘いしていこうと思います。
 「クリスマスは、やっぱ教会でしょ」と。

  R.N

2005年12月11日 聖地旅行

2007年03月20日 18時43分32秒 | 教会員の証し
      聖地旅行

 11月23日から12月2日までの10日間、私はイスラエル(聖地旅行)に行くチャンスが与えられた。中近東では今もなおテロが頻発しているという状況から少々不安をおぼえつつこんなチャンスは二度と無いという思いで神様にすべてをお委ねしてツアーに参加した。
 ツアーのコースは簡単に言えば、(聖書の後ろにある)イスラエルの地図を上(北)はフィリポカイサリアから下(南)にガリラヤ湖、ヨルダン川、死海という順にあちこち見学しながら最後にエルサレムというコースだった。ツアーは毎日感動の連続だった。
 聖書がリアルにそして立体的に感じることができたことやイエス様が歩んだ同じ場所を自分の足で歩くことができたことが嬉しかった。しかし、その反面、今まで自分が知らなかったイスラエルという国の現実や歴史に触れ、多くのショックを受けたことも今後忘れることはないと思う。
 このツアーで一番印象に残った出来事は、国境を越えてパレスチナ側のベツレヘムに入りイエス様の降誕教会に行くことができたことである。パレスチナに入ると町並みはエルサレムとは全く違っていた。一言でいうと「汚い」、なぜこんなに違うのかと驚いた。
 バスを降りてベツレヘムの町を歩いて降誕教会に行く途中多くの貧しい人たちと出会った。「ワンダラー、ワンダラー」と言いながら色々なものを買ってくれと迫ってくる。彼らは必死だった。その中には多くの子どもたちもいた、ガイドの説明によれば親が自分で物を売るのではなく子どもに物を売らせている、そして稼ぎが悪いとき子どもたちは家に帰ると殴られるのだ、という。
 イエス様の降誕教会の壁のすぐ外側にも多くの物売りの人たちがいた。私たち一行は教会に着くと直ぐに中に入り見学をした。中には多くのカトリック信者が集まり礼拝をしていた。
 そして、イエス様がお生まれになった場所(と言われている所)を見ることができ、感動しつつ、私たちは教会の中庭に出て、天を仰ぎながら心を込めて「きよしこの夜」を歌った。
 このとき、私は大きな感動をおぼえたと同時にとても複雑な気持ちになった。私たちがそのような余韻に浸っているときに、壁の向こう側では多くの人たちがその日生きるために必死になって物を売っている。それを私はどう受け止めて良いのか分からなかった、とても辛かった。
 イスラエルは物価が非常に高い、しかしそれらのほとんどは軍事費に費やされるのだという。
 神に愛され選ばれた国がどうして今、そのような道を歩んでいるのか。どうして今なお、メシアの来臨を待ち望んでいるのか。この日から私はイスラエルのために祈ろうと思った。

  M.J

2005年12月4日 かみさまからのプレゼント

2007年03月19日 17時25分07秒 | 教会員の証し
   かみさまからのプレゼント

 ぼくは、福岡にきてからサッカースクールに通っています。去年の11月に試合がありました。でも、ざんねんながら決勝のPKで負けてしまいました。すごくくやしかったです。
 それから、次の試合には、ぜったいゆう勝しよう!とみんなでがんばってれんしゅうしていました。そして、次の試合が5月にあったけれど、日曜日でした。お父さんとお母さんから、教会に行くから試合に行くことはできないよ、と言われました。
 ぼくはぜったいに試合に行きたいと思っていました。なんどおねがいしてもダメでした。そして、お父さんに「サッカーもだいじだけど、れいはいも もっとだいじだよ。」って言われたので、教会に行くことにしました。
 それから今年さいごの試合が11月3日にありました。ぼくはふくキャプテンになりました。チームのみんながやりやすいように、作戦を立ててゆう勝めざしてがんばりました。ぼくもゴールをきめることができて、すごくうれしかったです。
 そして3試合ぜんぶ勝つことができ、ゆう勝できました。前に出て金メダルを首にかけてもらったとき、なみだが出そうになりました。
 お父さんとお母さんが「かみさまからのプレゼントだね!」と言いました。5月の試合のときにホクトが教会に行くことをえらんだから、かみさまがとってもよろこんで下さったんだね。と教えてくれました。これからもかみさまがよろこんで下さることをして行こうと思いました。

  M.H

2005年11月27日 「アタリマエ」に感謝すること

2007年03月18日 17時41分01秒 | 教会員の証し
 「アタリマエ」に感謝すること

私が神様に導かれバプテスマを受けもうすぐ2ヶ月になりますが,私なりに信仰とは何か,クリスチャンとしてどうあるべきか,何をすべきかを考えておりますが,その答えを一言で表わすならば「感謝すること」ではないか,と考えております。
 何に感謝するのか,それは神様が私に与えてくださった境遇,そして神様に導かれ出会った人達に対してです。さらに加えるならばその人たちによって与えられた環境,支えに対してでもあるでしょう。
 境遇,環境,出会いなどそれらすべては神様によって与えられたものですから(と少なくとも私は考えていますから),その「感謝」がすなわち「神様に対する感謝」ということになるのではないかと考えています。
 ただ,この感謝というのは本来意識して,「よし,感謝の気持ちを持って生きよう!」と考えてするものではなく,呼吸するとか,食事するとか,寝るとかそうしたことと同様に「アタリマエ」になされるべきものではないかとも思います。
 ただ何事においても「当たり前のことを当たり前にやる」というのは案外難しいもので,私自身はどうかと言われれば「意識して感謝の気持ちを持つ」ことすら出来ていないのではないかと言わざるを得ないというのが正直なところです。
 そのような私がまずやるべきは神様に感謝することが「アタリマエ」になるように生きていくことではないかという自戒の意味も籠め今回執筆させていただきましたが,とりあえずこの場は今回執筆の機会を与えて下さった方々,この拙文を最後まで読んで下さった方々に,無論そうした方々と出会うよう導かれた神様にも感謝の意を表して筆をおきたいと思います。

  M.R

2005年11月20日 盲学校に勤めて

2007年03月17日 16時25分13秒 | 教会員の証し
    盲学校に勤めて

 福岡盲学校に勤めて今年で25年になります。その間異動内示が2回出たのですがいろんな事情で止まってしまいました。しかし私は今の学校が好きです。
 通勤は大牟田線で平尾から朝倉街道までその後は足の不自由な先生と全盲の先生3人で乗り合いタクシーで学校まで50分かけて行っています。視覚障害の子どもたちとのふれあいも日々心が洗われて授業が楽しいのです。
 子どもたちも楽しんで勉強してくれます。特に重い障害を持っている子どもたちからじいちゃん先生と親われています。理由は解りませんが「先生といると子どもたち安心できるのでしょう」と他の先生方は言ってくれます。
 私は神様がいつも私と共にいて導いてくれているのではないかと感じています。どんな場面に遭遇してもけして慌てることなく対処できるのは信仰のお陰だと感謝しています。
 私は教育を通して子どもたちが心豊かで人に優しい思いやりのある自立した人間に育つように願っています。

  S.K