入会の証し
(2019年10月27日)
この平尾教会には5月の終わりから来始めて、今日で5か月ほどになりました。妹が福岡バプテスト教会の会員であり、ランチカフェのような活動がしたいという思いがあって、平尾教会にその活動があることを知って見学に来たのがきっかけです。この近所に住んでいますし、きちんと教会に通わなければならないなという気持ちがちょうど芽生え始めた 時期でした。
私は牧師家庭に生まれ、兄弟6人の中の上から2番目です。女3人、男3人という、珍しい構成の中のひとりであります。父が東京の神学校に行った頃は妹まで生まれていまして、神学校の家族寮で暮らしました。貧しい生活でしたが、教会の方々が助けてくださったことをあとで知りました。本当にそのことは感謝しなければならないと感じています。そのような生活を東京で7年送り、次に、父の最初の赴任先である大分メノナイトキリスト教会で4年間過ごしました。
それから父の故郷の宮崎に帰り、以来ずっと開拓伝道でした。お祭りがあれば、綱を張るか張らないか、もめるような田舎で、その小さな攻防をみながら、自分では「キリスト教って??」と思って、受洗はしていませんでした。姉は中学生の時にバプテスマを受けました。毎週絶対に教会に出席することを強制される感じになりました。姉が受洗してからは「次はお前だ」との父の圧力が強かったのですが、私は、自分が受けたいときにバプテスマを受けたい、という思いで、ずっと抵抗していました。
二十歳の時に友達の影響もあって、そのようなときが与えられ、自分の誕生日に受洗しました。今この場に父がいないので言えるのですが、父は割と上からガツンとものをいうような、父が思い描いていたことと違うことを言おうものなら、というような感じの人でした。姉は、どちらかと言えば、父の望んでいたような道を選んでいったものですから、一方の私は、いつも父とぶつかっていましたが、どこかで聖書というものに書かれていることは正しい、しかし父を受け入れることができないでいました。
私は今お菓子をつくる仕事をしています。高校の時にお菓子を作りたいと父に話したら大反対され、なぜ反対するのか、との気持ちをずっと持っていました。父は、自分がずっと続けてきた、教会と併設の無認可保育園を私に継いでほしいとの思いから、絶対に短大に行き、勉強してから、家で2年働きなさい、これは決定事項だから、と私に拇印まで押させました。お金もなかったものですから、私は泣く泣くそれに従うしかありませんでした。父は多分その仕事が楽しくて、きっと続けてくれるだろうと思ったのでしょう。
私も子どもは好きでしたから、保母の仕事はきっちりやりました。教会には行きましたが、教会内の様々な問題に巻き込まれながら、悩みながらの毎日でした。保母さんとして2年間働いて、やはりお菓子の道にすすみたいと、ためていたお金で一人で東京に行き、貧乏生活をしながら、がんばって4年間お菓子のお店で働きました。
普通のお店だったので日曜に休日がとれず、杉並メノナイト教会には、本当にたまにしか行くことはできませんでした。それでも教会とのつながりを完全に切っていたわけではありませんでした。4年間働きながら修業した後、勤め先がなかったので、また宮崎に帰ってきて、宮崎のお菓子屋さんで14年間働く間、父母との関係も少しずつ解消、回復しながらやってきました。
数年前に福岡に来て、今は知的障がいのある方たちと一緒にお菓子を作る作業所に勤めています。考えると、父に無理やり行かされた保母の勉強が今役に立っている、と感じています。神様のなさることは人知を超えて素晴らしい、また不思議な事だと思います。福岡に来ても、教会にはなかなか行けず、父が無牧の博多メノナイト教会に来た時に呼び出されて行く、また妹の教会にたまに顔を出す、程度で自分の教会はなく、よくないなと思いつつ、仕事が忙しく、行けない状態が続いていました。
最近人間関係に悩んで、これからどうしていったらいいかと思っていた時に、妹に声をかけられ、平尾教会に来ました。皆さんがやさしく話しかけてくださって、(一度大泣きしたこともありました。)なぐさめられました。大切な事は一つしかないなってしみじみ思いますし、説教も以前はいつも寝ていたのですが、今は、言葉の一つ一つが大切だな、と心から思います。十字架を見ても涙が出てくるような心持ちになって、神様が導いてくださった、と感謝して毎日を送っています。
私は主イエス・キリストを私の神様として一番に考えています。皆さんと一緒に教会生活を共にしていけたらと願 っています。
S.C 姉