平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2020年1月12日 平和はまず対話から

2020年01月17日 22時44分33秒 | Weblog
平和はまず対話から

 平和を作っていくためには、対話することが第一のことであると考える。現在、いろいろな形で対話できる場所が増えていることは、とてもうれしい限りである。しかし、大事なことは、対話をする目的は、相手を理解しようという気持ちにある。イエス様の願われた「平和を実現する人々は、幸いである」との言葉を真実に生きようではないか。
 一番困るのは、相手をこうだと、このような人間だと、決めつけることにある。そこから敵意が生まれたり、蔑みや差別が生まれる。確かにそれができない立場の人がいる。国の大統領や首相などと、私たち一般人が普通に対等に会話できる場はほとんどない。だから、自然決めつけてしまうところが双方に出てくる。
 そして、ある場合には対立が激化することもある。しかし、そうでない者たち同士は、極力会話を続けるべきである。今の時代は、ネット上でしか話せない人々も出てきており、それもちょっと努力すれば顔と顔を合わせて話し合えるにも関わらず、それを飛び越え、第三者に自分の考えや気持ちをわかってもらおうという人々が増えているように思う。
 対話のはじめは、顔と顔を合わせて話すことだ。相手を知ることをやめたり、自分が変えられることを恐れてはならない。私も自己主張の強い者だが、対話をやめようと自分から思ったことはない。何とかして、相手がどうしてそのように考えるのかを理解したいと思う。ギリギリまで顔と顔を合わせてそうしたい。


平良憲誠 主任牧師

2020年1月5日 2020年の幕開けは静かに

2020年01月17日 22時41分32秒 | Weblog
2020年の幕開けは静かに

 一週間前に2019年のいくつかの出来事に触れて、それなりのまとめとしたが、2020年に突入した途端に、新しい気持ちになっていろいろなことに取り組めるのは毎年のことながら神様の恵みだと思う。新しい年になったので、気持を一新してやり直せることもあるし、再度挑戦したい気持ちにもなれる。
 これがこうした時間的な区切りがなく、だらだらと続いたら、やはり何かが生まれるということもないかもしれない。教会も執事選挙が1月19日(日)にあり、少なくとも3年連続で執事をされた二人の方が、次期は再選されないことになる。今年は、私の辞任に伴い、次の牧師が決まるまでは変則的な体制で教会を運営しなければならないから、森牧師をはじめ2020年度の執事たちは苦労することも多いだろう。
 しかし、初めて選ばれる人が出たりして、新しい風が入ってくるかもしれない。何度でも言わねばならないが、ご迷惑をおかけする。さて、あと3ヶ月で平尾教会を去るにあたり、そろそろ私の平尾教会における牧師としての総括をしなければならないと思っている。と同時に、去るにあたり、幾つか伝えていかなければならないこともある。
 しかし、去る者は、もう責任を負わないし、負えないのだから、黙って去るのみ、それもまたありかなとも思っている。そして、今は、この最後の選択が一番いいのではないかと思うようになった。侃々諤々は責任を負える、或いは果たす者たちが行うものだから。


平良憲誠 主任牧師

2019年12月29日 2019年という年

2020年01月17日 22時39分10秒 | Weblog
2019年という年

 平尾教会の2019年は、幾人かのバプテスマと転入があったことをまずは喜びたい。その中には、既に天に命を移され、安らいでいる方もおられる。イエス様の救いの御手が豊かに差し伸べられたことを確信し、主にご栄光を帰した。また、他の教会から平尾教会に籍を移された方々もおられ、これらの方々と共に教会を担っていくことは、多様性のさらなる広がりとなろう。
 それから、8月の私の辞任の申し出に伴い、ご迷惑をおかけすることとなったことは実に申し訳ない気持ちでいっぱいである。教会のこれかからの新体制作りや平尾会堂の補修等の計画立案等が順調に進むことをお祈りするばかりである。お金のかかることも多く、教会財政も潤沢ではない故、教会員すべての知恵と努力を結集していただきたい。
 さて、社会に目を向けてみるとき、何と言っても、中村哲さんが殺害されたのは非常なショックであった。土地の人々の幸せのために実によいお仕事をされた平和の人であったのにと、残念でならない。彼の仕事は、ほんとうに愛情の感じられるものであった 地球温暖化による激しい気象変動で、世界中でこれまでにない自然災害が起こった。
 豪雨、豪雪、台風、干ばつ、山火事、これらについては、いよいよ無視できない事態になってきた。幸いなことに、若い人々が大きな危機感をもち、声を上げている。香港の民主化運動もそうだが、どこで も若く純粋なエネルギーがあちこちで見られるのが希望である。


平良憲誠 主任牧師

2019年12月22日 クリスマスの祈り

2020年01月17日 22時35分44秒 | Weblog
クリスマスの祈り

 ペシャワール会の現地代表であった中村哲先生が天に召されました。連日大きく報道されましたが、12月4日、アフガニスタンの東部ジャーラーラバードにおいて車で移動中に何者かに銃撃を受け、運転手と警備員など5名の現地の方々とともに亡くなったのです。
 中村先生は、西南学院中学を卒業し、香住ヶ丘バプテスト教会でバプテスマを受けたキリスト者でした。実は、中村さんの海外での活動の始まりは、1984年、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)からパキスタンのペシャワールに医師として派遣されたことでした。わたしも香住ヶ丘教会の教会員でしたが、当時牧師だった藤井健児先生が、「中村哲君がペシャワールに行くと言っているけど、支援者がいない。自分ひとりで『中村哲を支える会』を作ろうとしていて気の毒だ。みんなで手伝おう。」と言われたことから、会の活動に関わること になりました。ペシャワール会のごく初期の活動は、こうして教会関係者と九大医学部での彼の友人たち、そして福岡YMCAの主事たちとで始まったのです。事務局は当時今の大名クロスガーデンのすぐそばにあった福岡YMCAに置かれ、皆で毎週のように集まっては作業をしました。
 こうして最初はJOCSから派遣された先生でしたが、先生の人間的魅力と活動のスケールの大きさから、ペ シャワール会はキリスト教の枠を超えた大規模な市民運動になっていきました。その後、長い年月が経ちまし た。中村先生は最初から「10年は行っているよ。」とおっしゃっていましたが、なんと35年にもなったのです。その後の先生の多彩な活動については、皆さんがご存知の通りです。
 主よ、自らの身を挺して平和と真の国際協力のあり方を説き、多くの人々の心に平和への強い祈りを遺して逝かれた中村哲先生のお働きを思います。クリスマスのこの時、暗闇のこの世に輝く光イエス・キリストを迎えようとしているわたしたちと世界を見守ってください。わたしたちが、先生の遺志を受け継いで平和への闘いを継承してゆけますように。
 アーメン。


才藤千津子 協力牧師

2019年12月15日 大事な場所

2020年01月17日 22時29分15秒 | Weblog
大事な場所

 子どもたちの存在は、希望である。屈託なく遊んでいる子どもたちを見ていると、何かしら、力や元気をもらう。共同保育に関わるようになって31年になる。来ているのは0歳から3歳くらいまでの子ども。話して何かを伝えようとしても、そう簡単ではない。ちょっとした会話を楽しみ、手助けしながら一緒に遊ぶことくらいしかできなかった。
 しかし、こちらも元気にされた。思い返すと、共同保育でよく目にした妻の対応 は、「いいとよ、それでいいと・・」であった。丸ごとお母さんたちのありようを受け入れていた。特に、初めて子育てをするお母さんたちには、このような共同保育の場所は、ほっとできる所であったようだ。
 私たちにとって神の国は、ほっとできる、平和に憩える場所である。もし、争いはなくても、それぞれが自立し、いろいろなことをわきまえていて、秩序正しく過ごす所ということになると、誰がそのような所へ行きたいと思うだろうか。もうしっかりする必要はない、ゆっくりできて、痛みも苦しみもない、そういう所が行き着く場所として憧れるというお年寄りは多いことだろう。初めて子育てをするお母さんたちは、何事も初めてだから、周りにもいろいろと気を使う。
 「いいと、それでいいとよ・・」というありようは、私たちが、神様からいただいていることではないだろうか。その共同保育も来年の3月で休止となる。高速化する社会だから、ゆるいことやその場所が必要なのではと思う。


平良憲誠 主任牧師

2019年12月8日 地球に安息日を

2020年01月17日 22時25分40秒 | Weblog
地球に安息日を

 今日のニュースで、世界中の若者たちが、地球温暖化による異常気象による多くの災害を防ぐために各国の首脳たちが何らかの策を講じるように、デモを行ったことが報道されていた。地球の自然環境を管理することは、神様から人間に託された大きな仕事だ。その人間が、自らこの美しい地球を破壊している。日本の若者たちが言ってい た。いくら自分たちが勉強をしたところで、地球に未来がなければ、自分たちの苦労は水の泡だ、と。
 日本には今年、多くの雨が降った。地球全体の水の量などは一定であるはずだから、世界のどこかの地域は雨が降らないという事態になっていたのだろう。地震はどうにもならないけれど、地球温暖化は、人間の努力で何とかなるはずである。気象状況がこんなにも極端なのは、近年になってからであろう。この100年ほどの積み重ねの結果であるとも言える。
 この気象の現象を元に戻すために、例えば1週間ほどまったくすべての生産を休止して、二酸化炭素の放出を止めたならば、どうなるのだろうか。100年かけて元に戻さなくても、これだけの短期間で、気象は回復するかもしれない。これは、素人判断に過ぎないのだろうか。
 神様が6日かけてこの世界を創造され、7日目を安息日にしたことは、実に大きな意味があったのである。そして、その安息日を守ることを人間に命令されたにもかかわらず、ある種の工場は、ほとんど1年中稼働し、機械を止めることをしない。地球に安息日を!


平良憲誠 主任牧師

2019年12月1日 理想社会に思う

2020年01月17日 22時22分27秒 | Weblog
理想社会に思う

 最近の香港の学生たちの民主化運動に思う。いったん自由のよさを体験した者は、束縛されることを嫌う。逃亡犯条例改正案に反対するこのデモ は、マスクの禁止!ということにもなった。当局が民主化運動をする学生たちを特定するために、マスクをするなというのだ。
 先週、香港の行政長官と中国の最高権力者が会談した直後から、権力の横暴が始まった。鎮圧に乗り出した警官が、学生を近距離から拳銃で撃つという場面が報道された。また、催涙弾を水平方向に発射するという暴挙に出る警官たちも出始めた。権力を持つ者たちが、民主化運動をする者たちに容赦しないぞと、その本性を表した。
 資本主義社会は、搾取する自由も含まれているというのだが、それなら、社会主義、共産主義社会が、皆平等で、しかも、人権侵害もなく、自由を謳歌できる社会と言えるかというと、そうではない。理念はリスペクトできるのかもしれないが、実際既存の社会主義の多くの国家が、人権の弾圧などを平気で行っているように見えるから残念である。
 教育で人間の心がほんとうに解放され、互いに思いやりの心が生まれたり、自分と同じように他者の利益や豊かさを求めるというのは、果たして可能であろうか。社会主義の国では、私腹を肥やすことにやっきになっている高官たちの何と多いことか。人間に罪がある限り、いくらでもこうした問題は噴出することになる。資本主義がよいわけでもない。宗教のなすべき領域がある。


平良憲誠 主任牧師

2019年11月24日 ファンから弟子へ

2020年01月17日 22時19分11秒 | Weblog
ファンから弟子へ

 スポーツ観戦をしていて、ファンの気持ちというものについて考えてみた。これについては、様々な形があるのではないだろうか。例えば、球団であれば、熱烈なファンともなれば、ファンクラブや支援の会などがあり、会費や入会することでもらえる特典などもあるのだろう。私もおかげさまで、福岡に来てからすっかりホークスファンになってしまった。
 支援の会には入っていないが、ちょっとしたファンである。負けが近づいてくると、もう観ておられず、その場を去ってしまう。時には、不快になったり、腹も立つことがある。勝つと、すっきりした気持ちになって、あとの時間を平安に過ごせる。
 私のファンぶりを見ていたMさんが言った。「ほんとうのファンは、その球団なり、その選手なりが、たいへん不調で苦労しているときこそ応援をし続けるものだ」。恥じ入るばかりである。当時もイエス様のファンがいた。いわゆる追っかけも随分いたはずである。ところが、己の期待に応えようとしないイエス様を見て、人々の中には「十字架につけろ!」と罵声を浴びせる者も出てきた。
 スポーツはおもしろいが、どうしても勝利しないと収まらない性質を持っている。裁判にかけられ、十字架におかかりになったこの無力なお方のファンであり続けることが大事だ。そして、もっと大事なことは、この無力なお方の弟子になることだ。何を学ぶかって?勝利した者よりも、敗北した者から学ぶことが多いように思うのだが。


平良憲誠 主任牧師

2019年11月10日 戦争に利用される装置

2020年01月17日 12時50分11秒 | Weblog
戦争に利用される装置

 戦争になくてならないものがある。それは、国のために勇んで命を投げ出す装置である。それに一役かうのが宗教である。自爆テロなどを勇んでさせることのできる力も宗教である。また、日本も国家神道という仕組みを作り、天皇を神に祀り上げ、この現人神のために喜んで死ねる人間を教育していった。
 そして、国のため、天皇のために死んだ人間は、靖国神社に英霊として祀られることとなった。キリスト教もまた、歴史的にはいろいろな場面で戦争に利用されてきたから、他の宗教のことを云々することも声高にはできない。しかし、少なくとも日本という国は、国家神道という枠組みが作られ、完璧なまでに戦争をする装置ができたのだった。隣組などの組織も利用された。互いに監視し合う(密告)体制を作ったのである。
 戦争は、ひとの社会をだめにするだけでなく、一人一人を罪おとしある者に貶めていく。しかも、罪の意識を希薄なものとしていく。戦争だけは許してはならないとつくづく思う。ところが、この戦争に利用されるこれらの装置は、かつてのような機能を有していないとしても、権力が戦争できる国に日本をなそうと考えたときには、再び利用しかねないという不安がある。
 近いうちに大嘗祭がやってくる。少なくとも、この一連の即位の儀式は、ひとが神になる儀式であることはおぼえておきたい。靖国神社、隣組など、かつての戦争を推進していった装置も、ちょっと姿は変わっているが生かされている。


平良憲誠 主任牧師

2019年11月3日 その人には自分の知らない領域がたくさんある

2020年01月17日 12時35分37秒 | Weblog
その人には自分の知らない領域がたくさんある

 同じ教会に通う間柄なのに、どうしてこうも考え方や感じ方が違うのだろうか、と思うことがある。しかし、その答えは簡単である。双方が、知らない領域を持っているということである。おそらく、何年も寝食を共にしながら教会生活を送れば、自ずと同じ考え方や見方をする場面が増えるだろう。知らない領域をもっているがゆえに、政治的な立場の相違なども生まれる。
 しかし、それは問題であろうかと考えると、そうでもないだろう。異なる考え方をすることはある意味では健全である。ただし、双方が互いに正しく相手を理解するためには、どうしてそのような考え方をするのか、その背景を知ることは必要なこと である。
 それがわかれば、対立した考え方をしていても、相手を安易に軽蔑したり、嫌悪感を抱いたりすることもなくなる。一つには、その人の成育歴や人生経験がある。出会った人や思想がある。現在の会社や生活の現場から、体験的に会得しているものがある。愛読している雑誌やテレビ番組などから得ている情報なども無視できない。多様性を認め合うというのは、そうした自分の知らなかった相手の持っている領域に出会うことから始まる。
 なぜそうなのか、それがわかれば、双方の理解が一歩進み、時によっては、自分の不理解に気づくこともあるだろうし、相手を尊敬することも多くなる。人をより深く理解しようとする努力は愛である。レッテルや無視が一番よくない。それは自己絶対化を招く。


平良憲誠 主任牧師