平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2019年9月22日 欠かせない視点

2019年09月29日 11時35分33秒 | Weblog
欠かせない視点

 なぜ、そのことを教会に望むのかと聞かれたら、それはキリストの教会だからだ、と答える。当教会の信仰告白の前文に「この信仰告白は、何人の信仰をも制限することなく、あかしとして又、はげましとしてこれを宣言いたします」とあるのを、どうして誇りに思うのかと問われたら、それは、イエス・キリストのどのような人をもレッテルを貼ることなく受け入れようとされた、つまり、多様性を大事にされたそのお姿と合致する点が多いからと答える。
 私たち教会人は、どうしてあなたはそのような言動をなさるのか、と聞かれたら、イエス・キリストがこうであったから、そうであったから、ああであったからということになる。その捉え方が妥当なものかどうかは大いに議論しなければならない。また、それは教会とて同じで、どうして、教会はそのような選びをしたのか、と聞かれたら、イエス・キリストがこのように教えているからだ、と答える。
 それが大事な視点であって、私はこれが好きだからとか、私の趣味に合わないとかは、他でお願いしたい。もし、イエス様であれば、どのようになさっただろうか、どのように言われただろうか、それが大事なことだと思う。
 これについては、キリスト者であれば、誰もが、堂々とできるのである。教会のありようを考えるとき、それぞれの自分の心の内なるイエス様をぶつけて、真剣な議論をなすことは、とてもうれしいことだ。


平良憲誠 主任牧師

2019年9月15日 つっかい棒

2019年09月29日 11時26分14秒 | Weblog
つっかい棒

 教会の前庭のアーモンドの花は、桜のちょっと前に咲く。地域の人々は、当初これは桜だと思って驚いてい た。しかし、アーモンドの花は、桜よりも大きく、そして、色が濃い。当教会のアーモンドは、背後の教会の建物のステンドグラスとの相性もよく映える。この木は、多くのアーモンドの実をつけてきた。
 しかし、道端に落ちたものや木についているものなど、それを食べることなど考えもしなかった。なぜなら、ここは日本であって、実はまともに熟すことはないだろうと思っていたからだ。ところが、先日、津留崎姉が、その実を拾い集めて炒って試食をさせてくれた。確かに、実は太ってはいないか、味は普通に変わることのないアーモンドで美味であった。
 ご存じのように、このアーモンドは、津留崎ご夫妻が一人息子のK君の誕生を記念して植えたものである。ところが、昨年の台風で根元から折れてしまった。ただ、根は若干つながっていたので、おそらくダメだろうと思ったけれど も、それを再度持ち上げつっかい棒をしたのである。ところが、木は息を吹き返し、今年も例年のごとくに実をつけた。
 さて、このつっかい棒は、3年前に多くの実をつけた後、寿命がきて枯れてしまったあの梅の木の枝である。その枝が、こうしてアーモンドの命を支えてくれたことを不思議に思っている。このつっかい棒がなければ、アーモンドは息を吹き返すことはなかっただろう。そして思う。神様も人の支えもありがたいと。


平良憲誠 主任牧師

2019年9月8日 年のとり方

2019年09月10日 22時11分13秒 | Weblog
年のとり方

 何ごとも新しいものが良いとは限らない。骨董品のなかには値のつかないほどに、貴重なお宝がある。私の夏の登山のシャツは、45年も前のものだが、夏場の釣りの服装として今だに愛用している。それでもこのシャツも、今年で着納めかもしれない。
 それから、これもまた、46年も前の羽毛の寝袋だが、当時2万円のフランス製のもので未だに愛用している。この寝袋は、今年になって初めてクリーニングを、それもコインラ ンドリーで行った。それなのに、すっかりと元に戻った。良い物は良いのである。こちらはまだまだ十分使える。シャツもそうだが、生地や素材、縫製がしっかりとしているのだろう。また、長く使っているうちに馴染んでくるもの、しぶみなどの味の出てくるものもある。
 楽器や革製品などもそう言えるのではないだろうか。夫婦もそうかもしれな い。機械類は新しい物に越したことはないが。今年、31年ぶりに出版された聖書協会共同訳は、新しい情報も満載である。しかし、例えば、エステル記の8章10節ではモルデカイが、モデルデカイになっていて、確かにモデルになる人は大柄な方が多いから「ウマイ!」表現とは言えるが・・。こんなふうで、新しいものが良いとも限らない。
 人間は、年をとると機械のようにガタが来たり、止まる部分もでてくるが、芳醇になり、馴染んできたり、しぶ みが増したりと良き物が増してくる人も多いのではないだろうか。ただし命の値打ちはみな同じ。


平良憲誠 主任牧師

2019年9月1日 目の前にいる人々の心を信じる

2019年09月10日 22時08分03秒 | Weblog
目の前にいる人々の心を信じる

 私たちの教会の会員に韓国の方々がおられる。いずれの方に対しても、私たちの教会員は尊敬の念をもってお付き合いをしている。私もそうである。信仰者としても、人としても、自然と教えられることも多い。愚かな為政者たちによって、民間レベルでは、信頼もし、友好的な隣人を、私たちは敵視したり、軽蔑したりということにならないか、昨今の日韓の情勢をみて不安に思う。
 日本が、前の戦争で、物心ともに多くの損害を与え、心の傷を韓国と北朝鮮の方々に負わせたことは間違いのない事実である。この件については、日本人は何度でも謝ることをためらってはならないのではないか。それほどの悔い改めの姿勢を、いつまでも為政者たちは示し続けるべきだ。
 さて、日韓関係の泥沼化は、戦後の歴史では最大のものとなっているといっても過言ではない。いろいろな情報戦によって、敵意が醸成されつつある。しかし、民間レベルでは、日韓の友好関係に亀裂が入らないようにと努力をしている方々も多い。
 互いに信頼を寄せている日韓の人々が、為政者たちの意図的な情報操作によって、不信を募らせるのは、実にもったいないことである。慰安婦、徴用工の方々は、日本からも、韓国からも十分な補償をしてもらっていない。日本は既に韓国に金を渡しているのだから、問題は解決済みだという。弱い立場の者を粗末に扱うことを聖書は許していない。 そして、これは両国の為政者たちだけの問題だろうか。


平良憲誠 主任牧師

2019年8月25日 立場を与えて神様は人を造られることもある

2019年09月10日 22時03分05秒 | Weblog
立場を与えて神様は人を造られることもある

 私は、牧師という立場になったので、一信徒の時代には到底わかりようのなかったであろうことをいろいろと学ばさせてもらった。信徒の皆様は、牧師だから話したり、耳を傾けてくださることがある。否、自分は相手がどのような人であろうと、その人となりを見て、そうするという人もいよう。
 しかし、牧師というだけで信頼してくださる方は多い。私は、牧師になったので、その立場から教会を見るようになり、考えるようになった。それ以前には考えなくてすんだ諸々だ。それで、牧師としての賜物で一番必要とされるものは何か。それは祈り、そして愛。それから、神様からいただく知恵。いろいろな人を相手にしなければならないのだから、それは当然である。
 信徒の方々から期待される牧師像というものも、確かにある。偏狭で怒りっぽい人は難しい。いわゆる道徳心のない人もだめだ。人としての徳を感じさせる人が望ましい。それとなく気の利いたことを言える人はよい。親切で優しい人というのは、言うまでもない。愛情深い人は、さらによい。リーダーシップをしっかりと発揮できることが求められる。配慮に行き届いていることも大事だ。などなど、求められていることは多い。
 だから多くの点で、私はダメだ。しかし、もう、28年間牧師をしてこられたのは単に信徒の方々の忍耐だけでもあるまい。逆に牧師としての立場を与えられることで、牧師に求められる人間像に近づこうとしてきたのかも。


平良憲誠 主任牧師