平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2015年1月18日 主にある而立

2015年01月25日 00時34分34秒 | Weblog
主にある而立

 平良先生は今年還暦を迎えられた。全世界に散らばる平良先生の子どもたちも一月に全員帰ってきたが、今年猛威を振るっているインフルエンザなどで還暦のお祝いどころではなかった、と言っておられた。実は私も来る2月で30になる。半還暦である。牧師になった24歳から、早く30にならないかと言い続けてきたが、時がたつのはとても早かったように思う。
 聖書では30歳という年は極めて特別な描き方をしている。「ダビデは30歳で王となり、40年間王位にあった」(IIサムエル5:4)、ヨセフがエジプトを治め始めたのも30歳である(創世記41:46)。
 イエス様も公生涯の始まりは30歳であったと言われている。こんな言葉を前に、昔は何が起こるのかとワクワクしていたものだが、今はいろいろとしり込みし始めた。大きな働きが備えられる年であるが、果たして大丈夫なのかと。信仰は浅く、知識は足りておらず、経験もあまり無い。しまった、もっと主の働きのために備えておけばよかったと後悔ばかりである。
 しかし、神様は「宣教という愚かな方法で信じる者を救おうとお考えになった」(Iコリント1:21)し、イエス様は漁師たちをまず弟子になさったし、「無学な普通の人」をご自身の宣教のためにお用いになったことを思うと、勇気が与えられる。神様の大きな業は神様の力によってのみ導かれる。ただただ神様、わたしを通り良き管となさしめてくださいと祈っている。


森 師

2015年1月11日 ロトの妻から学ぶこと

2015年01月17日 22時43分13秒 | Weblog
ロトの妻から学ぶこと

 振り返ることが、すべて間違いだとは思わない。振り返ることを知っているからこそ、同じ過ちを犯さないですんでいる。イスラエルの人々もバビロン捕囚を繰り返し思い出し、あのようなことに二度となりたくないと、神様への誠実を誓った。日本人は、前の戦争の体験とその歴史から、非戦の思いは他国人以上のものがあろう。
 また、逆に、振り返ることで幾度も勇気づけられることがある。エジプトからの脱出とその後の40年の放浪の旅の歴史は、自分たちを解放してくださるのも、養い、導いてくださるのも神様であることを知った。振り返ることは無意味ではない。しかし、我々にとって、すべてそうかというと、聖書はそうでない一面も伝えている。このロトの妻は、神様がソドムとゴモラの罪にまみれた町を滅ぼす際、後ろを振り返るなと言われていたのに振り返って塩の柱になってしまった。
 私たちの人生には、いろいろなことが起こる。思い出したくもないのに、気づくとそのことを考えている、そのような内容もある。ソドムとゴモラは、罪にまみれた背徳の町だった。私たちも真の神様を知らず、罪を犯していたときのことを振り返り、自責の念にかられる。
 しかし、イエス・キリストによって、救いに与った今、もうそのことをしてはならない。聖書は、記念すべきことと忘れることの両方を教えている。2015年も、忘れなければならないこと、忘れてはならないことが起こるだろう。


平良師

2014年12月28日/2015年1月4日 今こそ「読者は悟れ」

2015年01月10日 22時58分03秒 | Weblog
今こそ「読者は悟れ」

(マルコ福音書13・14)

 「一国の首相の口からこんな発言が軽々しく飛び出すことに驚く。」
2014年11月2日付の毎日新聞の社説は、冒頭でこのように記した。
 
 安倍首相が朝日新聞を名指しして、その報道を「捏造(ねつぞう)だ」と国会の場で断じたことを批判したのだ。そしてこう続けた。「だが、捏造とは事実の誤認ではなく、ありもしない事実を、あるかのようにつくり上げることを指す。果たして今回の報道がそれに当たるかどうか、首相は頭を冷やして考え直した方がいい。」 
 事の次第はこうである。首相はその数日前に、側近議員らと食事をした。その側近の一人が報道陣に、その席で首相は政治資金問題に関して「(与野党ともに)『撃ち方やめ』になればいい」と語った、と伝えた。
 これを受けて、朝日のみならず、この社説を書いている当の毎日も、日経も、そして右寄りの読売、産経までもが、その発言を翌日の朝刊で報じたのだった。
 ところが首相は、10月30日の国会答弁で、朝日の記事だけを名指しして、「私は言っていない。捏造だ」などと批判した。
 その後、報道陣に首相発言を伝えた出席者は、「発言者は私だった。私が『これで撃ち方やめですね』と発言し、首相は『そうだね』と同意しただけだ」、と修正した。
 つまり発端は側近のミスだったわけだ。しかし首相は、翌31日の国会でそのことを指摘されても、そしてまた、それを報じたのは朝日新聞だけではないことを指摘されても、前日とまったく同じ発言を繰り返すのみであった。

社説はこう続ける。
 「慰安婦報道や東京電力福島第1原発事故の『吉田調書』報道問題で揺れる朝日を、『捏造』との言葉で批判すれば拍手してくれる人が多いと(首相は)考えているのだろうか。」「従来、批判に耳を傾けるより、相手を攻撃することに力を注ぎがちな首相だ。
 特に最近は政治とカネの問題が収束せず、いら立っているようでもある。しかし、ムキになって報道批判をしている首相を見ていると、これで内政、外交のさまざまな課題に対し、冷静な判断ができるだろうかと心配になるほどだ。」
 その「ムキになって報道批判をしている首相」の姿は、12月14日の総選挙に至る過程においても顕著であった。
 テレビのニュース番組に出演して街頭インタヴューを聞かされて、自分に賛成している人たちの声をどうして採用しないのか、とクレームをつけたり、自分が指示したのではないと弁明してはいたが、民放各社に対して「中立・公平」な報道を要請したり(それはテレビ番組中の出演者の発言回数、ゲストの選定、街頭インタヴューの方法にまで及ぶ具体的な要請を含んでおり、その結果、選挙に関するテレビの報道番組は例年の約3分の1に激減し、それは過去最低の投票率をもたらす一要因となった)、各党首のテレビ討論会でも自分だけは○×式で回答することを駄々っ子のように拒否したり、「憲法や集団的自衛権などにどうしてもっと応援演説の中でふれないのか」と問われて、実際には統計からして2割にも満たなかったにもかかわらず、「いや、7割以上の演説で話してますよ」と応答したり、・・・・・・。 

しかし選挙の結果は、安倍自民党の圧倒的勝利。 
 マルコ福音書13・14は「読者は悟れ!」と警告しているが、われわれ一人ひとりは、今まさに覚醒された目を持つように、と深く呼びかけられているのだと思う。


青野師

2014年12月21日 わたしたちのクリスマス

2015年01月02日 11時13分51秒 | Weblog
わたしたちのクリスマス

 今度の選挙は、予想どおりの結果だった。国民の多数が選んだ道だが、恐ろしいことにならなければよいと願うばかりだ。多数を獲得した党のある議員は、これからは、やったことのすべてが自分たちの責任になるのだから、喜んでばかりはおられない、と言っていた。まさに、そのとおり。謙虚であって欲しい。
 しかしながら、現実は、国民の支持を得たというので、早速、原発再稼働の話があちこちで始まった。集団自衛権行使に関わる法案も次々と用意されているという。改憲への動き、教育現場への介入(例えば、最近聞いた話では各大学の学長の権限拡大)など、思想統制も少しずつ推し進められていて、戦争への足音が確実に近づいてきたと感じている人は少なくない。
 しかし、私たちキリスト者は、クリスマスのこのとき、メシアとして来られた方が、どのようなお方であったかを知らされている。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子」である。
 そして、「この方こそ、主メシア」である、と天使は告げた。羊飼いたちは、「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」とでかけた。私たちの人生の歩みが、まさに、このときの羊飼いなのであって、神様が聖書をとおして述べていることを信じて一歩を踏み出した、それも急いで、そして、そのとおりになるかどうかを見ようと、日々チャレンジしているのである。そして、まさにその通りだったと言って、人々に伝えていくのである。


平良師