ひーさんの散歩道

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偽書「東日流外三郡誌」の正体10

2014年03月12日 18時59分06秒 | みちのく文化研究&歴史
偽書「東日流外三郡誌」の正体1
偽書「東日流外三郡誌」の正体2
偽書「東日流外三郡誌」の正体3
偽書「東日流外三郡誌」の正体4
偽書「東日流外三郡誌」の正体6
偽書「東日流外三郡誌」の正体7
偽書「東日流外三郡誌」の正体8
偽書「東日流外三郡誌」の正体9




現在引用または編集している参考文献は偽書「東日流外三郡誌」事件から・・・『私』と記載している部分は=(著者:齊藤光政)東奥日報社編集委員

挿絵

各方面から次々と伸びる偽書追及の手に、見えてくるもの・・・それは百聞は一見に如かず。 絵は文章以上に説得力を持つとされるがそれは偽書問題でも同じだ。
「東日流外三郡誌」の挿絵盗用疑惑はまだまだ拡大する可能性があった。
古代史研究家の齊藤隆一(福島在住)を取材して明らかになった。 齊藤氏は言った。
「『外三郡誌』は『國史画帖』以外からも絵を盗用しているようです。

これを見てください。




左がタイム・ライフ・インターナショナル社が1969年に出版した『原始人』(クラーク・ハウエル著、ラディー・ザーリンジャー絵)という本で
右が八幡書店版『外三郡誌』の第一巻に出てくる日本列島の原人や先住民の図である。そっくりですね。


編集者の衝撃の証言

証言者は弘前市内の中心部に近い、年季の入った木造住宅に住んでいた。 山上笙介。弘前市の拠点を置く新聞社「陸奥新報」の編集部次長、常務取締役を歴任した後に退職し、執筆業をこなしながら悠々自適の生活を送っている人物だった。
 県内唯一の国立大学である弘前大学の國史研究会会員で、複数の市史編集委員を務める山上は郷土史家としても広く知られ、多くの著作があった。
そんな地方の著名人が『東日流六郡誌絵巻』に直接かかわっていたと聞いて、私は驚いた。
 山上は和田家文書にかかわることになった発端から話始めた。

「弘前市内の出版社(津軽書房:筆者注)の代表からひとつづりの原稿を渡されたのが、発見者とされる和田さんとの間接的な出会いでした。
出版社からは”内容は面白いけど文章がひどい。手を入れて本にしてくれないか”と頼まれました。
黒いボールペンでびっしり書かれた原稿は文字も内容も非常に特徴的で、一目見れば忘れられない代物でした。
一読して、当時評判になっていた『外三郡誌』を、和田さん自身が口語文で書き直したものだとわかりました。
何やら難しいタイトルがついていましたが、「東日流蝦夷王国」と改題して、1983年に出版しました。もちろん、和田さんの著作としてです。
ところが、これが予想外に売れて。内容がでたらめでも、日本の正史を、津軽の闇の歴史の視点から批判しているということで評判になったんです。
『東日流六郡誌絵巻』にかかわりを持ったのは、それから二年後の1985年のことです。 「東日流蝦夷王国」の売れ行きに気を良くした和田さんが出版社に本にまとめて欲しい、と和田家文書を持ちこんだのです。 この時初めて和田家文書というものを目にしました。つづり本を含めて十五巻ありました。 一見、古文書風でしたが確認のため、古文書に詳しい市内の知人に紙質を鑑定してもらうことにしました。 すると”明治かそれ以降のもの”という結果でした。
そのことを和田に問い合わせると、”原書の成立は江戸後期だが、ここにある現物は明治時代に書き写されたものだから当然だ”という返事だったので、とりあえず納得して編集作業に入りました。
ところが、それからがひどくて・・・・」

「それからです。大きな疑問に突き当たるようになったのは。 本物の近世文書に加筆し、文章を改竄したような跡が見られたのです。そして何より最大の疑問は、古文書の筆跡と和田さんの筆跡があまりにも似ているということでした。
和田さんから本につけるあとがきのようなものをもらったのですが、そのボールペンの字と古文書の毛筆の書きが」とても似ていたのです。
口語体と文語体の違いはありましたが、使っている単語や言い回しもそっくりでした。 それが、あなたが聞きたいという『東日流六郡誌絵巻』だったのです。

代々伝わる文書を読むうちに字まで似てくる・・・・。 和田の訴訟代理人を務める五戸が説明したのと同じ理屈だった。
そんなことが本当にあり得るのだろうか? 疑問を投げかける間もなく山上は続けた。

そして、和田家文書をめぐる奇怪な出来事が起きたのは、『東日流六郡誌絵巻』に続いて刊行した『總輯 東日流六郡誌(そうしゅうつがるろくぐんし) 全』(1987年刊行)の編集作業にあたっていた時のことだったという。

「この時、持ち込まれた和田家文書も『東日流六郡誌絵巻』の時と同じで、文字と用語は和田さんの肉筆とそっくりでした。内容的にもひどいものでした。
本物の古文書もありましたが、それは和田家とはまったく関係のないもので、それに書き加えることで、さも和田家文書のように見せているのです。偽造、変造文書のたぐいです。
それが続々でてくるのです。


はなはだしい例としてこんなことがありました。 私が”この文書とこの文書の間が抜けている。つながりになるような文書がないか、探してくれ”と和田さんに言うと一週間もすればちょうどぴったりの文書をホイホイ出してくるんです。信じられますか。 こりゃあ、駄目だと思いました。
歴史上、存在しない津軽藩の役職名なども平気で出してくるのですから。和田さんが無理して新しく作っていたのです。
当然、出版社には刊行を中止するよう申しいれましたが、時期的に手遅れでした。 結局発行部数を最小限に抑え、初版が売り切れ次第、絶版とすることにしました。 私はそれ以来、和田さんと和田家文書とは一切関係を断ちました。

「門外不出」とされ、専門家ですら見ることがままならない和田家文書。 その文書と発見者とされる和田家の内筆を同時に手にし、目にした山上の証言が持つ意味は重かった。
山上は文書と和田の筆跡が類似していることに気付いた最初の人物である可能性が高かった。

疑惑はその後の『總輯 東日流六郡誌 全』の編集作業を通して深まり、最終的に和田さんの制作と確信するに至ったのです。じつは、『東日流六郡誌絵巻』については、最近の制作ではないかと、私が所属する弘前大学の國史研究会のなかでも話されていました。
 こうした『國史画帖』というはっきりした種本が突きつけられればもう、和田さんも言い逃れはできないでしょう。 私は今では、和田家文書全体を偽書とみます。
現代人が歴史の本や論文などからいろいろな話をピックアップし、これに筆を加えて都合よくまとめた創作物。
それが、「東日流外三郡誌」をはじめとする和田家文書の実態だと思います。


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《「東奥日報」1993年12月5日》
「東日流六郡誌 和田家文書に新たな疑惑」
「國史画帖」の流用?」
「絵巻の挿絵35枚が酷似」
 ユニークな古代、中世史論を展開する「東日流外三郡誌」の真偽論争が全国の歴史ファンの間で加熱する中、和田家文書に新たな疑問が浮かんでいる。
文書の一つである『東日流六郡誌絵巻』に対して、県内の歴史愛好家らが「同絵巻の絵は昭和初期の画集からの流用」と指摘しているもので絵巻を編集した郷土史家はその可能性を認めている。
本県に端を発した論争は新たな展開を見せそうだ。


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ひとつの幻

和田家文書の詳細をよく知る立場にある編集者自身が、和田家文書の偽書性を証言した波紋は大きかった。 その後、この私の記事が各種の雑誌等に転載されたことでもそれがよくわかる。
 そして私の取材からちょうど一年後。 各方面の疑問に答えるように、山上は古代史専門誌の『季刊 邪馬台国』に、和田家文書は現代人の創作物で偽書ーと主張する文書を寄せた。
タイトルは、「『東日流誌』との遭遇と決別」。 その時点での山上の立場を明確にするものだった。
『季刊 邪馬台国』は『外三郡誌』の偽書問題を勢力的に掲載していた。 この文章の中で、山上は「ひとつのまぼろしを見る」として、和田家文書の成立過程を一人の関係者の視点から推理していた。

つくりあげた文書に、煙や薄墨などを用いて古色をつける。 線香の火で、虫喰いも模造する。 本物の文書を手に入れて、切り取りし、加筆するなど、都合よく変造する。
こうして、いろいろな雑多な、時代がかった「古文書」群が出来上がった。
青年は、これらを、江戸期・明治期、さらに、もっと古い時代のものと偽って、売るようになる。 または無償で提供して、「実費」や謝礼をもらう。

骨董のたぐいも、同様に手がける。 これは古道具屋などで入手したガラクタや新作物に、適当な説明をつけた。
 青年は壮年になり、初老にいたる。 この歳月のうちに、作成した「古文書」類は、膨大な量に達した。
この量がまた、「個人では不可能な仕事」と世間に錯覚をいだかせる。 しかし、十年、二十年をかければ、たった一人だけでも、出来ないことはない。
なぜならば、その文字と文章は、きわめて粗雑であって、用語の正誤や文法を気にしない、書き飛ばし、たれ流しである。
一篇をつくるのに、たいした時間を必要とすまい。(中略)こうしたおぞましい偽文書は、現在もなお、ご本人の必要、または、他からの注文に応じて、制作され公表されつづけられている。


「文章も文法も滅茶苦茶で、拙考、醜悪の限りをつくしている。 偽書としては五流の偽書、つまり最低の偽書である。 その絵も同然である。
ニセ骨董品屋も引き取らないような偽書を本物と思いこむのは丸太棒を呑み込むように難しい」
(『季刊 邪馬台国』五十二号、1993年)

一方、これは真偽論争が本格化した1993年に、民俗学者の谷川健一が『外三郡誌』を評した言葉である。 「五流の偽証」とは、学問に厳しい谷川らしい指摘だった。



次回は、問題の市浦村資料編について進めていきます。




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