超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

火の国のシンボル

2017-06-23 20:20:58 | 旅行お出かけ
火の国のシンボルと言えば大自然は「阿蘇」、食べ物は「馬刺し」、建造物なら「お城」であろう。ドライブコースや名所巡りなどは比較的私に任されていたが、食べ物についてはさすが女性である妻が知人やネット口コミなどで詳しくリサーチしていた。やはり我が家にとって所縁の深い国なようで、色んなお店や名物を紹介してくれる友人がたくさんいるのである。市内には2泊したのだが、初日は特に予約はせずに2日目だけ、誰に聞いても馬刺しで有名な老舗の「ホルモン」版を予約していた。初日はいくつかあった候補のうち、ホテルから近いお店に行ってみたのだが人気店らしく店の外に待ち行列ができてしまっていた。週末の夜だし、あちこちうろついても似たようなものだろうと大人しく椅子に並んで待っていたが、こういう時には実に頼りになる妻が別の店に電話し、カウンター席を確保したようで急いで向かったのである。ハニーさんお薦めのお店で「揚げたての辛しレンコン」が絶妙な居酒屋だそうである。

        

それなりに値段はするものの、馬刺しの盛り合わせはさすが本場、赤身や霜降り、タテガミなどどれをとってもトロけるような美味だった。コミック「クッキングパパ」で熊本料理が特集されていたのを見て名前だけは知っていたが、一文字(仮面ライダー好きは「いちもんじ」と読みたくなるが「ひともじ」と読むそう)ぐるぐるというワケギを酢味噌で食べるシンプルなメニューが野菜嫌いの私にも酒の友として合うようだった。また馬モツの煮込みというのもあったが、爽やかで飽きのこないものだ。やはりこの店のトップメニューはハニーさんお薦めの「揚げたての辛しレンコン」だろう。お土産やこの辺の居酒屋などで出る「辛しレンコン」は冷たいが、揚げたては香りと甘さが全然違う。特に熱々を頬張るとレンコンの甘みと中に詰められた辛子のつんとした風味がバランスよく同時に鼻から口に抜けていくような、衝撃的な美味だった。

    

カウンターの横には(初老と言ってもよい)おばさんが二人で渋く焼酎をちびちびやっており、大将から一品を出されるたびに「うんめえ!」と歓声を上げる我々に「どこから来たの?」と声をかけてきた。「へーえ、ずいぶん遠くから来てくれたんだねえ」お友達家族の故郷でもあり、子供が小さい時からご縁が深く、ぶっちゃけ応援のつもりで休暇を取ってやってきた話をすると、「そりゃー、嬉しいねえ!何か涙出てくるよ。ありがとねー楽しんでいって」かんらかんら笑って先に帰って行った。この旅行を通して感じたのだが、阿蘇神社のお友達といい、蛍丸のオヤジといい、高舞登山展望台を教えてくれたビジターセンターの係員、生タコを大釜で茹でる際にわざわざ傍らまで引っ張ってくれた海鮮丼屋のおばさん、そしてカウンターの二人など、何かこの国の人たちとの出会いは「当たって」いた。気さくで人懐っこくそして親切で明るいから、あれほどの被害にあっても何か「明るく応援したくなる」ものだ。

翌晩は馬刺しのホルモン版という有名店だったが、ただの焼肉にしてしまうのはもったいないような気がして、売り物のホルモン炒めだけに留めた。最後の夜だというので、さらに馬刺し7種盛りを頼んだらこれがやはり絶品、一文字ぐるぐるも品のよい、シャキシャキの歯ざわりだった。何よりも感激したのは希少な部位で時には品切れになってしまうという「レバー刺し」である。一口、味わったときに思わず妻と手を握り合ったほどの絶品だった。元々レバー刺しは妻の好物なのだが、牛のレバー刺しと比べると臭みが少なく、コリッ、プリッとした思った以上にはっきりしている食感が新鮮で、独特の甘味ととろけるような味である。若い男性店員が丁寧に教えてくれたが、馬肉の脂身は他の肉と比べ融点が低いので、舌の上にのせるととろけるそうだ。私はレバー刺しの他に「ふたえご」と呼ばれるアバラの三枚肉部分が大のお気に入りとなった。

          

最終日に訪れたのがもちろん最大のシンボル「熊本城」である。ご存知の通り昨年4月に発生した地震により、大きな被害を受けたのはニュースでも見た。現在、ほとんどのエリアに立ち入ることはできないが、二の丸広場や加藤神社、その周辺から、天守閣や櫓等が見られるという。我々はお土産や食事、観光案内などが集まる「桜の馬場城彩苑」に駐車するとまずは歴史文化体験施設の「湧々座」を目指した。内容はちょっと「子供だまし感」がある施設なのだが、「復興城主」申込み窓口があるからである。平成28年熊本地震により、熊本城は甚大な被害を受け、その復旧・復元には20年という長い年月と莫大な費用を要することが見込まれており、早期復旧を願う人々の支援金として「一口城主」という制度があったのだが、これを再開したものだそうだ。我々は前夜この「復興城主」となることを決めていたのである。その場で渡される仮の「復興手形」を見せると有料の「湧々座」に入れるようなので試しに入館してみた。

いきなり入り口に熊本城をバックにした「なりきり侍」セットがある。かなりの勇気がいるが、幸い午前中で開館直後ということもあり人通りがほとんど見られない。うずうずしていると妻が「はいはい、荷物持っててあげるから、さっさと着替えなさい」と私のスマホを取り出した。途中で脇差があるのに気付き、慌てて腰に差し込んだが隣にあった「ちょんまげ」の被り物は明らかに小さ過ぎて入らなそうだ。館内にはさらに「殿様」「大名駕籠」「乗馬」などの体験コーナー(この辺りが子供だまし)があるが、ちょうど外国人観光客がどばーっと入ってきて占領されてしまった。奥の方に昨年の地震直後、熊本城の深刻な被害をリポートした国土地理院のリポートVTRを視聴でき、ニュースなどでは見られない本丸二の丸内部の被害や周辺の石垣なども詳しく分かった。ドローン撮影だろうか、天守閣の瓦がほぼ全て落ちてしまっている姿はニュースで見たが、内部も想像以上にひどいことになっている。

      

        

あちこちで石垣などが部分的に崩れ、城としての敷地にはほぼ全域立ち入ることができない。二の丸広場から正面に本丸天守閣に巨大なクレーン設置され、3年後の復旧を目指しているそうだ。加藤神社には参拝することができ、本丸の他ぎりぎり倒壊を免れている宇土櫓を眺めることができる。テレビニュースなどでよく放映されたのは、特に危険な状態になっていた「飯田丸五階櫓」である。「ほんとかよ?!」という映像だったが、地震により土台となる石垣が崩れ、角の部分が辛うじて残った「一本石垣」で支えられ、ギリギリ倒壊を免れている状態だった。大きな木が邪魔して今現在の姿は一部しか見えなかったが、まずは倒壊を防ぐために櫓を支えるアーム状の巨大な鉄骨を組み上げ櫓を抱え込む位置まで油圧ジャッキで移動したものすごい工事風景だったそうだ。

      

被害拡大を防ぐための応急工事がほぼ終わったのは、この飯田丸五階櫓と南大手門の2か所だけだそうだ。何十箇所も崩れた石垣は緩んで不安定な場所も多く、安全に通行できるのはまだまだ先となるということだ。残念ながら多くの無残に崩れた現場は放置状態のようにも見える。何せ一つの石でも何百キロという重さでクレーンでなければ移動できないのだ。さらに重要な史跡ということで、石垣を形成していた石の一つ一つはバラバラに砕けていない限りは元にあった位置を記録管理し、原則「元の場所に戻す」のだそうだ。2の丸広場横の広大な空き地には既にナンバープレートらしきものを貼り付けた巨大な石が並べられていた。何万個もあると思われる石をどのように管理し、元に戻すのか?!想像を絶する苦労と年月がかかるだろう。完全普及の目安は2036年、つまり20年後である。我々は70歳を越えているが、元に戻った姿をぜひ見てみたいと思った。

今回の旅行は日本神話の舞台、自然対自然の闘い、海山が創り出す風景、そしてよくぞ踏ん張った建造物に触れたものだった。お友達家族や息子など、なぜか九州地方で御縁のあるこの国に「どこかにマイル」で選ばれたのも、それこそ深い御縁なのだろう。さらにはお友達夫婦がこのキャンペーンに興味を持ち、申しこんだところ何と「この国」になったそうなのだ!(何と言う共鳴か!)私達から少し遅れて火の国入りした彼らは高千穂峡で仲良くボートに乗っている画像を送ってくれた。地震の傷跡は大きく、まだまだ深刻なところがむろんあるが、全体的にかの国の明るく暖かいからして、我々も同様に応援できそうである。いずれ故郷をもつお友達、訪れたお友達と集まり、かの国について「語り合おう」ということになるだろう。