超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

北東北の景勝を歩く

2014-11-28 22:24:12 | 旅行お出かけ
母とのプチ東北旅行、1日目は世界遺産の平泉だったがその日宿泊したのは送迎車で30分くらいの「矢びつ温泉」というところだった。一関からまっすぐ栗駒山に向かう途中にありパンフレットでは高台の露天風呂から渓谷を楽しめるいい感じの宿だったが。同様のJRの来た東北ツアー企画の中では世界遺産価格の平泉温泉よりも費用がリーズナブルであり、食事も結構期待できた。平泉からの送迎バスの中では寝てしまったが、(おそらく道中もそうだろうが)着いてみると想像していたような山深い渓谷のよこにひっそりと建つ鄙びた温泉宿とは異なり、国道のわきにどーんと大きな建物が一軒だけあった。山肌と川の流れはあるが、どちらかというと平地に近く周囲には見事なくらい「何もない」。ホームをみるといきなり「ウィークポイント」が紹介されていて、「2階建の施設にはエレベーターがございません」「ソフトバンクの電波が入りません」「一番近いコンビニまで車で15分かかります」など言いにくいことを潔くカミングアウトしているところは逆に好感がもてた。

到着したのは午後4時半過ぎでかなりうす暗くなっていたが、部屋からの眺めは中々よく、少し遠くに見える山々と少しだけ見える渓流のコントラストがよい。四季折々、また晴れていれば時間によって色々な景観が楽しめそうだ。そして驚いたのがあっという間に「真っ暗」になったことだ。東京よりもかなり東側にあるのか、日没時間が早いようで、なおかつ周囲に何もないからすぐに夜空の星々が見え始め、まだ6時前だというのに満天の星が目に入った。時間が早いから建物の明かりや駐車場、庭のランプが邪魔でもったいなかったが、夏場に見た沖縄の空に匹敵する美しさだった。私は試しに超兵器203号のシャッターを開きっ放しにして30秒ほど露出してみた。ポラリエ1号を持っていかなかったから露光図鑑はこれで限界だが、かなり美しく星空が写し出されている。夜中に一度起きて空を見上げたら雲に覆われてしまっていたが、周囲は全て消灯されており、天候がよければ素晴らしい眺めになると予想される。食事も「前沢牛」がついて豪華だし、スタッフの「いわて弁」も一生懸命のもてなし感が出ていて、この宿はポイントが高い。

            

到着して早速入り、食後一休みして就寝前にもうひとっ風呂、早朝に目覚ましに入って、出発前にとどめの入浴を行って満足のうちに宿を出発した。向かうはレンタカーを予約している一関駅である。矢びつ温泉は平泉にも一関周辺、栗駒山などどの方面でも数十分でいける観光拠点である。ただし駅に向かう道のりではいくつかある観光地のうち何一つ見えない。一関駅までは25分くらいで着き、駅に隣接するレンタカー屋のドアを開けたのが10時半頃だった。「どちらの方にいらっしゃいますか?」「猊鼻渓に行こうと思うんですが」「ああ、川下りですね。」係り員はすかさず時刻表を差し出して、「えー、11時発には間に合わないから12時から出る舟になりますね。ここから40分くらいかかりますから・・・」
我々はカーナビをセットしてレンタカーを乗り出した。予定到着時刻は11時04分、途中で「「(これなら間に合うな)」と密かに自信を持ち、少しスピードオーバー気味に空いている道路をまっしぐらに向かった。

11時5分前に到着した時はまさしく「おーい、舟がでるぞぉー」状態になっていたが、運よく乗船券を買ってぎりぎり乗り込むことができた。猊鼻渓は北上川の支流、砂鉄川沿いに数十メートルはある巨大な岸壁に挟まれた渓谷で舟下りはおよそ2kmを終着で20分くらい上陸する時間を入れて90分くらいで往復する。急流のようなところは全くなく、不思議な景色を作り出す奇岩を楽しみながらゆったりと往復する。普段は屋根のない舟だがこの季節からビニールハウスのような透明の覆い付舟が現れ、真冬はそれに炬燵をいれて1年中運行しているという。舟の形も独特で先頭が尖っておらず平たく広いのは「馬を乗り降りさせる」ためだそうだ。天気もよく暖かかったからビニールハウスが若干邪魔だったが、こういう舟下りは初めてという母も興味深そうに船頭のいわて弁まる出しの案内を聞きながら景観を楽しんでいた。

          

終点で一旦下舟し少し川沿いに歩くことになる。この川に住む魚は鯉、ウグイ、アユなどで鮭も上ってくるが、この季節鯉以外の魚は深場に移動して冬眠してしまい、鮭は産卵を終えて死んでしまうという。1匹だけ実際に役目を果たし終わって川底に沈む鮭を見つけた。神々しい姿だった。さらに歩き進むと100メートル以上ありそうな断崖絶壁が現れ、その横で人々が石ころを崖に向けて投げつけている。実は石ころには「福」とか「縁」「運」など何種類かの字が彫ってある「運玉」といい、これを正面の岩に空いた隙間に投げ入れられると願いがかなうパワースポットだそうなのだ。運玉は5個で100円、むろん私もチャレンジしてみたが、長嶋さんのヒラヒラフォームも妙に指先に引っ掛かって思ったように投げられず、一番近くても横50センチくらいまでいって穴には入らなかった。(うーん、残念・・・)帰りのルート、船頭の「げいび追分」に拍手喝采して満足のうちに舟を降りた。

      

次に我々が向かったのはすぐ近くにある「幽玄洞」である。ちょっとマイナーであまり訪れる観光客もいないようだが、日本でも有数の化石の産地であり、3億5千万年前の地層にあって日本最古の鍾乳洞と言われている。入場料は結構高く、しかも休みの日なのに我々の他に誰ひとり観光客がいない・・・大丈夫か?係の人によれば足元は滑らないようになっており、年寄りでも余裕をもって中を歩けし、エメラルドグリーン色した神秘の地底湖が見られるというので、「せっかくだから」行ってみた。全長は約500メートル、確かに珍しい「ウミユリのガク」をはじめ、スズリナや三葉虫などの化石があちこちで見られ、鍾乳洞ならではの石筍、石柱、つらら石、フローストーンなども間近で見ることができた。ただし見学ルートは聞いていた以上に狭く、急で手すりは付いていたものの年寄にはちょっとキツイ様子で、何度か手を取ってやる羽目となった。しかし初めてみる地底湖は確かに美しく神秘的だった。

          

そこからさらに車を走らせること20数キロ、矢びつ温泉方面に戻ってしまう方向だが我々は「厳美渓」という国の名勝に向かった。先に訪れた「猊鼻渓」とよく似た紛らわしい名称だが、その景観は全く異なる、険しい流れによってできた奇岩、甌穴などである。二つの橋を渡ってぐるーっと散歩して約20分、変わった景色を楽しめたが、沿道はバスが通れるような大きな道で、またいかにも観光用のガラスパークなる施設があり、母は「何か街中にいきなりあるっていうのはわざとらしいよねえ」と苦笑していた。ここの名物は「かっこうだんご」というもので「空飛ぶだんご」として知られている。渓谷沿いのお店と川向かいの岸壁の間にワイヤーロープが張ってあり、籠に代金を入れて木の板を叩くと店がするするーっと代金入りの籠を回収し、しばらくするとだんごと湯呑に入ったお茶がしゅーっと滑り降りてくるのである。中々面白そうで、人だかりがしていたが母は「だから何なのさ」みたいな顔をしており、見ていると私もそんな気がしてきたので、近くの名物蕎麦屋で遅めの昼食を摂りに入った。

              

帰りの新幹線の時間にはまだ余裕があるが、レンタカーを返すにあたり給油したり返却の手続き時間などを考えると市街地が渋滞した場合微妙な時間だった。しかし割と近くだったので我々はこの旅行の最後の訪問地「達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂」に向かった。平泉市内となるがここだけは奥州藤原氏よりもはるか昔、征夷大将軍の元祖「坂上田村麻呂公」の創建とされている。蝦夷平定の成功を毘沙門天の加護と感じ、これを祀るため窟に京都の清水の舞台をまねた建物を作ったとされている。観光ガイドでみて、毘沙門堂も珍しいと思ったが、その先に初めて見る磨崖仏「岩面大仏」というのがある。文字通り岩肌に大仏様が彫られていて、前九年・後三年の役で亡くなった敵味方の供養に源義家公が馬上から放つ弓矢で彫り付けたとされている。境内にはいくつかの由緒のある御堂があり、中々見応えのある名所だった。

        

矢びつ温泉で感じたが、北東北の日が沈むのは早い。15時を回ると急に寒くなるしみるみる日が陰ってくるのが分かる。我々はレンタカーで一路、一関駅に向かったのだった。今回の旅行は前回のように観光バスを使用しなかったから行動範囲は狭く訪れた場所も少なかったが、一つ一つに時間をかけ、しかも大物揃いだったからかなり母も満足したようだ。この生き急ぎ母子の旅行は必ずと言ってよいほど天候には恵まれる。時間も行程も前回に比べゆったりとしたものだったが、信じられないくらい歩いた。1日目は毛越寺までの道のり、境内の散策、中尊寺の広大な境内はほとんどが坂道、また無量光院跡から平泉駅までと合計すると実に1万2千歩!母が掛かり付けの医師に「歩け」と言われている歩数の倍以上である。翌日はレンタカーや舟下りでそれほど足を使うことはなかったが、それでも幽玄洞や厳美渓などを合わせると8000歩、この二日間で2万歩も歩いたことになる。旅先で歩くのは苦にならぬというが、この私がいい加減、足が痛くなるほどだったから母はよく歩いたものだ。まあ、たくさん歩けるというのは元気の証拠なので、当分はこの北東北方面旅行を企て「ウォークラリー」に連れ出すようにしよう。

母と世界遺産を訪れる

2014-11-25 22:09:12 | 旅行お出かけ
間もなく「人生のハーフタイム」ともいうべき時を迎える私は、今年も貯めたポイントを使用してクーポン券をGETしこれを足しにして母と旅行することにした。クーポンはJR東日本エリアのツアーに限られ、近場なら自家用車でのお出掛けになるから自然と「新幹線を使った旅」ということで東北方面となる。これはこれでよいきっかけとなっており、東北にはまだまだ見るべき名所が数え切れないほどあるし、足を運べば復興のためにもなると思うので、当分はこのスタイルで行こうと思う。成人してから初めて母親と二人旅したのが昨年の今頃、田沢湖・角館だった。それから数回は近場でプチ旅行し、今年は秋口に従兄弟会があったので、紅葉には時期遅れとなってしまった。母はいつもの通り「どこでもよい」と言うので、北東北ツアーパンフレットとにらみ合い、ズバリ今回は世界遺産の平泉・一関とした。

るるぶで下調べすると平泉の世界遺産群は比較的駅周辺に集まっており、レンタカーで巡るには近過ぎるが歩くにはキツい中途半端な距離だ。公共の周回バスで1日もあれば全部見物できるようなエリアで、中心部には温泉旅館もあるのだが、もう少し捻りが欲しいしちょっと世界遺産価格のようだったので、山間部へ15kmくらい離れたマイナーそうな温泉を選んだ。新幹線で一関まで行くのだが、割安お得ツアーだけあってちょうどいい時間の列車が中々ない。一関駅は東海道新幹線でいうと米原みたいなもので、はやぶさ号やはやて号、こまち号は止まらないのである。早い時間の列車だと家を暗いうちに出なければならず、遅めだと到着が午後になってしまう。びゅうセンターで色々調べてもらい、11時半頃到着する列車を見つけた。

    

東京から2時間半余り、在来線の連結もよく昼前には平泉駅に着いた。何はともあれ中尊寺に向かおうとバス乗り場に向かったら観光案内の女性が「ごめんなさい。今、ちょうど出発しちゃいました。次は30分後なんです。」観光ガイドを渡しながらすまなそうに言った。待合室で座ってガイドを眺めていると、さっきの女性が「毛越寺まで10分くらいですが、歩けますか?ここで30分待つのももったいないですし・・・」親切に教えてくれた。我々は喜んで2番目に訪れるつもりだった毛越寺に向かった。駅からの一本道は不自然なくらい広くて新しい道路が整備されていて「これも世界遺産効果かねえ」と二人で苦笑したものだ。手前には(ただの広場と池だが)観自在王院跡があり、毛越寺に到着した。平泉の歴史はそのまま奥州藤原氏の歴史であり、至るところで初代清衡、2代基衡、3代秀衡が現れる。

  

毛越寺は基衡、秀衡が造営したそうだが、当時は中尊寺を凌ぐ規模だったという。当時の堂宇はすべて焼失してしいまったそうだが遺跡は残っており、見事な浄土庭園に修復されている。約100年奥州で平安の華麗な文化を築いた奥州藤原氏を偲ばせる。池に水を引き入れる「遣水」というものがあり、当時の行事「曲水の宴」では、杯をこの水路に流し、自分の前を通過するまでに一首詠むのがルールだったそうだ。麻呂たちの甲高い声が聞こえてくるようだ。毛越寺は紅葉でも有名だそうだが、残念ながら時期が遅くほとんど落葉してしまっていた。大泉が池をぐるーっと一周し、伽藍の跡などを見学して周回バスを待った。「運動がてら歩くのもいいねえ」などと余裕をかましていたが、実はこの1日、この後ずーっと歩きっ放し、母は医者に「歩け」と言われている5000歩を倍以上超える距離を歩かされることになるのである。(ごめんなさい)

        

周回バスでわずか5分、世界遺産の中心、中尊寺に着いた。入り口のすぐそばにバス停があるが、金色堂が有名な20近くある堂宇まで15分も「月見坂」という坂を上らねばならない。昼の時間は過ぎていたので、腹ごしらえに正面のレストハウスに入った。別に普通のメニューでよかったのだが、血が争えないのか母も私も「名物」とか「縁起物」についつい手を出してしまう。私はこの辺で有名という餅づくし御膳、母は岩手黄金ランチといういかにも観光者向けのやられそうな料理を注文した。しかし思っていた以上に月見坂は険しく、高齢の母には少しキツかったようだ。世界遺産なんだから、年寄りが楽に上れる仕掛けくらいは造ってほしいものだ。

        

八幡堂から始まり、弁慶堂、地蔵堂、薬師堂などテーマ別?の御堂が立ち並び、本堂でお参りしさらに奥へ向かった。毛越寺は落葉してしまっていたが、中尊寺はところどころ見事な紅葉があって素晴らしく見応えがあった。そしていよいよ「金色堂」の登場である。大きな建物の中にガラスで囲まれた黄金の御堂が・・・我々は思わず息を飲んだ。撮影禁止なので画像はないが、これはもう神々しいとしかいいようがない。奥州藤原氏がいかに浄土に憧れ、栄華を極めていたかがよくわかる。新たな覆堂の奥の方に鎌倉時代からの旧覆堂があり、賛衡蔵には金色堂修復の際に外して保存されている様々な部品、アイテムが陳列されている。どこで調べてきたのか「目の御守りが欲しい」と母が係の人に聞いていた。たくさんある御堂はそれぞれオリジナルの御守りや所縁の品が売られていたが、珍しい「目の御守り」は峯薬師堂というところでのみ入手できるそうだ。丁寧に教えてくれたおかげで無事GETすることができた。

      

               

さて今年琉球王国のグスクに続く見物となったのだが、個人的に「世界遺産」とはこれまであった「国宝」「重要文化財」などとはちょっとポリシーが異なるように思えた。対象物自体はあまり重視していないのである。文化的な遺産の価値を理解しこれを伝承する「訪れる人たち」のためのフォローが充実している。道路は整備され、説明用案内板や主要言語でのガイド、駐車場や資料館の整備などである。建物など全く現存していなくてもよく、また中途半端に残っていても思い切って解体し、資料館で保存してしまうから何となく「人工臭」が強い。現物よりも訪れる人を手厚く保護しているのがグローバルな考えなのかと思う。(でも急勾配の坂は何とかしてほしかった)

たっぷり2時間、中尊寺を堪能して下山し、再び周回バスに乗り込んだ。帰りに気付いたのだが、バス停のすぐ横に大きな石碑のようなものがあり、武蔵坊弁慶の墓」と記されている。中尊寺の月見坂は勾配の強い坂だから母もだいぶ歩き疲れていると思われたが、平泉駅に宿からの迎えがくる時間までは少しある。我々は手前で下車し、無量光院跡も行ってみることにした。ここも史跡として建物などは残ってはおらず、発掘調査作業が続けられているところだ。面白かったのは、写真の角度から十円玉の宇治平等院と同様の建物が存在したそうだ。京都の風雅を東北のこの地まで持ってこようとした藤原氏の意思が感じられる。

    

毛越寺、中尊寺を訪れて私は今までの奥州藤原氏に少し明るいイメージを持ったのだった。歴史の教科書には必ず登場するし、中尊寺金色堂は知らぬ者がいないほど有名だが、正直奥州藤原氏というのはミイラがあったり、謎が多くてどこか胡散臭い印象が多かった。特に源義経と関わりが強く、末期は彼を裏切って攻め込むような暗いところもあるし、首だけのミイラにはさらし首の跡があったともいう。しかし日本史的には恵まれた時代のほとんど無かったように思われる東北地方で100年にわたり遥か遠方の平安の栄華をもたらしたのは、かなり歴史的に輝いた貴重な1ページだと思われた。
「夏草や兵どもの夢の跡」平泉の歴史はまさしく芭蕉が詠んだ「夢の跡」のようだった。。。(つづく)

   

多年勤続表彰

2014-11-23 07:00:46 | 職場
少し前になるが勤務先の企業には10月に創立記念とも言える日がある。半ドンみたいな中途半端な休みにしかならないが、公的な行事としては「多年勤続表彰」というのがあり、それぞれの職場で責任者が一定の勤続年数に達した社員に感謝状をもって表彰する。ここ数年、地方で私は先輩社員達にこの感謝状を「読み上げる」役目だった。そのセレモニーを終えると「昼食会」などを開いて彼らを労い、さらに終業時間を迎えると各職場で「お祝い会」などが行われる。私が入社した頃、この表彰は確か20年と30年で2回あり、手厚く会社からもてなされたが、今はほぼ大卒入社が主流だからか、中をとって1回だけ表彰することになっている。高齢化が進む地方拠点ではルーキーズ似の年齢以外はほとんどの人がこの表彰は受賞済で、「お祝い会」と言っても「お仲間に入る」ような儀式になっていた。

ちなみにグンマにいた時、私はいくつかの職場の責任者として兼務(ギャラは一緒だけど)していて、毎年大体3つくらいのセクションで受賞者が出て別の場所でお祝い会をしていた。普段お世話になっているし、公的行事で皆様の前で感謝状を読みあげて「ハイ、オレの出番はもう終わりね」というのも何か割り切り過ぎる気もして、各部署のお祝い会には顔を出すことにしていた。ただしある会に顔を出してこちらには行かないという訳にはいかないので、全部の会場を周回することになる。ある年はスティーブの部門、八兵衛の部門、ミスターの部門それぞれで2人ずつくらい受賞者がいて、1時間ずつはしごした。幹事が連絡を取り合って時間になると「次は○○に行ってください」と声をかける。街中でそれほど遠くはないから自転車で次の会場に向かうと入口で次の幹事が待ち構えていて一言しゃべって1時間過ごし、次に向かうという落ち着かない段取りができているのである。何かドサ回りに来た田舎政治家みたいな気分だった。

本社系や対象者がほとんどいない「若い職場」はめいめい午後を目安に色々なイベントを企画するのが慣習だ。この日を職場のレクリエーション機会として、ボーリング大会やマラソン大会など様々な催しを行うセクションも多いが、昼間からずーーーーーっと酒を飲んでいる連中もいる。前職はたまたま若い社員が多かったのと、外部からのスタッフが主流だったから多年勤続のお祝い会ではなく、近所のグランドを借りてのセンター対抗ソフトボール大会だった。何人かはマイチームのユニフォームを着てくる「隠れソフトボーラー」だったし、背中に「KAMEI」と入った巨人9番のユニフォームを着てくる野球フリークもいて結構盛んなようだ。(巨人の9番って言ったら「吉田」しか知らぬ。「村田」もいたかな・・・)試合前のノックなんてかなり本格的で、内外野への打球はもちろん併殺やバント処理の練習までしていた。

私は試合前のつまらない練習で怪我などしたくなかったから、ベンチで様子を見ていたが、隅っこでそろそろと目立たないようにストレッチを始めたら、我が企画チームの監督役らしきオダヤンがにやにやしながら近寄ってきた。。。「4番サードに入ってもらいますからねー。活躍してくださいよ♪」
どう考えても「名誉職」で、ともすると彼らには釣りとサーフィン以外嗜むと言ったことのない私が強い打球にオロオロ逃げ回るのを見て楽しむつもりのようにも見えたが、水も漏らさぬ鉄壁の反応に長嶋さんのようなひらひら〜っとした華麗なスローイングを目の当りにすることになる。(しかしファーストまで届かすのがやっとだった・・・)
「おーっ、すげえ・・・やるな。ありゃー、結構やってるぜ」相手ベンチからも歓声が上がった。(やってないけど、これくらいは身体が覚えてるんだよ)

  

さて、全然ピンと来なかったが、今年はいよいよ我々がその表彰を受ける年になった(言われるまで知らなかった)。同じくソフトボール大会でグランドから「横浜倉庫」の壁にぶち当てる特大の祝砲というのもありだったのだが、奇遇なことにわずか1年で台場を去ることになってしまった。新しい職場は老いも若きも色々な勤労スタイルの人がいるバラエティ溢れるところだが、正社員で会社の運営している者に限ると、いわゆる我がグループのOBがほとんどで、グンマのさらに上をいくシルバー会社である。一旦は我が社を引退された人達だが、同様の仕事に従事して40年以上というのもゴロゴロいらっしゃり、スティーブや八兵衛などもはるかに凌ぐ重鎮揃いである。我々レベルの多年勤続など「遠い昔に忘れてしまった」大先輩達であり、とてもお仲間入りでお祝いしてもらうような気分にならない。。。常勤では私に「感謝状」なるものを渡す立場の人がいないので、別の日に唯一この会社での上司がやってきて、隠れるように応接室で「ははーっ」と上意文を頂いた。

「多年にわたり会社の事業に貢献・・・・」確かに見ていると職場に一定の割合で「滅私奉公」の見本みたいな人達がいる。自分の予定を犠牲にしても「会社」を優先し休日も家族を顧みず仕事一筋・・・「幼い子供が起きている時に家にいないので、父親と覚えてくれない」などという自虐自慢みたいな話も聞いたことがある。多分、欧米などでは「多年勤続」などという概念すらないだろう。会社は自分のキャリアアップのための腰掛けであって、家族のように一体感をもつ対象にはなっていないようだからである。しかしボストンサマースクールのケーススタディでは「年功序列=Seniority」もそう悪くは無い、という議論があった。能力や成果もないのに「長くいる」だけで報酬が上がるのはおかしいが、目先の利益や成果に囚われがちな単なる「成果主義」に比べ安定・終身雇用と親和性が高く、長期的にみると企業にもたらす利益は小さくない。この手の話はJapaneseがよくコメントを指名されたが、私はネームプレートに隠れていた。いやー、申し訳ないが、ぶっちゃけ自分はそんなに「会社の事業に貢献した」という自負がなく、むしろこの会社は「私に対してよく貢献してくれた・・・」

「多年」というのは具体的に社会人になるまでに過ごした年月とほぼ同じ期間であり、それに「なってから」過ごしたことになる。ほとんどの人は節目を迎えて「今思うと、あっという間だった」というが、不思議に私は「ずいぶん長い年月を過ごしたものだ」と思っている。確かに我ながら「ぼーっと」していたので、「気がついたら今になっていた」というところはあるが、1年1年にそれなりのことが一杯あり盛りだくさんだから、それなりに時間は経っているように思えるのである。異動すること10数回・・・この会社に感謝していたいのは、飽きっぽい私に退屈しない場を与え続けてくれたことだ。いかにも主体性のない「イマイチな社員」に見えるが、私は「これやって」と言われた仕事に何となく価値を見出し「まあ、悪くはないわな」と楽しむことができた。

自分に対する評価や適性の診断は自らよりも他人がした方が正しいことが多いというは経験的に分かっている。自らを省みて「こうあるべき」と正すことは悪いことではないが、「本来の自分はこうだ」とあまり規定してしまうと、えてして外部の評価はそうでないことが多く、「こんなはずではない」とギャップに苦しむことになる。これまで何度も「転職」について相談を受けたことがあるのだが、「私の能力はここでは発揮できない」と思って職を変える人は次の場でも同じギャップを感じて転職を繰り返すことが多い。そのたびに収入がアップするならよいが、その分ストレスもずいぶん感じるだろうし、あまり賢明な選択には見えないのである。比較的大きくて働ける場がたくさんあり、評価システムもしっかりしているので、その都度やる仕事など「ご縁があったのだ」と思って、適性みたいなことは完全に他人に任せてしまった方が楽ちんだし、気が付かなかった一面が時々発見できるだけかなりお得である。

「言われたことしかやらないのはダメだ」と言われるし自分もそう言ってきたが、かく言う私自身あまりアクティブに「提案」したことはないし「こういうことをやりたいんです!」と希望を主張したこともない。定期的にある自己申告的な文書の提出が一番苦手で、仮に「将来就きたい職種、職位・・・」などがあっても「別に・・・何でもやります」としか言いようがないのである。我ながら自己主張が苦手で人任せが多いが「これやって」と言われたことにまるで「天職」かのような「ご縁」を見出すのは、「言いなりになる」のとは本質的に異なり、かなりこの方面の「お気楽な資質」が必要だ。自分の意思がないわけではなく、当初は他人の意思だったのだがいつの間にか「自分の意思だったような気がしてきた」のが一言でいうこれまでの仕事スタイルだった。いつか書いたが「サッカー型よりも野球型が有利」という所以であろう。ストレスや外部の空気抵抗などを跳ね除け、みずから求める姿に邁進したわけではない分、「ぼーっとしていたら今になっていた」というのが振り返ると「あっという間ではなかった」理由かもしれない。

さて人生を100年(というのは図々しいが)とし、起承転結に分けるとする。最初の「起」にあたる四半世紀は全く我ながら見事な一本レールだった。何かに打ち込んだわけでもなく、将来「これになりたい」という意思があったわけでもないが、かと言ってやりたいことが見つからずにイライラしたこともないし、ちょっと横道に逸れたこともない。(これは「なりたきもの」編でも書いた)
次の四半世紀が今回の「多年勤続」にずばり相当するのだが、これまで書いてきた通りである。小さいながらも「組織」を率いる立場になってからは「これやって」と言われることも少なくなり、退屈してくると色々なことを「思いついた」結果、結構新しいことに変えてきた。若い人に「変えるのが仕事」とエラそうに吹き込んだのも他人から「これやって」と言われなくなってきたからである。

さて「承」の期間はそろそろ終わりを告げるとすると、次には「転」がやってくることになる。私の「座右の銘」の一つ司馬遼太郎さんの「国盗物語」にもそうあるが私は人生では「転」が最も大事だと思っている。。仕事か家庭かはたまた別のものか・・・今のところどうにもそれらしき予兆は見られないのだが、これまでを省みるとやはり相変らずぼーっとしていて、気がついたら「あれが大きな転だった」ということになりそうな気がするのである。ちなみに最後の「結」は想像もつかぬが、中学生の時に怖い担任に「お前の人生設計を言ってみろ」と指差され色々好き勝手にしゃべった挙句、「死んだら自分の碑を建てて欲しい」と結んだ。職業は「ただの会社員」・・・何ともぼーっとした記念碑になどなりそうもないビジョンだった。

メテオのシャワー

2014-11-18 23:21:24 | 出来事
「メテオ」というと昔あったパニック映画を思い出す。火星と木星軌道の間にある小惑星帯に彗星が突っ込み、その一つに衝突して破片が地球に向かってくる、というストーリーだった。この映画で「メテオ」というのはたぶん「隕石」という意味で使われていた。当時冷戦下の米ソが地球を破滅から救うため協力して核ミサイルを発射・・・なんていうベタな内容だったと思うが、後の「ディープインパクト」(競走馬じゃないよ)や「アルマゲドン」のハシリとなった作品だった。今回の話題は「メテオのシャワー」というと恐ろしい響きに聞こえるが、いわゆる「流星群」である。11月18日早朝に「しし座流星群」が出現のピークを迎えると報道されていた。今回は17日深夜から18日日の出が観測チャンスで、少し前から緩く長く活動している「おうし座流星群」とダブル天体ショーが期待できるという。

流星群は太陽系を周回する彗星等がその軌道上でまき散らしたチリなどの残骸が地球の軌道と交差する時にそれが隕石となって降ってくるようなものである。今までに何度か眺めたことはあるが、撮影してみようと思ったのは昨年「超兵器ポラリエ1号」を入手した後の「ふたご座流星群」である。日本では3大流星群というのがあり、12月のふたご座、1月のしぶんぎ座(聞いたことなかった)、そしてお盆前のペルセウス座流星群を言うそうだ。昨年末、星の綺麗な湯河原のとある公園で1時間ほど超兵器を空に向けたが、あまりの寒さに凍死しかかって(本当に眠たくなって)撤退、しぶんぎ座流星群はここ数年で最も条件がよく期待されたのだが、1月4日というのはどうにも夜半まで起きていることは難しい。ペルセウス座流星群はお盆の前で気候がよく見られる数も多いので有名だが、夏場は街も明るく、大気もくすんでいるので、観測のために「星の綺麗な山の上」などに行かなければあまり拝めない。今年は曇ってしまってダメだった。。。

さて今回のしし座流星群というのは3大群には入っていないが、2001年にものすごい数の流星が観測されたそうで、そこそこ有名らしい。テレビでも取り上げられていたから、超早起き(というより深夜起き)して撮影するつもりで装置・器具類や小物、防寒着などを用意しておいた。。経験的には流星群と言っても、写真や図でみるようにホントにシャワーのように降り注ぐわけではなく、根気よく夜空を眺め続けてたまーに運よく視界に入れば一本の光の筋が見える程度だ。輻射点というのを中心に放射状に現れるが、全天のどこから流れるか全然わからない。広角レンズでもあれば別だが普通のカメラでこれを撮影しようとすれば、空のある一部を狙い、いつどこから現れるか分からない流星が露光時間に視野に入って写り込むことを祈ってシャッターを切り続けるというまことに不毛な作業の繰り返しである。

17日23時の時点で多少の切れ目はあったものの、ほとんど全天が雲で覆われていて、「こりゃーダメかな」と一旦床に就いた。インターネットニュースでも関東エリアは曇天で観測は難しいと予報されていた。しばらく仮眠(実はほとんど寝ていないが)して念のため空を見上げたのが午前1時半頃、嬉しいことに2/3くらいは星が輝いていた。実は今回は天体追尾についてでもポラリエ1号を遥かに凌ぐ「新兵器」が我が家にやってきているのだが、スタンバイにかなりの労力を要し、曇ると全てが水の泡になりそうなので紹介は別の機会にする。建物があっても我が家の庭からそこそこ見渡せるが、何せ山の上とは異なり、余計な光が多い。特にお隣の勝手口についた夜間灯は煌々と白光を発しており、どの方角にレンズを向けても入ってきてしまう。通りの街灯も反対側の路地側の街灯も若干樹木が遮ってくれるが油断ならない。極軸望遠鏡から北極星を捉えることができ、なおかつ建物や隣家の街灯が邪魔しな い・・・そして何よりも今回さらにポラリエ1号の設置場所を決めるのに困難を極めたのは「雲の少ないところにレンズを向けられる。」という条件だった。

あちこち動き回ったが、比較的広いはずの我が庭なのに全てを満足する場所は中々見つからなかった。散々あれこれ考えて、私は観測にあたりあらゆる邪魔となっている夜間灯を遮ってしまうことにした。と言っても消したりすることはできないから、物置にある大きなガーデンパラソルを引っ張り出してきて、シェッドと物置の間にふわーっと立てかけたのだ。他人の敷地に入ってはいけないから、角度を調整しうまく光を遮るようにし、ようやく庭の中央部を「真っ暗」にすることができた。北東方面は雲が多かったが辛うじて北極星をとらえ、ポラリエ1号をセットしたのが午前2時 過ぎだった。ポラリエには「自由雲台」がついているから比較的どの方角にも203号を向けることができる。雲が多いので比較的星が綺麗に見え、何が写っているか分かりやすい「オリオン座」方面にレンズを向けてバルブ機能シャッターを押した。

何せ相手は星だし、視野に流星が飛び込んでくるのが狙いだから、露光時間は長いほどよいのだが、5分以上露出すると例の夜間灯の光が空にも害をなし、画面は真っ白になってしまう・・・まったくウッドデッキの隙間からすら生え上る雑草のような光だ。(って人んちの光の悪口を言ってはいけないな)露光時間はせいぜい3分、しかも時々雲が襲ってくると切れ目のあるところに向けて方角を変えてシャッターを押してぼーっと空を眺める。この世にも退屈な作業を1時間繰り返したが、流星どころかオリオン座すら闇の雲に覆われつつあり一旦すっかり見えなくなってしまった・・・風はないがかなり手足が寒くなってきたので、この機会に私は台所で妻の作ったトン汁を温め直し暖を取ることにした。仲間同士での星空観察会やアウトドアな外出ならまだしも、誰もいない庭に一人ポツンと折り畳みチェアに座ってトン汁をすするのは侘しいものだ。。。(まあ、暖かくて美味かったが)

比較的雲の動きが早いのか、再びオリオン座が現れまた撮影を開始した。シャッターを切ること数回目で三ツ星の右下くらいに「すーっ」と綺麗な光の矢が流れた。おーっついにその姿を捉えたか?!しかし肉眼ではっきり見えたが、ほんの一瞬の短い光でモニター画面では写っているのかどうかも判別できないほどだ。しかしはっきりとこの目で見ることはできた。やはり流星群は活動しているのだ。(当たり前か?!)この辺りは釣り人の心境に近いものがある。1匹目が釣れるまで「そこに魚がいるかどうか分からない」不安がつきまとうのである。どんなサイズでもいいから1匹でも姿を拝めると「なぁーんだ、ちゃんといるじゃねえか」とホッと胸を撫で下ろす。つまりいるのかいないのか、分からないのに糸を垂れる(神が見たら笑っちゃうような)空虚な時間を過ごしている(かもしれない)のが嫌なのだ。

    

一たび流星を目の当りにすると「坊主」の恐怖感はなくなるが、次は別のストレスが襲ってくる。露光を終えて画像を確認したり、消去したりピントを確認したりする「インターバル」の時間に次のがやってきてしまったら、という焦燥感である。この雲の量と邪魔な光からしてこの場から観測できるのはざっと見積もって1時間にせいぜい数個、目の前をさーっと流れてしまい、「もう少しシャッターを開いていれば・・・」という事態になると、尺超えのメジナと同じレベルで「逃した星」は大きい。しかしさらに1時間しても流星は現れず、またもほぼ全天が雲で覆われてしまった・・・私はひとまず部屋に入り、ネットのライブ中継を探してみた。五島列島や宮崎など星の綺麗なところで画像が映し出されたいたがやはりあちらも雲が多いようだ。午前3時を回りしばらくすると、また南側半球くらいが晴れ渡ってきた。オリオン座は結構西側に傾き、近所の建物の屋根が入ってしまうくらいになったので、今度は全天でどの星よりも輝く木星を標的にすることにした。写り込んだ時に目印の星座や星があればどこに流れたか分かるのだが、あいにく雲もあってちょうどいい星座がなかったのである。

ポラリエ1号の雲台の角度を変え、かなり苦しいバランスで203号を装着し直すと南西方角にかなり明るい光の矢が真下に向けて「しょーっ」と走った。ううう、これはショックだ。さっきと同じ角度で撮影していれば・・・雲の中とは言え、40センチオーバーのメジナを逃した気分である。するとさら西側に短い光が「さーっ」と走った。(あれは視野角には入らないな)確か早朝になるほど極大に近づくと聞いていたがもしかして入れ食いタイム?!今、光の矢が走ったところは雲の切れ間になっていて、星も綺麗に瞬いており、思わず203号をそちらの方角に向けたくなったが「いやいや、そういじねえ」と辛うじて考え直した。あるポイントに群れでいてたくさん釣れる魚とは異なり、流星の出現ポイントは完全にランダムだ。確率論的には同じなのだが、同じ方角にはしばらく来ないような気がする・・・

粘り強く木星に向けてシャッターを切り続けること数十分、雲がまたなくなって綺麗な星空が出てきたと思ったら、木星のすぐわきからゆっくり明るい光が移動している。初めは航空機かと思ったが、チカチカ点滅しないし動きも飛行機よりは速い。そしてゆっくり消えていった。。。これまで見た流星に比べると段違いのノロさだが、もしかしてあれは「火球?!」以前テレビで報道された「火の玉」のようなすごい物ではないが、ハワイ島で見た「火球」のさらにゆっくりした動きに近かった。少し早いが露光を切り上げ、モニタ画面を見たらちょっと下がちょん切れてしまったが、明るい光の矢が・・・やったー!ついに流星の姿を収めたのだった。そらからしばらくして天頂付近に細い光が、ちょろっと流れ、気が付いたら東の空から細い月が上ってきていた。月というのは細くても相当な光をもたらす。魚釣りで言う「どうもこの辺では食ってないんだけど・・・」という北西の方角で粘ってみたが、結局流星は現れなかった。

    

パソコンに画像を取り込み、一枚一枚調べてみると、最初の細いヤツは辛うじて「線の光」になって写っていた。小さいが火球と思われる明るい光の矢は写っていたのだが、あれれっ?何か星がピンボケしてしまっているぞ。おかしいな、無限遠に合わせているはずなのに・・・どうも203号を向ける方角をあれこれ変えているうちにレンズ部に触ってしまったようなのだ。何せ1回1回ピントを合わせることなどできないから、油断していたのである。。。

いやあ、とにかく星空を写し出すのは難しいものだ。まだまだ修行がいるな。しかしほぼ一晩中粘って、肉眼で確認したのが4つ、その二つを画像に収められたのだから、ポイントとしてはまずまずなのだろう。次は来月半ばのふたご座流星群だ。一晩に見られる流星の数が最大なのが期待だが、夜半から下弦の月が上ってくるらしい。もう一度同じ作戦で庭から観測するとすれば、いよいよ最新兵器の登場となるだろう。ちなみに今夜も2番目のチャンスではあるのだが、昨晩同様雲がやたら多く、2日続きの徹夜はもう無理なのでこの記事を執筆することにしたのである。

どこまで湘南?!

2014-11-14 22:52:55 | 出来事
たまーに出ては消えていく小さな論争だった。「湘南はどこまでか?」
記憶にあるのは「湘南ナンバー」を設けるときである。確かに横浜、川崎以外は広大なエリアが「相模」ナンバーで「すもう」と呼ばれ続けていたのだが、「湘南」となったとたんに有名になった。かなり政治の道具にされたようで、選挙演説やポスターで盛んにアピールされて、いつの間にか「んっ?」と言うようなエリアまでナンバーエリアになってしまった。JR平塚駅も一時「湘南平塚」に改名しようという運動を垂れ幕で見たことがあるが、たぶん排他的なこだわりの強い湘南ファン(そんなのいるか?!)に寄ってたかって潰されてしまったのかもしれない。同様に「湘南市」を作ろうという動きもあったようだが、これまたいつの間にか消え去ってしまった。あまり主観で言うのはいけないが、合併構想の対象となった自治体を見ると「こりゃー、まとまらんだろうな」と個人的には頷ける。
  
  

今回、話題になったきっかけは神奈川県知事が進める観光プロジェクトらしい。さがみ縦貫道路の完成や2020東京オリンピックに向けて神奈川の海の魅力を世界に発信するというもので、地元民としては晴れまがしいことだが、このプロジェクトは湯河原から三浦までの相模湾沿岸を「湘南」と呼ぶことを宣言してしまったらしい。つまり神奈川県の東京湾以外の海岸はすべて「湘南」と言ってしまったのだ。これは大胆だ・・・早速ツイッターやフェイスブックを中心に異論が噴出、「三浦や小田原は違う」という意見が多かったそうだ。中学の同級生女子もこの記事を紹介したのだが、茅ヶ崎出身で今は欧州在住の彼女の最初のコメントは「茅ヶ崎は絶対に外れることがないから余裕で傍観していられる(笑)」

  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141112-00000016-wordleaf-soci

知らない人ばかりだが、これに元/現住民がたくさん食いついた。
何と「湘南発祥の地」碑はこの前寝過ごして行き着いてしまった「大磯」にあるというのだ。彼女(の母)の説は(鎌倉)由比ヶ浜、材木座など浜を示す名前のないぱっとしないところ(おいおい!)が湘南だから、大磯から片瀬まで。これに「甘い」と異を唱えた自称ピューリタンの男子が現れた。大正天皇の海水浴のために建てた?葉山御用邸が起源、そして太陽族のイメージもあって彼の説は葉山から西へ。古都鎌倉は格上としてエリア的に間が飛ぶことを問題視するも、鵠沼にはサナトリウムがあったことで御用邸の同コンセプトであり現在的には湘南の中心、茅ヶ崎は猟師町しか無かったから却下。ううう。。。確かに「何も無かった」我が故郷は却下か・・・しかし「湘南」の由来は中国湖南省の「河の南」という意味と聞いたことがあるから、サナトリウム縛りというのは少し無理があるし、鵠沼がいきなり現在は「湘南の中心」と言い放ってしまっているのもあまり論理的ではない。

またある男子は正月の箱根駅伝で二宮に入ると「湘南二宮箱根駅伝を応援する会」という横断幕が映されると家族で「それは違うだろう」と話していたそうだから、二宮は入らない?!彼の定義では町名に鵠沼が付くエリアということだ。(これだと結構狭いぞ)個人の拡大解釈によるもので行政区分とは関係ないというのも彼の意見。同じ藤沢市内でも「ギジュク」さんの湘南藤沢キャンパスはちょっと違うとも主張していた。次の女子はドライブ好きなのか、湘南ナンバーに「箱根」が入っているのに違和感があるとし、さりげなくご自身を茅ヶ崎の「湘南ギャル」とアピールしていた。が、さっきのピューリタンに茅ヶ崎は「猟師町」と再び鉄槌をくだされた。今でこそ私がこの出身地をカミングアウトすると「湘南ボーイ」という羨望の名称が出てくるが、どう考えても昔は漁師の町以外の何物もなかった。何せSMAPの中居さんも時々普通に使う「だべ言葉」が漁師の言葉とされているようだからである。

今でこそ「潮の香り」と表現するが、子供の頃は「海の匂い」だった。潮の香りと海の匂いは違う。鵠沼海岸駅に降り立つとふわーっと感じるしょっぱい系の香が潮だが、「海の匂い」とはずばり魚料理翌日の生ゴミである。昔は海岸に行くと結構多くの漁船が陸揚げされており、どこもかしこも生ゴミの匂いがした。正しく言うと漁で使用する「網」の匂いだったのである。今では漁港の匂いとなったが、当時は「海の匂い」だったのである。

「何もない」というのもその通りだった。江ノ島、鎌倉、御用邸、大磯別荘地・・・茅ヶ崎には観光資源となるような名所が何もない。。。子供の頃、ちょっとでも知っている土地がテレビ番組に出ると大喜びしたものだが、仮面ライダーXのクルーザー開発基地が烏帽子岩の地下にあり、海岸でロケが行われるまで故郷周辺をテレビで見たことなどただの一度もなかった。何もないのだから仕方がない。。。むしろ加山雄三さんや桑田佳祐さん(徳光さんもいるが)ゆかりというきっかけだけでここまで有名になれるのがすごいところではなかろうか。

そしたら「茅ヶ崎にもサナトリウムはある!」と主張する女子が現れた。確かにマイナーなのだが、結核の療養所として南湖院というのがあったのは知っていた。彼女も中学同窓だがラチエン通り沿いには「いくつか異国のお方の別荘もあった」とこれまた湘南育ちをアピール・・・その他「二宮は西湘」だとか「寒川異論なし」に対し「1国まで」とくると「用田、遠藤、長後もあたりも仲間に・・・」などと諸説(と言うより自分が湘南を名乗りたい?!)飛び交った。中学同窓生とかその人の高校同窓生くらいなのか、対象とするエリアや地名がやたらローカルで狭い。。。住んだことや通学、通勤など日常生活で縁のなかった人はどこの何なのかさっぱり分からぬだろう。ちなみに元となったニュース記事でネット上のアンケートでは「茅ヶ崎〜葉山」が上位で34.9%、「大磯〜葉山」が26.2%、「藤沢・茅ヶ崎・寒川」が14.2%、それ以外は軒並み支持率が低くなったようだ。

明らかに多分な「おべっか」が入っていると思うが、先にも書いた通り出身地をカミングした時に「湘南ボーイ」と言われると悪い気はしないが、自分が「その通りだ」と思ったことは一度もない。エリアどころかものすごく個人レベルで「昔、湘南ボーイやってました」という初老の白髭オヤジサーファーはいるが、我々の大多数は「サーフィンとバンドをやっている者は不良」であり、海に用があるのは投げ釣りと花火大会のみ(稀に地引網やデートもある)、その匂いと言ったら漁師網の匂いである。今、このエリアに住んでいて「湘南ライフを謳歌している若者」は何故か湘南ボーイとは呼ばれないようだ。つまりこの名称は歴史的にはほとんど存在し得ないものだと思うのだ。だから呼ばれても全然ピンと来ないのである。

さて「どこからどこまでが湘南か?」という本題だが、正直生まれ育ってしまうとどこからどこまでなどと考えたこともないのである。「違う」と言われると何となく寂しいが、元々住んでた人はエリア名称そのものなどにあまり思い入れはないものである。(湘南ギャルとかいう勲章は別だろうが)「論理的に説明しろ」と言われたら、「どんずばっぽい名前をもつ学校がチャリ通圏内にあった」というしかない。。。(あれもちょっと言ったもん勝ちってところがあるが)  

  

最初の女子のように「絶対外れないから余裕で傍観」するようだが、どのくらい上空からの目線で見るかによってそのスケールが当然異なってよいと思うのだ。龍口寺の仏舎利だったら近隣海岸しか見えないし、江ノ島灯台の高さだったら大体今アンケート上位の範囲だろうし、横須賀から厚木基地に向かうch-47の高さだったら3市2町くらいは眺められるだろう。福岡へ向かう航空機から眺めれば相模湾全貌と神奈川県南半分くらいいけるだろう。
上空からの見る人の目線が近隣市内レベル(生活圏)、県内レベル(通勤圏)、天気予報レベル(レジャー圏)、国内レベル(出張・旅行圏)、国際レベルであればあるほど広くなる。「神奈川の県庁所在地ってどこだっけ?」という人はたぶん相模湾は全部湘南だと言っても抵抗ないだろう。まして「海の魅力を世界に発信する」プロジェクトなんだから、硬いこと言わずに「神奈川の海全部湘南です。」と言ってもいいんじゃないかと思う。

面白いのは一般論の定義で言えばあまりこだわりや思い入れはないのだが、「生まれ、育ち、住む」という話になると突如として自ら決めた範囲が顔をもたげ、それに外れる人が「湘南です」というと「それは違うだろ!」とブザーを鳴らすところだ。30近いコメントのやりとりはこの辺の思いが分かってすごく楽しかった。一応、私もコメントとして「○○町ってOK?」と恐る恐る確認しておいた。何か流れでは茅ヶ崎に分が悪いような雰囲気だったのである。
度々書くが、出身地を応えて「いいところですねえ」と言われるのは無邪気に嬉しい。でも全ての人にこの後「でも昔はホーントに何もなかったんですよ」と苦笑いして返す。このフレーズパターンを知らず知らず使っている人は少なくないはずである。
(ちなみに写真はあまり意味がないのでスルーしてね)

間違い探しのサイゼリスト

2014-11-10 06:25:58 | ホビー
家族が揃う休日は比較的外食することが多い。我が家において片方でも酒を飲まぬディナーはあり得ず、息子は「食事のためだけ」に公共機関などで移動することを面倒くさがるので、自宅から出動する際は意外に行動半径が小さくせいぜいチャリで行ける距離に留まる。(あまりにすごし過ぎるとチャリも危ない)バランスや気分などによって和洋中それぞれ行きつけの店はそこそこあるが、ぶっちゃけ安易にファミレスで過ごすこともある。

和食系は近所の「しらすやガーデン」と鵠沼海岸の「ワランカ」以外は駅周辺集中するので、それぞれ外出帰りに合流することも多い。息子甘辛もサッカー練習帰り、塾帰りなどで合流するが、居酒屋に先に着いても平気で一人で待っているところがすごい。ある時(確か花火大会の帰りだったか?)、我々が後から店にきた「ワランカ」の3人カウンターの真ん中に座り、もろきゅうと馬刺しをつまみにビールジョッキに氷水を入れて飲んでいた時は仰天した。中華はちょっとした飯店もあるが、割と近くにバーミヤンがあるので、大体そちらに流れてしまう。

実は未成年がいる家族はいわゆる「居酒屋」よりも「ファミレス」の方が圧倒的に気楽でお得である。(タバコの煙もないし)バーミヤンなどでは豊富なつまみに焼酎ボトルを入れるとセルフで氷水は無料だし、デニーズや華屋与兵衛でも食事兼晩酌とするとかえって居酒屋よりもリーズナブルで長居してもクリーンに飲める。(ただしカロリーはとんでもないから注意)これらに「焼肉さかい」とレッドロブスターを加えればほぼ我が家の行く店は網羅されてしまう。ちょっと前までは驚くべきことに私は自分のチャリを持っていなかった(錆びついた桜クルーザー号では重すぎて海岸までしか行けない)ので、先日大転倒して怪我をしたスケートボードで行くことが多かった。帰りは飲み方によっては息子にスケボーを代わってもらうこともあった
ただ洋食には結構お気に入りのお店が数軒あり、中にはすぐにとれない店もあるが気分によってランキングがある。上位はたぶん昔腰越にあった「ロアジ」である。数年前江ノ島すばな通りに移転したが、チーズとワインの目利きがよく、店主が大の釣り好きというのもあって魚料理の塩加減が絶妙で素晴らしく美味い。温野菜が美味いのも妻は気に入っているが、洋食では普通肉しか食べない私もこの店では魚を注文する。ただいつも混んでいて、結構前から予約しないと席が取れないから、「今晩ちょっと行くべーか」というわけには中々いかない。

我が家で次のランキングは鵠沼海岸の「バルケッタ」であろう。同じ通り沿いの「オステリア・バルカ」という店が移ったのだが、お店のご夫婦が息子甘辛が小さい頃からよく覚えていてくれて、色々サービスしてくれる。この店もイタリアンであまり癖っ気のない上品な味で、息子は生ハム、とカルパッチョにボンゴレビアンコを注文し、私は好物のトリッパを必ず頼む。妻はその日のお勧めメニューにバーニアカウダをよく頼んでいる。私の退院(とほほ・・・)や息子の合格を聞くと色々とお祝いにサービスしてくれて、味もよい上にホスピタリティ溢れるお店なので、気分がマイナスになった時に晴らすために訪れることもある。この店も人気が高く、その日に電話して席が取れるのは半々くらいだが、ロアジよりも敷居が低く訪れる頻度も少し高い。

その次のランキングでいうとやはり鵠沼式バルをうたっている「海岸5丁目」である。このあたりになると大抵いつ訪れても席につけるし、和洋折衷の親しみやすいメニューとなっている。ちょっと庶民向け?のしょっぱ系だが、酒も料理も進むところで、何よりも地元の網元と提携して「生シラス」を出すところが魅力だ。時々「驚くほど美人の店員がいる」というのも息子と意見が一致しているところである。「ウミゴでいいんじゃね?」というノリで「バルケッタ」が満席だった時も含めて、ここに行く頻度は結構高い。先の2軒よりも北関東のゲテモノ風味が入っているが、ボリュームと濃い味から息子は気に入っているらしい。

そして鵠沼伏見稲荷神社の近くにもう一つウミゴ並みに手頃に訪れる洋食屋があった。名前を確か「サバラン」と言った。少し小奇麗な「街のレストラン」という感じで小さいながらもテラスで食事ができるところで、この地に引っ越してきて何度か訪れたが、いつも空いていていつの間にか潰れてしまった。同じ場所にイベリコ豚専門の「おんどる」という店ができ、中々興味深かったのだがいつか行こうと思って先延ばししているうちにやっぱり潰れてしまった。まったく同じ建物に次に入ったのは「999食堂」(サンキュー食堂)と言い、銀河鉄道とは全然関係ないが、これまでの店よりも庶民的で値段もどれも1000円くらい、パスタがメインで息子甘辛はここのボンゴレビアンコが大好きで「お替り」までしていた。他にも肉料理とかシェフこだわりの「下関焼きカレー」などユニークなメニューもあり、どちらかというとランチ向けに見えたがディナーに何度か訪れたがまたまた潰れてしまった。(実は後から知るのだが、辻堂サーファ通り沿いに移転していたのである)「ここの店、悪くねえのに長続きしねえなあ。呪われてるんじゃねえか?!」分かりやすい味が好きだった甘辛も首を傾げていた。この店にはまだテナントが入っていない。。。

さて「近所のお店紹介」みたいになっていたが、ここで王者が登場する。我が家にとって最も親しみ深い「サイゼリヤ」である。駅周辺にも商業モール、住宅地にもあり、息子が生まれて後も何回ともなく訪れたお馴染みの店である。イタリアンファミレスとしては不動の地位を得たサイゼリヤだが、店舗については意外に浮き沈みがあり、甘辛の通った幼稚園近くの店も、我が家から数百メートルの134号沿いの店も、江ノ島交差点にあった店も撤退してしまった。その割には湘南モールにも辻堂駅にも以前住んでいた社宅近くにも新店舗ができ我が家からはチャリで行ける距離だ。手軽で味もよくビールもワインもすこぶる安い。(500mlのデカンタが399円!)たらふく行きたいガブ飲みモードの時は迷わずサイゼである。以前、甘辛の幼稚園近くの店には我が家専用BOX席があった。メガネの店長が我々が現れると迷わず店の隅にある静かな席に案内してくれるのである。「1ヶ月に1度くらい、小さな子供を連れてきちゃあ、浴びるほど飲んで帰る家族」というラベルだったろう。。。

そして我が家が「飲み中心」以外で必ず出像するのが「まちがいさがし」新作が発表された時である。7,8年前くらいからだろうか、「キッズメニュー」に子供向けの間違いさがしが登場した。小さな甘辛と一緒に楽しく探せたのではじめは優しかったのだと思う。たぶん全部のシリーズに取り掛かっているが、途中から大人が本気で睨みつけても全問は分からないほど難問が含まれるようになった。特にちょっとした窓や穴、模様の大きさ、形の違いが精緻を極め、それこそ最後の一つ二つは虫眼鏡でも使わないと分からないくらい難解なものに発展していった。確か社宅の近くの店舗だったが、息子甘辛と二人で1時間以上睨み続けずらりと並んだ牛の模様の違いを見つけ出した時は思わず「やったあ!」と叫んでしまい、店中の注目を浴びたこともあったが、その次の回か前の回だったか家族3人でも最後の一つを探し出すことができず、会計の際に「あのーぅ、まことに申し訳ないんですが、最後の1個を・・・・」とテーブルからKIZメニューをレジに持って行き、屈辱のギブアップをしたことがある。店員は笑って一緒に見てくれたが、8つ9つ目までいった時「あれっ?もう一つはなんだったかしら・・・」と考え込んでしまった。

さて、今回は我が家よりも先に親愛なる三河の小夏師匠が挑戦したらしい。今度もものすごく手強くて、師匠も8つまでで断念されたそうだ。ここは間違いさがし協会会員1号として仇をとらねば・・・「間違いさがし最新作手強いらしいぜ。今度の休みに行こう」と言いながら待ちきれず、翌々日には妻と入店していた。「とりビーあとサラ」、ハンバーグステーキをつまみにどかんとワインを注文し、二人で睨みつけた。実はこれまで二桁回数くらいやってきたので、どのあたりに注意が必要か経験的に狙いどころが分かっていて、ものの15分で8個までは判明した。(同じかどうかは分からぬが、ここまでは師匠もこれたんだな)ちょうど部活帰りの甘辛が合流して、これまで我々の見つけた答えを聞かずに瞬く間に8個見つけ出し、9個目もすぐに発見した。しかし最後の一つがどうしても見つからず、2本目のワインを空けながら我々は焦り出した。「いい加減に見つけないと時間がたつほど全問正解が苦しくなるぞ。何せオレたちは飲んじゃうんだからな」

私はこれまでの9個を忘れないように紙ナフキンに書き留めた。成長期ど真ん中でハンバーグステーキ、ペペロンチーノ、フォッカチオ、エスカルゴのマイブームカルテットを頬張りながら甘辛も真剣に探し出した。一人1000円ずつ出し、見つけ出した者が総取りすることにしてしばらくすると・・・「んっ?ちょっと貸してくれ」左右を注意深く眺めていた甘辛は「やっぱりそうだ!あった!」3本目に差し掛かっていた我々は「えーっ、ヒントくれよぉ!」と半分自力解決は諦めていた。「上半分!はい、100円ね」なんとアバウトなヒントだ・・・「今回、縁取りが関係するような気ぃしたんだよな。」という息子のつぶやきに「あーっ、ちょっと貸して!」妻は改めてシニアグラスの奥から左右見比べたあげく・・・「わかった!こりゃー、すごいよ。印刷ミスかと思った・・・」なんと、キミも「ヘウレーカ」かよ。。。
アップダウンクイズで言うところの第2ヒントもダメ、「ゲストの方の横顔もヒントの一つ」というゴンドラが一段しか上がらない意味のない第3ヒントもダメ・・・ついに「この中だよ」という小さいゾーンを指差されてやっと閃いた。。。
うーむ。。。二人だけだとワイン何本空けるか分からないほど容赦ない難しさだった。敵ながら天晴れともいうべきだ。

  

そもそも、子供メニューのおまけ的な立ち位置なのに、これほどまでに難解で挑戦的なものになっているのはなぜか?と思いながらKIZメニューブックをしげしげと眺めている時に突然電撃のように閃いたのである!(神は私を見捨ててはいなかった)もしかすると鍛錬していけば、一瞬にしてこの難解極まる間違いさがしをクリアできるかもしれないある方法を思いついたのである。3本目を空けて多少絵や文字が滲んで見えたことがヒントになった。
もうバレバレだが一応次回リベンジの時までは黙っておくことにしよう。

    

信州の兄弟&従兄弟会

2014-11-07 05:55:33 | 旅行お出かけ
1年半ほど前だが、母親の祝寿のために兄弟・従兄弟を集めて横浜港からクルージングを催したことがあった。この方面の企画に絶大な手腕をみせる妻の発案で、当日も見事な仕切りを見せて参加者を感心させたものだ。母親は6人兄弟姉妹の一番上だから、その息子である私も従兄弟連中の中では一番年上の方だ。叔父叔母は大体故郷の富山付近か首都圏に居住しており、横浜なら交通の便はまずまずだし、この機会に多少の観光もできる。全員、私達の披露宴に足を運んでくれたから、かの地もまったく不案内というわけではない。出席案内を出したほぼ全員がそれぞれ家族連れでありがたくも参加してくれ、当日は快晴のコンディションで近況報告もすることができた。記念行事なので部活を休ませて出席した息子甘辛だけは、同年代の子供が全くおらず、かなりの所在なさに閉口したらしい。次年は祝寿の年とはならないようだが、富山の祖父母は亡くなり、中々こういう機会がなくなったので、兄弟・従兄弟会として集まれるよう次回の幹事を指名しておいた。

従兄弟の中でもメールアドレスだけ分かって「どこで何をしているか不明」の人もいたので、会場をどこにするか悩んだだろうが、半年前くらいにやってきた案内を見ると「紅葉を楽しみに信州駒ヶ根高原で」ということだった。この時期中々とれない国民宿舎を予約し、四季折々の自然を楽しめしかも天然温泉である。ただ一泊二日の旅行会になっているから、部活が中高生で部活が本格化している子供は参加できず、その子の面倒を見るために家族半分だけというところもあった。我が家も甘辛は新人戦を前にして試合を休むわけにはいかなくなり、幹事のお嬢さんも公式戦で来られなくなった。当初は首都圏組は新宿に集合して列車の旅で行こうか、という話もあったが特急一本ではなく2回も乗り換えなければならず、どうにも不便なので我が家は母と二人「赤いライオン号」で向かうことにした。中央道は諏訪より先に行ったことがなかったのだが、ICからはすぐらしい。

全く足を運んだことのないエリアで調べてみると周辺の観光地としては「千畳敷カール」というトレッキングや登山者には有名な場所があった。またいかにも「街興し」っぽいが周辺エリアでは「駒ヶ根ソースかつ丼」というのがあり同会の加盟店が数十店舗、駒ヶ根ソースかつ丼の日(4月27日)があり、駒ヶ根ソースかつ丼物語という書籍もあり、祭りまであるそうだ。長野県でかつ丼と言えば東京の「卵とじ」ではなく、キャベ千の上にトンカツが乗っているスタイルが主流だが、これをベースに肉の種類や量、揚げ方やキャベツの載せ方、ソースなど細かく規定されているようだ。キャベツ以外の野菜を載せてもいけないらしい。実は以前勤務していたグンマの桐生市でもソースかつ丼で有名な店舗があり、八兵衛(懐かしい〜)に「2番目に美味しい店」に連れて行ってもらったことがあるが、要するに御飯の上にソースかつが載っているだけでキャベツがないバージョンで味は良かったが正直「?」という感想だった。

また「秘密のケンミンSHOW」で取り上げられたという「タルタルソースかつ丼」に至っては、はっきり言って「ゲテモノ」でスティーブなども「これをグンマ県民が好んで食べるなんてねー!」と首を傾げていた。そんなこともあり、ソースかつ丼なるメニューにはあまり期待していない私は、母親も高齢だからかつ丼なんか食わないかと思ったが、聞いてみると「話のタネに行ってみよう」と言う。(この辺は血筋かもしれない。)私は少し朝早目に出発し、最も有名な店で昼食をとって、そのまま千畳敷カールを訪れてみることにした。翌日にしてしまうと深酒のため体調不良の可能性が高かったからである。

中央自動車道は八王子から下り線が事故のため渋滞ということだったので、できたばかりの圏央道は使わずに相模湖インターから高速にのった。天気は素晴らしく途中、少し雪をかぶった富士山を眺めながら一気に駒ヶ根ICまで駆け抜けた。11時半頃に着いてそのまま場所を確認し口コミで一番評判の「明治亭」の中央アルプス登山口店の暖簾をくぐる。昼前になるとツアー客で行列ができるほどらしいが、運よくすんなり席に着くことができた。定番の信州豚ソースかつ丼(母はごはんミニ)が出てくると、ちょっと驚いた。蓋がほぼ垂直に起き上ってしまっている!「これじゃあ、蓋の意味ないじゃん・・・」と苦笑したが、ブ厚いロースかつとその下の山のようなキャベ千を食べるには部分的に、一旦ひっくり返した蓋に退避させないと崩れ落ちてしまうのである。(まるで埜庵のかき氷のようだ)カツは柔らかくジューシーで店特製ソースはちょっと甘めだがあっさりで、母親も喜んで食べていた。

      

明治亭のすぐそばのバスセンターから一般車は通行禁止のルートを往復バスで35分でロープウェイ「しらび平駅」まで上る。その先、標高差1000メートルを7分半で一気に上り「千畳敷駅」に到着する。この駅は日本一高い駅で標高2612メートルにある。1時間もかけずに2000メートル近く上るので「高山病」にならないか不安だったが、バスには結構お年寄りも交じっていたし、何よりも天気が素晴らしかったので二人で行ってみることにした。バスの窓からもところどころ紅葉しているのがわかる。ちょうど今、観光シーズンなのかバスやロープウェイも臨時便が出ていた。千畳敷カールとは数万年前の氷河期の氷が岩肌を削り取ることでできた窪地だそうだ。高山植物が多く見られる遊歩道を1周すると約45分の行程だが、傾斜や岩がごろごろしている部分も多いので母親は途中まで歩き頂上駅に戻って行った。私は軽装だったがほとんどジョギングスピードで岩の山道を滑るように走り、20分程度で1周して戻った。途中富士山が頭だけ出している。

            

実は千畳敷駅には宿泊施設があり、本格登山で頂上で富士山からのご来光も臨めるそうだ。「あれ?あんなところに人がいるぞ」超兵器203号を望遠レンズにしてのぞくと、頂上と思われる断崖絶壁のてっぺんに人影が動いている。たぶん左側から険しい岩の道を登って行くんだろうが、ただの崖っぷちで安全柵などは見られない。恐ろしい光景だった。我々はしばらく360度の景色を楽しみ、下りのロープウェイで千畳敷カールを後にした。宿舎はバスセンターから数分、目の前に少し色づいた草木に囲まれた大沼湖があり、静かで爽やかなところだった。歩いて1周10分くらいの大きさで散歩にはちょうどよかったが、羽虫が多いのが難点だ。

        

          

部屋に入って早速温泉風呂を堪能しビールを飲んでいたら、母の兄弟や私の従兄弟たちも顔を出しはじめ、家族を連れてなぜか集まってきた。いつの間にかフルメンバーで部屋は満杯、日本酒を持ち込んでくる家族もあって「単なる助走」が本宴会のようになってしまい、皆再会を喜んだのである。改めて宴会場でめいめい「どこで何をしているか」近況報告を済ませると小さな子供達は早速お友達になってその辺を走り回る。最近のトピックス話が一段落すると大体あの面々の話題は我々が子供の頃の話と30年以上前に祖父が亡くなってから我が一族の頂点に君臨していた(つまり母親たち兄弟の母)「ばあちゃん」の話題である。

当時、一つずつくらい違いでずらりと並んだ我々従兄弟たちは一番上が富山で医師になっていて子供の頃から「優等生」の見本のような人だった。夏休みや何かの行事で集まると何となく「太平洋派」と「富山派」があり、彼は富山派のリーダーで太平洋派の中心は他ならぬ私である。子供の頃の我々にとってはお膝元の富山にいる者たちの方が接する機会が多いから、「ばあちゃん」には可愛がられているように見えた。
「Kオ君たちは何かにつけて大事にされてたよな。オレは運動なら万能で勉強もそこそこできたのに、いつもばあちゃんに怒られてたぞ」
「そりゃー太郎くん、掃除機で水槽の金魚吸い取ったりすりゃー怒られるわな。お店のレジもいたずらして開かなくしちゃったろ」
「そうそう、ばあちゃんは『茅ヶ崎のタロウが来ると必ず何か壊してくっちゃ』と嘆いてたぞ・・・」
「お前だってパンクやってたじゃんか。ばあちゃんが茅ヶ崎の実家に泊まりに来たとき、『ノリが変なになっちゃった』とこぼしてたぜ」
(実は彼女は「あんなもんは『はしか』みたいなもんや」と気にも留めていなかったのが偉大なのだが、それは黙っていた。)

次回は話題になった「ノリ」君が幹事をすることになり、叔父叔母、従兄弟入り乱れて盛り上がった後、再び部屋飲みに戻ったが、長距離ドライブの疲れもあって予想通り撃沈してしまった。信州の素晴らしい星空が見られたそうで、超兵器ポラリエ1号も持参していたのに残念なことだ。その週は広島出張もあってさすがに疲れが蓄積しており、翌日は朝食を摂って朝風呂を浴びた後、記念撮影して解散となった。私達は早太郎(はやたろうと読む)温泉の名前の由来となった霊犬「早太郎」を祀る光前寺に詣り、露天風呂「こまくさの湯」で再び温泉に浸かった。帰りのルートに近いからまだ紅葉には早かった「高遠城跡」を訪れて帰路についた。次回開催地は富山になると思われるが一時はパンクヘアーにもなった「ノリ」君がどんな演出を考えるかが楽しみである。

      

   

          

てつのくじらへつなぐ

2014-11-03 21:01:58 | 出来事
大和ミュージアムを出ると、すぐ横にド迫力の潜水艦が見える。「てつのくじら館」というパンフレットだが、正しくは艦の向こう側に建物がある「海上自衛隊呉資料館」である。実は前編で一緒にこのレポートも載せるつもりだったが、「大和」のことを書いているうちに字数が嵩んでしまい、後編に分割することにしたのである。遠く港湾に自衛艦らしき艦艇が見える。戦艦「大和」がもたらした「進歩」がどのように現れているか。まさか意識してはいないだろうが、ほぼ併設されているような位置にあることから無関係ではあるまい。自衛隊の持つ公的施設で見学は無料だから、エントランスも何となく地味で商売っ気はあまり感じられない。何せ潜水艦の腹の下を潜って扉を開けるのである。

        

建物は3階建てになっていて1階は海上自衛隊の歴史が展示されている。呉というのは海軍工廠があったくらいだから、自衛隊との関わりも深く、今も艦艇が停泊し少し離れた港湾になるが、日本で唯一現役の潜水艦の停泊姿を拝めるところだそうだ。2階からが興味深い。戦後数年たって発足した海上自衛隊の最初の主な任務は機雷を除去する「掃海」作業だったそうなのだ。戦争末期に米軍は多数の機雷を日本近海に敷設しており、これらを除去しなければ復興に必要な物資の海上輸送なども恐ろしくてできない。今まであまり考えてなかったが、その作業は危険を極めそれこそ生身の人間が手作業で処理することも多かったという。航路啓開はまさしく復興を影から支える重要な任務だったのだ。

      

その後の作業を通じて日本の掃海技術は進歩してゆく。生身の人間が潜水服を着て危険な作業を行っていた時代から遠距離から機雷を探査し無人艇で捕獲して処理できるようになった。そしてこれらの高度な技術は現在も戦争を行っている地域の掃海に国際貢献活動に役立てられている。海上自衛隊の海外派遣には実に多くの議論があったが、直接の戦闘行為や武器弾薬、燃料補給などいわゆる「戦闘につながる行為」とは異なる任務もあるものだ。ただ悲しいことに現代では機雷の技術も進んでおり、探査されにくい、又は直接触れなくても爆発するセンサーを持つものも現れ、その技術は掃海技術とともに日進月歩というから複雑な気持ちである。最新型の掃海艇の名が我々の親しむ「えのしま」というのもさらに複雑な気分だ。

        

機雷というのは地雷同様、効果は大きいが卑劣な兵器だと感じる(兵器に言いも悪いもないが)。卑劣さを表すかのようにその姿もずいぶん醜いものだ。。。水中に漂い、触れたモノに害をなす点でも新江ノ島水族館のクラゲにも似ているが、鉄で覆われた棘などもなんともおぞましい。水中から曳航してきた機雷を機銃掃射により爆破するシーンをVTRで見たが恐るべき威力だ。海の安全な航行のために危険を顧みずあの機雷に近づいて処理する隊員達には頭が下がる思いだ。実は数年前に勤務していた研究所は新たに本館を建設する際にその予定地から旧米軍の不発弾が発見されてしまった。爆発物処理班によって処理されたが、半日かがり・・・周辺の半径1km以内の住民は信管を抜く前後2時間ほど避難を余儀なくされた。まったく厄介で迷惑な話である。

さらに3階に上がると「潜水艦」のフロアである。元々潜水艦というのは秘匿性が高く隠密行動によって「深い海の中から日本を守る」任務と言われているが、実は太平洋戦争中も戦艦「大和」に匹敵するほど技術の粋を極めた世界最大の潜水艦があったのである。タミヤからプラモデルも出ているから同年代の男子なら知っている者も多いと思うが「伊400型」という潜水艦である。戦争末期に登場し謎が多く、これまた大した戦果も出さずに終戦を迎えてしまうが、何とこの潜水艦、特殊な戦闘機を搭載した「潜水空母」なのである。戦後米軍に接収され技術詳細を調査されたというがその大きさと性能に米軍関係者が驚愕し、ソ連に情報が漏えいするのを恐れたために海底へ処分されたという。

潜水艦の機能や歴史、乗組員の館内生活などが詳しく展示されていた。サブマリナーに必要とされるのは「耳のよさ」である。潜水艦の「耳」自体は音響ソナーであり、海中では姿を捉えられないから水中を伝わる音を聴いて「何であるか?」を判断しなければならない。よくあるのが各艦特有の「スクリュー音」ヘッドフォンを耳にあて全部で5問ある音源あてクイズに挑戦だ。後ろの中学生が後ろから興味深そうに眺めている。貨物船と戦艦「大和」のスクリュー音、漁船と自衛艦、シャチとマグロ、イルカとクジラ、最後がフグとカサゴだった。「大和」のスクリュー音なんてあるわけないから推理で正解、次の二つは勘で正解、イルカの声は「ちゅら海水族館」で聞いて知っていたから正解、最後の1問は何と釣り上げた時のフグの鳴き声を知っていたから全問正解!「あなたは素晴らしいサブマリナーになれます!」というアニメーションが出て、後ろで「すげー」と驚く中学生にばっちりサムズアップである。

  

潜水艦乗りの生活というのは興味深いがとにかく何をやるにも狭い(当たり前か!)。同級生の女子がFBに掲載していたが、乗組員のベッドは3段で中に入ることすら一苦労だ。恐い夢を見て飛び起きると間違いなく顔面直撃だし、師匠が布団キックなどしようものなら上の人は大惨事だろう・・・しかしその分、食事は1日4食もあるようだ。ちなみに有名な海軍カレーだが、洋上や海中勤務が何週間も続くと曜日感覚が麻痺してしまうので、毎金曜日は切れ目でカレーと決まっているそうだ。カツカレーとは豪勢だが、狭い艦内で運動不足な上にカロリーオーバー、太るとさらに艦内が狭くなり・・・潜水艦乗りにメタボは禁物なはずだな。

    

さてフロアを1周するといよいよ実物の潜水艦内の見学ができる。この艦は昭和61年に就役し第一潜水隊群第一潜水隊に所属していた「あきしお」といい平成16年に除籍されその2年後に国内最大級のクレーン船で吊り上げられてこの場所に展示されたそうだ。長さ76.2m、幅9.9m、深さ10.2mで基準排水量2250tの堂々たる潜水艦である。初めてその館内を見学したが、とにかく狭い。魚雷発射室などは結構なスペースをもっているが、艦長室なども一坪書斎くらいしかない。オペレーションルームには当然潜望鏡があり、何と実際に動かして外を見ることができるのである。こんな経験は初めてだ。

            

潜水艦を主題とした物語と言えばアニメでは「サブマリン707」、「潜水艦スーパー99」、文庫本では有川浩さんの「海の底」、荒巻義雄さんの「紺碧の艦隊」などがあるがやはり全体的には地味だ。親類に海上自衛官だった人がいるのだが、潜水艦の性能や緒言は特別に機密性が高く、よほどのことがない限り中を見学させることなどないと仰り、家族であっても出港日時は秘密だそうだ。外部からの接触を絶ち、狭い艦内で何週間も過ごすのは想像を絶する苦難だろうし、まさしく日本を蔭ながら週後しているのだな。掃海に潜水艦による防衛・・・必ずしも明るい進歩ではないが、進歩のない者として負けた日本の新生にさきがけて散った「大和」は海深くからどのように見えているだろうか。