あの頃…というのは 1980年代の終わり
「天安門事件」が起きた頃の話です
①では「北京での食生活」について書きましたが
今回のテーマは「北京の自転車」です
北京の街は、まるで虫の大群の様に自転車が押し寄せてくる。
「鳳凰印」だの「鳩印」だの「上海産」だの「天津産」だのと多種多様のはずだが…
どれもこれも同じ様に見える。
北京に着いた翌々日、バスを乗り継ぎ1時間半かけて友誼商店へ行った。
ここは比較的まともな物が売っていることで有名な外国人向けの百貨店だ。
なぜ比較的まともかと言うと、外国製品が比較的多く置いてあるからである。
国産品でも普通の商店で買う物よりは質が良い。例えば、トイレットペーパーにしても、“鼻をかんでも鼻の下が赤くならない程度の柔らかさ”はあったし、ハンガーにしても、“トレーナーを干したくらいでは折れない程度の丈夫さ”はあった。
1階奥のコーナーには十数台の自転車が陳列されていた。
そこには埃のかぶった洗濯機や冷蔵庫までもが、無造作に置かれており、何売り場か分からない様な不思議な一角を成していた。
私を含めて4人の女の子がそれぞれ1台ずつの自転車を指差した。殆どが前からのケンケン乗り(女の子乗り)ができない男性用だったので、選ぶことに迷う必要がなかった。女性用の自転車は5~6台しかなかったからだ。ただ、女性用とは言っても、黒くておっさん臭い上に、可愛気もなければ何の付加価値もない自転車ではあったのだが…
不貞腐れた態度と顔の女店員が「要不要?(いるのか?)」とぶっきらぼうに言った。
4人は揃ってウンウンと頷いた。
「中国では自転車が不足しているって聞いていたけど、こんなに早く買えるなんてラッキーね!」と言って喜びあった。
のも束の間。女店員は「売れない」と言う。
耳を疑った。
無愛想な男店員も出てきて「どれも売れない」と追い討ちをかける。
「杯了(ホワイラ)」つまり「壊れている」と言うのだ。
いつ入荷するかも「わからない」の一点張り。
私は自分の乏しいボキャブラリーをフル活用して「自転車が欲しい」を表現した。
この日は、北京に着いて3日目だった。けれど、自転車が生活の必需品であるということをすでに痛感していた。留学生宿舎から大学の最寄りの門へ行くのにさえ、歩いて20分以上かかったし、校内を移動するにしても、買い物に行くにしても、自転車がなければ身動きが取れない。
「早く買わなければならない」と本当に、切実に、思っていた。
男店員が、1台ずつ覗き込むように点検した結果、私が指差した自転車だけを「売ってもいい」と言った。“みんなに悪いな”と思わなくもなかったが、それを買うことに戸惑いはなかった。
女店員がスパナーでボルトを締め直してくれた。「私の足は短いからサドルを1番低くして下さい!」と頼むと、面倒臭そうな手つきと顔つきでサドルを下げてくれた。
後輪に付けるカギ(5元)と合わせて大枚235元(当時のレートで約9400円)を支払った。こんな大きな買い物をしたと言うのに、さすが中国!配達だの託送だのといったサービスは一切ない。「ありがとうございました」の笑顔ももちろんなかった。
他の店に行くからというほかの3人と別れ、一人で気の遠くなりそうな長い帰路についた。
長安街の西の果てから斜めに差し込む北京の9月の陽射しを顔面に受けながら、私の高級二輪車は、まず天安門を目指した。
ところが、予想もしていなかった痛みが身体を突き刺した。一番低く下げてもらったサドルなのに、ひとこぎごとに身にくい込むのだ。たまりかねて降りようとすると足が着かない。つま先を目一杯伸ばしたら、土踏まずが こむら返って 自転車ごと倒れてしまった。「強く生きるぞ!」と、自転車を起こしながら自分に気合を入れた。
道端で鍋や籠やゴザを売っている出店をよく見かけるが、その屋根の下にどぎつい色のサドルカバーがぶら下げられている光景もかなり印象的だ。
「売れるから売っているんだ」という当たり前の理論が、ハタと理解できた。
そして、そういう店を労せずして見つけることができた。一番クッションの良さそうな真緑のカバーを選んだ。少し痛みがましになったような気がした。
『北京秋天』 1年を通じて1番心地よい時季をくぐり抜けるように、私の高級二輪車は風を切った。
天安門の看板の様な『毛沢東さんの御顔』が右方向に現れると「中華人民共和国」の大気を体全体に受けた。とても気持ちが良かった。帰宅ラッシュの中で、私も虫の大群の一部になって自転車をこいだ。
何やらカチャカチャと変な音が聞こえる。ペダルの踏み心地も何だか変だ。
足を伸ばした時にペダルが地面に擦れているような感触がある。
歩道の少し高くなったところに注意深く右足を置いて、自転車から降りた。
ペダルの黒いゴム部分が、右も左もブラブラしているではないか!
ペダルのボルトが外れてしまっている。さっき買ったばかりの、新品の自転車のペダルのボルトが外れているのだ!
「見事だ!」としか言い様がなかった。
このままだと「ペダルごと無くなってしまう」という最悪の事態を考えて、既に緩んでいる残りのボルトも外し、買ったばかりの北京の地図に包んでリュックに入れた。
黒い部分を外した自転車は、どこか情けない物があった。
しかし残された棒状の部分をこぐと、土踏まずに適度な刺激が与えられるという“青竹踏み”的快感もあった。
北京には「自転車修理」と「時計修理」の店がやたら多い。その必要性があり、顧客が多いためであろう。
「北京で時計は買うまい」と心に誓った。
自転車修理屋のおじさんが、ニコニコと迎えてくれた。北京訛り(語尾に“R”という音が入る)が強くて何を言っているのかよくわからなかったけれども、こっちの言うことは伝わったらしい。ペダルに合うボルトを探してくれた。5元で買ったカギも取り付けてくれた(友諠商店では付けてくれなかったのだ)。
「これで完璧に戻った」と自分に言い聞かせた。
復興門から北上すると西日が左頬を射し始めた。
再び、身にくい込む痛さに襲われ、耐えかねて自転車を降りた。喉が渇いたので胡麻入りのアイスキャンディーを買った。食べながら街を見渡した。
何もかもが珍しくて、何もかもが可笑しく思えた。
やっとの思いで留学生宿舎の自転車置き場に着いた時は、友誼商店を出てから2時間以上も経っていた。
大切な自転車にカギをかけようと、注意深く手首を返した。が、事もあろうにカギはねじれ、差し込んだ部分と手に持った部分の真っ二つに分かれた。
絶句した。
目が点になった。
大学の購買部へ行き、チェーンのカギを買ってきて付けた。油性のペンで名前を書いた。「もう大丈夫」と思った。
「名前なんてすぐ消されるわよ!」と先輩の日本人留学生に一笑された。
「それもそうねぇ…」と私。
さらに「カギは一つじゃ狙われるわよ!」と先輩。
「でも、木とかに巻きつけておけば安心じゃない?」
「バカねぇ!鎖を切られちゃうわよ!私も心配だからもう一つ増やそうと思っているの」
「へぇ~3つも付けるの?」
「ううん。6つ目よ!」
北京に6年も住んでいるとこうも用心深くなるのだろうか?
北京初心者の私に、いったいこれからどんな試練が待ち受けているのだろうか?
留学生食堂で同じテーブルになったパキスタン人のハディさんに、早速今日の報告をした。自転車を買えた喜びと、数々の不運を訴えた。
ハディさんはスプーンを置いて静かにこう言った。
「自転車のカゴは付けたかい?」
「まだ付けていないけれど…」
「絶対に付けるべきだよ!」
「どうして?」
「カゴを付けておくと前輪とハンドルの接続にもなるから、ハンドルがとれても落っこちることはない。」
元来の柔軟な性格も幸いし、北京の生活には意外と早くなじめたと思う。
片道2時間くらいならバスよりも自転車を選んだ。自転車なら夜8時でなくなることも、目の前を無情に通過されることも、押しつぶされながら立ちっぱなしということもない。
その上、留学生宿舎の前まで乗り入れられるのだからこんな便利な物はない。
この街で快適に暮らそうと思うと神経質になってはいけない。
「なすがまま」の精神が必要なのだ。
“地図上にあるべき道がない あるべき道が地図上にない”
“約束したことを「知らん」と言われる” ひとつひとつにカッカしていたら身が持たない。
「何事も、なるようにしかならない。だけど、なるようになる。」
これが9ヶ月間の北京生活で身に付けた“プッツン精神”であり、私の座右の銘にもなったのである。
長い作文を最後まで読んでいただきありがとうございました。
北京の空港に着いた時に飛行機のチケットを求めてパニック状態になっているのを見て「何なのこれは?」と目を疑ったし、
大阪の空港に着いて飛行機を降りた時、いきなりフラッシュを嵐のように浴びた時は「何を大騒ぎしているの?」と理解不能でした。
だから私にとっては、劇的帰還でもなんでもないんですよね~(笑)
私の後ろで「ハイ!ここまで!」って言われたんですよ
後方にはまだまだたくさん人が並んでいたのに!
乗ってみれば「ファーストクラス」(もちろん払ったのはエコノミー料金ですよ!)
機長さんが「もう大丈夫ですよ」って挨拶に来られても「はぁ~?」な私。
でもJAL便の中では日本の空気を感じました。
9ヶ月間の北京生活で5kgも太った私。
テレビのニュースで見た人たちが電話を掛けてきてくれたのですが、明らかに人相が変わっていたので「違うかも?」と思った人もいるはず
劇的アフター(?)だったというわけです。
注意:体重はその後仕事他で苦労(?)して、ちゃんと元通りになりました。
いやですわぁ!オホホホホホホホホッ
確かに私は