少々最悪の事態を迎えており、対処に追われている日々なんだが、
落ち着いて、落ち着いて.....。
金曜日の朝日新聞朝刊に、「私の視点」というコーナーがある。
今回は、聖心女子大学加藤教授の投稿。
教育再生会議における 心配な「道徳を教科に」 というタイトル。
教育改革の一環であるこの動きが、戦前の国家主義的な修身教育の復活に
つながらないか、見極める必要がある。
うーーん。自分はこの方を存じ上げないが、本当に、必ず出てくる話だ。
確かに、教科として成績として判断されるとすれば、
「正解」が有無を言わさずという段取りにもなろうし、
危惧される状況も出ようというもの。
理解も出来る。
ただ、彼が危惧しているのは、
「わが国が培ってきた倫理観や規範意識」を身に付けさせることが提言されたが
そんな内容の教科書がつくられ、それを「正解」として学ぶ教育がされたら
それは一元的な価値観の押し付けにとどまらず、道徳教育そのものを
空洞化させるおそれがある。
道徳には、数学のような正解が常にあるわけではない。
むしろ各自が悩みつつ行動し、失敗や後悔を重ねるなかで知恵を身につけ
人間的に成長することで、より正しい判断ができるようになるものである。
これなんだよね。
もう、かなり昔から、自分も知っているし、聞かされていた内容なんだが、
道徳って、本当に、自己責任みたいな試行錯誤の中で、見につけて、
自分の成長の「たし」にしていくものなんであろうか?
じゃぁ、宗教なんて、いらねえべよ。
さらに、これも、良く聞かされていたんだが、
真に実りのある道徳の授業とは、彼らの疑問や葛藤を無視せず、
「正しい」とされることでもあらためて吟味し、納得いくまで一緒に
考えていくものであろう。
なんてね、小学校のレベルでこれをやれって、いうんでしょうか?
おいおい、ゆとり教育、そのまんまな基本方針みたいじゃないですか。
個人的には、昨今言われている、社会の「混乱」など、規範の逸脱など、
得体の知れない不安が蔓延している原因は、
ひとえに、正しいものへの不信感。疑問感。あるべき権威の喪失など、
社会全体で、試行錯誤をしているのか、
あるいは、この教授の言うとおり、納得いくまで、考えている最中なのか、
そんな拠り所の無い、無秩序化された世界があるからじゃないか?。
この、本当によく言われる、正しいものこそ疑え、というテーゼ。
もう、これが拡大解釈されると、ものすごい、力を、勝手に持ってしまう。
学校では、もう道徳とかいうのではなくて、
それこそ、教師を疑え、教師の待遇を疑え、ルールを疑え、
って、どんどん、疑わなくてもいいことまで、
勝手に自己都合に合わせた世界で、疑いを「強く」持ち始めて、
あげく、既成の体制を打ち破ろうなんて、もう、大混乱を生じさせてしまう。
確かに、この考え方は必要だし、おかげで、朝日新聞など、既成メディアに
対する「目を」持ち始めたわけなんだが、
ただ自分や自分の社会の価値観に固執するのではなく、異なる価値観を
持つ者といかに対話・協調していくか、をも考えなければならない。
なんてことを仰っていますが、
根本的に、今の子供達の大問題は、
この価値観が、何にも無いこと。
ルール・道徳にしても、もしかしてあるはずの歴史的な風土的な、
あるいは語弊を承知で言わせいてもらうならば民族的なもの。
いわゆる伝統的なものを含めて、固執も何も、とんと教えもしない、
なんだか消失・消滅しているわけで、
これがなければ、はい、相手の価値観なんか、対比的に見る目なんか、
出来るわけが無いでしょ。
人間て、そこまでご立派な構造をしているわけでなくてさぁ、
なにしろ、「掟」といっちゃってもいいや、
それを「学んで」こそ、自立した暁には、
ていう順序がありそうなもんで、
道徳やらルールを、なんだ、因習とか出来の悪い、悪習みたいな
最初からそういう目で、考えること自体、どうなのよ、と
最近、特に思うようになった。
昔の言葉や教えで、いっぱい、いいものあるよ。
だって、教育現場では、教師の「教壇」は、偉そうだから無くして、
それこそ生徒と同じ視線で、なんて無くしてしまうし、
授業開始の「挨拶」も、必要ないから、起立礼も「無くしました」
とやっちゃっている教育現場の中で、
この教授は、どこまで、現実を知って、こんなことを、
のほほんと、言っているのであろうか?
まずは、そこから、
ということが最近、どこもここも、すげぇないがしろにされている気がする。
落ち着いて、落ち着いて.....。
金曜日の朝日新聞朝刊に、「私の視点」というコーナーがある。
今回は、聖心女子大学加藤教授の投稿。
教育再生会議における 心配な「道徳を教科に」 というタイトル。
教育改革の一環であるこの動きが、戦前の国家主義的な修身教育の復活に
つながらないか、見極める必要がある。
うーーん。自分はこの方を存じ上げないが、本当に、必ず出てくる話だ。
確かに、教科として成績として判断されるとすれば、
「正解」が有無を言わさずという段取りにもなろうし、
危惧される状況も出ようというもの。
理解も出来る。
ただ、彼が危惧しているのは、
「わが国が培ってきた倫理観や規範意識」を身に付けさせることが提言されたが
そんな内容の教科書がつくられ、それを「正解」として学ぶ教育がされたら
それは一元的な価値観の押し付けにとどまらず、道徳教育そのものを
空洞化させるおそれがある。
道徳には、数学のような正解が常にあるわけではない。
むしろ各自が悩みつつ行動し、失敗や後悔を重ねるなかで知恵を身につけ
人間的に成長することで、より正しい判断ができるようになるものである。
これなんだよね。
もう、かなり昔から、自分も知っているし、聞かされていた内容なんだが、
道徳って、本当に、自己責任みたいな試行錯誤の中で、見につけて、
自分の成長の「たし」にしていくものなんであろうか?
じゃぁ、宗教なんて、いらねえべよ。
さらに、これも、良く聞かされていたんだが、
真に実りのある道徳の授業とは、彼らの疑問や葛藤を無視せず、
「正しい」とされることでもあらためて吟味し、納得いくまで一緒に
考えていくものであろう。
なんてね、小学校のレベルでこれをやれって、いうんでしょうか?
おいおい、ゆとり教育、そのまんまな基本方針みたいじゃないですか。
個人的には、昨今言われている、社会の「混乱」など、規範の逸脱など、
得体の知れない不安が蔓延している原因は、
ひとえに、正しいものへの不信感。疑問感。あるべき権威の喪失など、
社会全体で、試行錯誤をしているのか、
あるいは、この教授の言うとおり、納得いくまで、考えている最中なのか、
そんな拠り所の無い、無秩序化された世界があるからじゃないか?。
この、本当によく言われる、正しいものこそ疑え、というテーゼ。
もう、これが拡大解釈されると、ものすごい、力を、勝手に持ってしまう。
学校では、もう道徳とかいうのではなくて、
それこそ、教師を疑え、教師の待遇を疑え、ルールを疑え、
って、どんどん、疑わなくてもいいことまで、
勝手に自己都合に合わせた世界で、疑いを「強く」持ち始めて、
あげく、既成の体制を打ち破ろうなんて、もう、大混乱を生じさせてしまう。
確かに、この考え方は必要だし、おかげで、朝日新聞など、既成メディアに
対する「目を」持ち始めたわけなんだが、
ただ自分や自分の社会の価値観に固執するのではなく、異なる価値観を
持つ者といかに対話・協調していくか、をも考えなければならない。
なんてことを仰っていますが、
根本的に、今の子供達の大問題は、
この価値観が、何にも無いこと。
ルール・道徳にしても、もしかしてあるはずの歴史的な風土的な、
あるいは語弊を承知で言わせいてもらうならば民族的なもの。
いわゆる伝統的なものを含めて、固執も何も、とんと教えもしない、
なんだか消失・消滅しているわけで、
これがなければ、はい、相手の価値観なんか、対比的に見る目なんか、
出来るわけが無いでしょ。
人間て、そこまでご立派な構造をしているわけでなくてさぁ、
なにしろ、「掟」といっちゃってもいいや、
それを「学んで」こそ、自立した暁には、
ていう順序がありそうなもんで、
道徳やらルールを、なんだ、因習とか出来の悪い、悪習みたいな
最初からそういう目で、考えること自体、どうなのよ、と
最近、特に思うようになった。
昔の言葉や教えで、いっぱい、いいものあるよ。
だって、教育現場では、教師の「教壇」は、偉そうだから無くして、
それこそ生徒と同じ視線で、なんて無くしてしまうし、
授業開始の「挨拶」も、必要ないから、起立礼も「無くしました」
とやっちゃっている教育現場の中で、
この教授は、どこまで、現実を知って、こんなことを、
のほほんと、言っているのであろうか?
まずは、そこから、
ということが最近、どこもここも、すげぇないがしろにされている気がする。