まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

本年はお世話になりました。ありがとうございます。

2005年12月31日 | 雑感(日記)
ありきたりではございますが、本年、皆様には、大変お世話になりました。
まさか、こんなに長いこと、続けられるとは、正直思っておりませんでした。

昨年、当時ハワイに在住していた知人より、ミクシーというソーシャルネットワークを
ご紹介いただき、何が何だがわからない状態で、恥ずかしい「日記」を
書き始めたことが、つい最近のことのように思い出されます。

gooに書き始めて、もう1年。
本当に早いものです。

当初、長くも生きていないのに、自分の半生の記事を書くんだ、と、
思い出すだけでも、顔から火が出るようなことをしておりました。
途中で、ざっくりと削除いたして、再スタートをきったのが、このブログでございます。
前半に、多少、その残滓を残しておいたのは、ひとえに自分のいい加減な性格の
せいでございます。

あまりにも、前日のIP数が少なくて、自暴自棄になって、やんちゃな記事を書いた
日も、確かにございました。
しかしながら、途中より、お立ち寄りいただける方よりいただいたコメントが、
思いのほか、温かく、精神的に随分助けられた気がいたします。
今でも、交流をいただいており、まことに感謝いたしております。

自分も、伺える先が増え、随分、その中で、勉強させていただきました。
既成メディアに依存していた自分にとって、この世界は、本当に刺激的でした。

また、当初より、傍らに、ブログのスペシャリストさんがいたのも、大いに
励みになりました。(体だけは壊さないでね。スープは全部飲んじゃだめだよ)

来年は、多分、忙しくなる「はずです」。
でも、もっと様々に見て、聞いて、考えて、多くを経験して、この場で表現
していきたいと思っております。
せっかく、というか、ようやく、コメントを交換できる方々ができたのですから。
こんなに嬉しいことはありません。
そして、勝手なお願いでございますが、どうか、長く、この世界にいてください。
毎日、とても楽しみにしているのですから。
そのために、自分も、ほぼ毎日アップしているんだと、言っても過言ではございません。
ええ、そうです、あんまり友達がいないんですから。

年末に、ふさわしくない、悲痛な締めくくりとなってしまったようです。

とはいえ、本年はありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。
多謝。


GDPと土地本位制が生み出すホラー

2005年12月30日 | 社会的全般
世界の中で、国の力をあらわすのに使われている「指標」がある。
「GDP](国内総生産)だ。

ところが、この数値、経済界では、まったく「信用」されていない。
というか、実生活においては、何の役にもたたない。
確かに、国の格付け調査やらに、補足的に使用される場合があるかもしれないが、
日本においては、海外からの借金は、ほとんどない。未だに「貸してやっている」立場だ。
あの中国ですら、国の予算がブラックボックスである以上、海外が勝手に「推測」しているのに
中国投資が盛んだ。
だからあんまり関係ない。

なのに、日本の新聞、マスコミはGDPの報告をことさら発表したがる。
なんなんであろうか?

さてさて強引な話題を、関連付けて1題、手短に申します。
このGDP。新しく生み出された付加価値から算出される。
簡単に言うと、「中古の売買」は、手数料はOKだが、これはカウントされない。
よって、オークションの市場も、中古住宅の市場も、リサイクルの市場も、カウントされない。
だが、闇金融やら、闇に溜め込まれたお金、追跡されにくいが、
このお金はで「購入」された、新品の商品、サービスは、なんにせよ、GDPの数値を
押し上げる。何だよ、貢献してるんだよ。

そこで「住宅」。
国としては、新築でやって欲しいのは明確。だって、GDPと関係ないんだもの。
海外では、流通する「中古物件」。新築物件より多いのが当たり前。
なのに、日本だけが、未だ「発展途上国並み」というか、戦争でもあったの?というほど
新築物件が流通している。
30年しかもたない住宅。というより、30年で取り壊しをしてしまう「慣習」。
遷都を繰り返してきた古くから日本人に根付いてきた、「精神構造」なのであろうか?
なんて、バカなことを言ってみたりして。

「土地本位制」と言われて久しいが、その新築礼賛の弊害になっているのは、
土地の値段である。
アメリカでも、イギリスでも、日本と建物の費用はほとんど変わらない。むしろ、そっちの方が高いくらい。
もちろん永年使用できるように考えて作られている。
もちろん、地震、雨風洪水など、地形的、立地的な事情があるには違いない。
にしても、30坪程度の新築物件が、1億近くいくのは、異常である。
つまり、土地の取引は、GDPと関係ない。
だから、壊して、新しく建て、売らなきゃだめなんである。
そうなれば、GDPに入れ込むことができる。

こういう訳で、土地の値段の異常高価格を維持しながら、国の方針として30年たったら壊して
いいような「家」を容認する風土ができたわけなんである。
だから、違法建築なんて、全然、加害者の意識なんて、生まれません。
古くなったら、建て替えるもんだぜ、という不思議な慣習は、ええ、日本だけです。
それが土台になっているから、1世代持てば充分てな具合で、異常な数の土建屋が
生きていくことができたわけなんです。

ところが、例の大震災がおこりました。
耐震構造なんてやらが大きなルールとなって、マジに建物を考えなければならなくなりました。
おまけに、国民の寿命がいきなり延びる!
30年じゃ、だめじゃん。

しかも不況です。にもかかわらず、担保価値でお金を貸し込む銀行。そして、唯一の大きな
税収として地方を支える固定資産税。
土地の価格を「維持しなくっちゃ」。

なんだか。検査機関が民営化されちゃって、いい加減に調査終わらせてくれないし。
70もある国交省の外郭団体も、お金もかかるし。
でも、銀行さん。また、不動産にだけは、じゃばじゃばにお金貸すようになってきたし。

ということは、手抜き工事に、違法設計、すり抜け審査。
なんだ、「今まで通りで、全然、OKじゃん」。30年もてば、俺、引退しているし。
大丈夫ジャン!

という、まこと、世界とは逆行するシステムが維持されたわけです。
違法建築など、やんや、騒いでおりますが、違います。
結局は、意味がわからない、土地の値段が異常なだけなんです。
ずーーーと、問題にしていたではないですか。おかしいって。この「土地価格」。「土地システム」。
そうしないと、良い物件を大事にしながら、代々住み続ける文化が、育ちません。
中古流通、OK。リサイクル、OK。GDP、ナンセンス。

えっつ、強引な話題で、しかも、長すぎますって?
年末なんで、許してください。

「総すねかじり状態」だった気がする1年

2005年12月30日 | ニュースに絡んで
違法建築に関する話題も、過熱期を過ぎてしまったようだ。
年末と言うこともあるのか、新聞も薄くなる中、テレビも特番の嵐。
ニュースも、JR東日本の脱線事故を尼崎のJR西日本の事故と掛け合わせて、
1年の締めくくりとしたいようだ。

この1年、随分と、国だ企業だと、「不祥事」が続いた。ように見える。
何か事件がおこると、最短の責任者が、テレビで新聞で「謝罪」を繰り返す。
そして洪水のごとく「レポーター」が繰り出され、「独自」の取材が過熱する。
まるで、マスコミが2チャンネルになったかのような1年であった。

すでに国民は、災害も、詐欺も、偽装も事故もなんでも、この世の中には、
「責任」を取ってくるれる「対象」があることを、学んだ1年であったようだ。
公共財、もしくは私企業が提供する「サービス」も、利用するだけ利用し尽し、
万人の、究極の「対応」を求めながら、一端、事故やら破綻がおきると、
万人の、究極の「責任」を追及する。

利用者は、善人で無垢、という「究極の哲学」を降臨させてしまったかのようだ。
「お客様は神様です」という1970年頃の背景には、サービスの提供者も利用者も
それぞれに「責任分担」があって、使わせてやる、使ってやる、といった
「大人の駆け引き」が厳然と存在していた。

問題がおこると、それは、「不備」があったという認識の下、双方の「利害」の
調整を図るための「法」やら「規制」の網がはられることになる。
やがて、当事者同士の「揉め事」も、相手が企業、国の構成員の1部であれば、
「雇い主」である「責任者」まで、訴求される「事態」までに「進化」していった。

今や、「使っていただくVS使ってやる」をとおに超えて、
「潜在的加害者VS潜在的被害者」の構図を呈してきたと思われる。

こうなってくると、立法機関である国会の「構成員」である「政治家」は、
国内の利害関係の「調整役」を自ら「使命」としていたが、
今や、「加害者」側に、「加担」していた「事実」を「暴き立てられ」、
事実はそうでなくとも、浮き足立つ彼らに、「頭が悪いんじゃないか」というレベル
までに論点が降りてしまったのは、「致命的」であったように思える。
そういう意味で、「劇場化」と、自分は思っている。

そして、その構図は、「提供者」と「利用者」の明確な「階層化」がおこり、
利用者は、本来あるはずの「リスク」も「計画」も「責任」も、全て丸投げ。
言ってみれば、あり方は「総すねかじり」状態。
言ってみれば、「権利」の旗印をぶんぶん振り回している状態。

他者との関わりの中で、予測し、管理するすることが大雑把に言うと
それが「コミュニケーション」である。
日々のよしなし事をくっちゃべっているのがコミュニケーションではない。
ほうぼうで、そういう事を、痛感した1年であったような気がする。

年末年始は強行軍

2005年12月29日 | 雑感(日記)
仕事の関係で、どうも、年末年始という世情から遠ざかっている。
「それでは、良いお年を」と別れた翌日の元旦に、「本年もよろしく、そして
ご迷惑をおかけいたしました」と言って、クレーム処理に出向いたこともあって、
最近は、この時期、
「それでは、また来月、お会いしましょう」と、自虐的な言葉を言うように
なりました。
今度の新しい仕事は、盆も、年末年始も、電話がかかることの無い、
真の休日を「満喫」したいと、希求しておる次第です。

とはいえ、年末年始こそ、お忙しい方々もいらっしゃるわけで、
世の中には、人と違ったサイクルでご生活されている方も、多いのである。

新年へのカウントダウンは、ここ数年、東京池袋の「ナンジャタウン」にて
迎えました。その足で、東京ディズニーランドへ。
という、家族丸ごと、強行軍の日程。
それが不可能なときは、近くの神社めぐり。
そして、なんだか、縁起物として、破魔矢、お守りに絵札、木彫りの干支など、
一瞬にして、室内「神様」の大降臨と相成る。
そして、福袋の買出しだ。
こうして、体力の全てを注ぎ込んで、あっという間に3日が経つのである。

そんな中でも、必ず、行くのが、初詣であります。

各神社、趣向を凝らし、かがり火をたいているところ、そして、旧お札などを
納め、そして火を焚くところ。お酒やら、そばを振舞うところ。
鐘をつかしていただけるところ。
さらに、この寒中に、神輿をくりだすところ。(これは、寒々しておりました)

道中には、出店が賑わい、長く伸びる初詣、参拝客。
参拝までには、随分、お腹が満腹になります。
なぜだか、こういうルーチーンが、毎年の行事になっております。

そう考えてみると、自分が生きてきた街は、引っ越した先も、今も、
神社が街の中心にあって、商店街も、神社のスケジュールにあわせ、
その都度、色々な方々が繰り出しては、小さいながらも地域社会をまとめていた
気が致します。
特定の「神」のことはよくわかりませんが、そういう「存在」を、
もともと日本は、とても大事にしていたような気がいたします。
そういった「稀有」の信仰心?は、これからも大事にしていきたいと思うのです。


松井選手の不出場について

2005年12月28日 | スポーツ
WBCに松井選手が出場を辞退する。
この話を聞いて、ある意味、本当松井選手は「真面目な人」なんだと思いました。
そして、各マスコミも、彼のその態度を、尊重している風にもみえ、
そこにも、彼の人柄が表れているように思いました。

あれだけの大型契約を結び、特に、日本を出るときに、あれだけの決意を「迫られた」
彼としては、不安が残る、いや、言い訳ができない状態で、シーズンに望みたい
という「意識」。
それでなくとも、フル出場することで、自己のモチベーションを高めてきた。
もちろんそれに対して、「合理的」でないという意見も多くある。
もしくは、彼が不出場の時が、チャンスの場だと考える選手の立場をも、奪う。
ひょっとすると、自分が万が一、不振に陥ったとき、それを取材する記者、
日本から、自分専門に張り付いている記者の、処遇さえも、気持ちさえも
考えているんじゃないかと、思えるほどです。

ただただ、結果だけが全てといわれている世界ですが、
彼ほど、自分に関わる人達の、リスペクトを忘れない人はいないんじゃないかと
そう思います。
リスペクトとは、日本では、「尊敬」という言葉で理解されておりますが、
本来の語の意味は、上下関係なく、双方で使用するものです。
親子でも、親が息子をリスペクトする、上司が部下をリスペクトする、など
そういう風に使用されているそうです。
ただ、最近は、「俺がビッグな銃を持ってから、リスペクトを受けるようになったぜ」
といった風に、いわば、屈折した意もあるようですが。

本当は、松井選手が出場するWBCを見たい気が致します。
そして、それをきっかけにして、プロ野球が、どういう方向に進むのか、
とても興味がありました。
だからこそ、今回のWBCの与える「影響力」を知りたいが為に、真の選抜で
望んで欲しかった。

ということなんですが、松井選手の決められたこと。
思いはひとつです。

松井選手の来シーズン、毎日ドキドキわくわくして
見ていきたいと。それで、本当に、充分です。

「反社会学」の本。うんちく話が好きなんです。

2005年12月27日 | 本・映画
この方の「反社会学」の「研究本?」。とても好きなんです。
パオロ・マッツァリーノ。前回はイースト・プレス社から出版された「反社会学講座」。
以前記事で取り上げたような気が致しますが、今回は、二見書房から「反社会学の不埒な研究報告」
読んでおります。

気に入っているのは、言葉の使い方。統計学の使い方。そしてなによりも、社会学の
「騙しのテクニック」。

「つねずね私が申しておりますように、社会問題として語られる論説の多くは、じつは
 個人的かつ感情的な意見に過ぎません。それを客観的かつ科学的な学説に格上げするために
 学者のみなさんは世論調査や意識調査の結果を裏付けとして用います。」

あげく、事実を調べもせずに、直近のデータを誤った思い込みに利用するくせを、
「戦後高度成長期の日本人はみんな清く正しく生きていた」
というフレーズでひとまとめにして、
少年期の犯罪件数が、最も多かったのが、いわゆる「団塊世代」。荒れた荒れたという
昨今の犯罪の低年齢化を嘆く諸氏に、3倍もの件数データを(国が出している本物のデータ)
持ち出して、大笑いしております。

また、「犯罪白書」を取り出して、これまた、世間に「危険」を呼びかけている
学者やテレビの「騙しのテクニック」なのか「浅知恵」を笑います。
その「窃盗」。確かにかってない勢いで窃盗は増えています。
某元野球人をキャラクターに、かってない勢いで成長する、某セキュリティー会社
も現実にございますが、こと家を守る、といった生活上の犯罪、
「浸入盗」に関しては、ここ30年、大きな増減はありません。
むしろ昭和40年ごろのほうが、多い。

今や、防犯カメラにいくつもの鍵。赤外線のセキュリティーと、関連商品のオンパレード
です。マスコミも煽りに煽る番組を作成しては、生活圏の危機を呼びかけますが、
窃盗で増えたのは、「非浸入盗」。車上狙い、自販機荒らし、万引き、引ったくり
などが件数を押し上げております。

データを「恣意的」に使ったやり口は、先に作者が述べるとおり、
己の「意見」に裏付けをつけるための「作法」です。
これを専門に「格上げ」したものが、学者の「社会学」云々という「研究成果」に
つながってくるものなのです。

テレビのOO調査に関しても、舌鋒鋭さが増します。
今回の本は、各種データを意欲的に発掘して、専門家やらマスコミが、いかに
恣意的に使っているか、そして、社会の不安を煽っているか。
そして、データそのものの持っている、不整合性、不条理性を面白おかしく
「解説」を加えていきます。
その結果、妙に悲観的にならず、むしろ、もっとポジティブに今の現状を見て行きましょう、
という流れを作り出している。

個人的には、大好きな一品です。
ええ、ええ、そうなんです、結構、うんちく話、好きなんです。
責めないで下さい。すいません。

自分らしく生きるって、どういうこと?

2005年12月26日 | 社会的全般
「自分らしい」生き方。
様々な現場で、様々な人間が口にする、このフレーズ。
前段、拙ブログにてご紹介した本にも、このフレーズをつかって説明がされていた。

この手のフレーズに対して、自分は使用頻度が高くないので、ことさらにその言葉を
多用されると、うーん、となってしまうたちなんだが。

自由に生きること。自分らしく生きること。
解説を加えるべきことではないかもしれない。
言われた、我々からすれば、そりゃ結構なことで、で済む話なんだから。

ただ、例の本で、自分らしさをキーにして生きる層は、下流に多いと言われると、
食いつきたくなるものだ。
そうそう、上流階級じゃないよ、富裕層でよいのではないかしら。
その中で、会社経営者あたりが「自分らしさ」を感じないということ。
フリーター、アルバイトに「自分らしさ」派、だという事実。

結局、上流やら下流なんて話じゃなくて、「責任」の所在を巡るあり方から
派生する「問題」ではないのか。
いくつか書きもしたが、収入を得るということは、1人でやっていく分があれば
それでいいわけである。
ただし、本人が「倒れたり」した場合、そのリスクを回避するために、人と共同
することになるのである。
人が増えれば増えるほど、当たり前だが、責任は回避されるが、リスクも回避されるが
パーツになる役割もあって、「自分らしさ」というものが見えにくくなるのは
子供でも知っている事実だ。

さらに「社長」にまでなると、中には「自分らしさ」の延長で、会社が発展しました
なんてことを仰る人も「一部」にはいるだろうが、そんなの「嘘だ」。
社長が自分らしさを追及した結果、散々な事態になっているところが五万とある。
所属する全員の「生活権」を保持し、リスク管理の総体として、会社を発展させていく
「使命」を役割をもつ、その役職者が、こと収入をキーワードにした調査の中で
「自分らしさ派」なんて文言、口にできるわけが無い。

他人に対して、責任を取らなくて済むんだったら、こんな楽な話は無い。
人との関係が、最も不条理だからだし、予測不能だからである。
「自分らしく生きる」ことは、つまり、なるだけ他者と関わらないで、生きて生きたい
という願望に、もしくは、前提となる環境、集団から、規則から、風習から
自由でありたい、という願望にしか、聞こえないのだ。

そこのは、他者への感謝の気持ちも、リスペクトする内容も、ほとんど感じられない。
にもかかわらず、そういう自分を「認めて欲しい」。
あっつ、これは言いすぎでした。

今までは、「認める」という対価が、給与であったりしたもんで、シンプルだったが
今では、その対価が、お金とは言いがたくなっている。

それが、ある意味、インターネットの匿名性に噴出したり、「おたく」なる場で
非生産的なジャンルで力を発揮する、という現象が起こったに過ぎない。
よって、自分らしさを言う連中が、下流である1つのメルクマール?だなんて
切り口は、これまた、承認できない。

なんだか、連日食いついてしまいましたが、実はそれほど、今の世相に関して
この本は、様々なキーワードを駆使しているということなんである。
今の時代を語ることは、とてつもなく難しいことなんである。

ほぼ、日記である。

2005年12月25日 | 雑感(日記)
とりとめもない、雑感で恐縮ですが、
ようやく、新しい仕事のための、新事務所の移転が終わった。
運び入れる機材もなく、一転二転、いや三転した事務所選びも、
この年末の土壇場で、オーナーのご好意もあって、決まったような感じであった。

間仕切りもなく、がらんとした70坪の室内には、今まで使用していた、
引き出しも付いていない、セールスマンデスクという、ただ、板がはってあるだけの
机と、意外に立派な椅子。などなど。
もちろん、PCもなく、これから、新品を揃えることになる。

笑えるんだが、本当に、ここまでくるのに、1年半かかった。
ただ、まだ油断は禁物である。
世の中には、確実なことなんて、おおよそ無いのであるから。
全てが確実に決定してから、このブログ内で、いくつかご報告もしたいのだが、
言ったそばから、実は、終了してしまいましたなど、泣くに泣けない事態もありうる。
何しろ、定額の給与すら、この1年、頂いてないのだから。
本当に、大変であった。

昨年、高校の同窓会なるものがあって、参加した。
高校の時、まぁ、付き合っていたお二人が、2組も、そのまま結婚に進まれたのは
驚きであったが、行方が不明になっている方、冗談だと思っていた、同級生の死も
事実であったり、陽気なイメージしかなかったO君が、この10年引きこもりで
という話も、なかなか複雑な思いであった。

全くと言って良いほど、自分は彼らと連絡を取り合わなかった。
できる会話もなく、それでなくとも、人見知りが激しいたちなので、姿形が変わった
同窓生と、何を話して良いやらと、困った記憶がある。

なのに、突然、一部の参加者の盛り上がりで、高校1年生の同窓会を開くという。
クラス替えが、2年の時にあって、3年は持ち越しであった。
ほとんど、覚えていない。
何しろ、高校1年生のとき、何を勘違いしたのか、丸々1年間、
なんと朝夕刊の新聞配達をしていたのだ。
家が貧しい、とかそういうのではなく?なんでかやっちゃったんである。

なんで出るなんて、言ってしまったんであろう。
こういう、不意をつかれたお誘いに弱いのは、今に始まったことではないんだが、
断れなかった。
なんだか、こうやって、その日が来るまで、やや、憂鬱な日を送らなければ
なりません。

「下流社会」を読みながら

2005年12月24日 | 本・映画
「下流社会」を読んでいて、こと「意欲」について、多分いらだちを感じているんでは
ないのかな、と作者に対して思いました。
ベースは、「消費行動」。もちろん経済社会ですし、古くから言われている、
1億総中流社会、といった文言も背景にあると思います。
片や、韓国、中国の国をあげての「上昇志向」を目にすれば、この国の行く先を
懸念する気持ちもわからないでは、ありません。

ただ、多分ですが、この国は、世界から見て、はなはだ「上流社会」であることは
紛れも無い事実です。
他国と違って、移民、海外労働者に寛容ではありません。
文化も、言語も、そしていわゆる民族も単一で、ほとんど摩擦も生じておりません。
ほぼ全国均一なサービスを受けられ、生命の危機に関して、これほど鈍感な国も
珍しいといっては、珍しいくらい、感じさせないインフラが整っております。

そういう中で、目指せ1流国。といった国をあげての上昇志向もなく、
平均的な生活は、維持されていて、本人の流儀で、生活ができる、という自由を
謳歌できる国です。
つい30年前までは、明らかに、学校で、着ているものが「足りない」子供が
おりました。
住居で、全てが完結していない、家族も、そこらにありました。
絶対的な不足感、階層感というものが、厳然と、そこにはありました。

海外旅行すら、絶対的なステータスになりうる時代。
外車ですら、そして国内のセンチュリーなど、「一部にしか許されない」と考えられていた
そんな時代もありました。

ところが、20年前におこった「バブル」という現象は、言われている、一部にしか
許されないであろう、と思われた「神話」を瓦解させるに充分なものでした。
もともと、あのバブルは「投機的」な経済活動の突出した1現象で、実は、その
情報なり、資源が集中する中央を目指して、各地から集まった人間が
享楽の髄を尽くした、特定の時代でした。

「上流階層」がするであろう、といわれたことを、ほぼ「物的な」模倣だけを
彼らはやり尽くしました。
そうです、ここから、「上流階層」というものの、ステータスは「記号」として
あたかも「バラ売り」され始めたのです。

低所得者でも満喫できる「セレブな休日」。
1点豪華主義で「気分はセレブ」など、そのほとんどは、誰でも叶うことができる
「そんな程度」といった「情報のデフレ」が確実におこりました。
本当に先代からの「ぼんぼん」と呼ばれた「上流階層の息子」は、実は、「物質」
に執着しておりません。
芸能人がことさらにブランドをピーアールしながら、あれもこれも、と嬉しそうに
「紹介」することすら、実はありません。

そもそも、この国は、「上流階層」といった、文化すら、実はないのです。
主に「生活スタイル」といいますかより「精神的な所作」に重きをおかれていました。
よって、消費行動からみられる、上中下、といったものは、過去の国策として
クローズアップされた「文言」であって、そのもの人間の社会においての
上中下という生活スタイルの位置づけとは、まったくかけ離れていたものです。

例えば、300万円では「結婚ができない」といった、データーから導き出された
この本のキャッチは、本の下流社会に強引にあわせた「辻褄」にしか思えません。
すでに、国全体で獲得された「上流国」。である以上、そこには、絶対的な
消費意欲も生存意欲も、実は、ないのです。

そして、税制の問題で、根こそぎ食い尽くす「相続税」によって、伝統的な
「家」ですら、縮小に向かう中、どこに「上流社会」があるのでしょう?
たいがい2代目で終わってしまう、上流者たちに変わって、己の才覚とでのし上がって
くる、今で言う「IT長者」の方たちが、シンボルに見られるこの形は、
本来持っている「ステイタス」を満たしているのでしょうか?
そう思っている人が、どれくらいいるのでしょうか?

ライフスタイルが多様化しているという事実は、マス媒体にとっては、致命的です。
経済のデフレも、なんら記事にも、マーケティングにもなりません。
ユニクロを下流社会のアイテムにする手法すらも、全くの「価値差別」というもので
作者が育った40年前の「安かろう、悪かろう」の3流商品と比べるまでも
ありません。
それをそのまま「意欲」という単語に結び付けて、年収と結び付けても
旧世代のマーケティングのレクイエムとしか受け取れないのは私だけでしょうか?

希望格差を焦点にあげた「本」のほうが、システムの問題として、切り口として
とても面白かった。
なんで、この本が、ここまで売れるのか、それをテーマにした「本」のほうが
興味があります。

ものすごい、吹雪。京都、新幹線。

2005年12月22日 | 雑感(日記)
金額が変わらないので、大阪に行くときは飛行機を使う。
ただ、日程、時刻が前日ギリギリまで決まらなかったので、今日は新幹線。
という日に限って、「大雪」。
東京は、いつもながらのいい天気。名古屋に入ると、事態は一変。
一面の「銀世界」。
さらに、京都に向かう途中が凄まじい。吹雪。
それでなくても、新幹線沿いの風景は、人の気配が無いところが多いいが、
今日に限っては、そんなもんじゃない。
速度を落とし、徐行しているとはいえ、「ホワイトアウト」状態。
何にも見えない「区間」がありました。
吹雪の切れ切れに見える風景は、音さえも凍りついているような、無音の世界でした。

タッチ アンド リターンの予定でしたが、200便もの欠航する事態。
帰れるかどうか、不安。昨年、そうやって、決行したさい、大雪で、架線が切れ
1泊を余儀なくされた経験がある。
大阪も、交通機関が「ずたずた」。在来線も50分の遅延。バスも動いておりません。

こうやって記事を書いていると言うことで、戻っては来れました。
寒さと、長めの乗車に、疲労いたしました。
ただ、その区間を抜けると、澄み切った青空が広がる風景に、そして、
雪をたたえた富士山の姿に、しばし、心を休めることができました。
新富士駅を通過中に、まるで富士をめがけて、街が、家が、遠近法のごとく
連なってつづく様は、天気がよかったこともあり、長々と見ていたいものでした。

そういえば、前日の新聞で発見したんですが、
「タクシー全面禁煙望ましい」 東京地裁、国に対応促す
例の本を読んでしまったからなのか、この手の記事にいちいち反応してしまいます。

「タクシーでの受動喫煙に悩む乗務員と利用者計26人が、「車内の喫煙を防止す
 る措置を国が怠ったことで健康被害や精神的苦痛を受けた」として、国を相手に
 計1360万円の賠償を求めた訴訟の判決が20日、東京地裁であった。柴田寛
 之裁判長は請求自体は棄却したが、「タクシーの乗車時間や利用頻度を考える
 と、全面禁煙化しても支障は生じない。禁煙を望む利用者の立場に立つと、全面
 禁煙化が望ましい」と指摘。国に対応を促した。」

「原告側は「判決は踏み込んだ見解を示しており、実質勝訴だ」と評価、控訴しな
 い方針だ。勝訴した国側は控訴できないため、タクシーの全面禁煙化を促した判
 決が確定する見通し。」

と長々引用いたしましたが、こういうのが、「良い裁判」ということらしい。
つまり、判決は原告の請求棄却。つまり、負けました。
ところが、裁判官が独自に意見を言える、「判断」。判決と、多分、反対のことを
言っても構わないんでしょうが、これがつまり「大岡裁き」。
日本は「法治国家」なんですが、多分、是非を冷徹に決定するよりは、
このような「和解的」な「和をもって貴し」の情的な裁きが合っているのかもしれませんね。

ただ、昨日書きましたが、自国内であれば、双方の顔が立つ「風土」もよろしいんですが、
こと外交といったところになると、あいまいな態度にとられかねない。
そうなんだよな、好きなんだけど、こういう精神構造。
でも、見ていると、世界では、通用しないんだろうな。


だからこの国は、なんてことよりも、もっと事実を

2005年12月21日 | 本・映画
よくお邪魔するブログでは、BSの世界のニュースを「速報」していただいているので
いつも興味深く拝見いたしております。
日本も、近隣3国との対応に四苦八苦しておりますが、世界各地も様々な事件なり
解決しがたい問題を抱えているようで、国同士というか、民族間といいますか、
宗教間も含めて、ボーダーレスって何?愛国心って何?と言う風に、軽々しく
口にできない状況になっているようです。

昨日にも書きましたが、読むべき本を忘れたことで、もう1冊「文庫本」を購入して
おりました。
「日・中・韓 新三国志」 黒田勝弘 古森義久 著 徳間文庫

この両名が著作であれば、ほとんど読む前から内容は自明です。
この手の内容は、他の方々の本も含めて勉強させていただきました。

どういうトレンドで書かれているか、どういうバイアスがかかっているか、
というより、事実として、彼の国は、どのような国家戦略をとっているのか、
その具体的な事実の方が、とても興味があります。

特に中国に関して、反日教育がどうのこうの、というより、
エネルギー源を求めて、どの国とどのように手を結んでいるか、
そしてあからさまなのか、潜行しているのか、の方がとても興味があるのです。
そこには嫌い、好き、友好なのか反友好なのか、ということより、
その戦略が、多分、本当に多分、近い将来、腹を括らなければならない事態に
ならないとは言い切れない、と感じているのです。

議会がなく、予算すらも明確で無い。国民総生産の数字すら、多分、いやおそらく
という前提で発表される、お金については、「推定」の国であること。
1992年に独自の領海法の公布を、一方的に決める国であること。
台湾については、独立するんだったら、戦うよと、法を制定する。

ある意味、簡単に言うと、やる気まんまんな国です。
最近では、北朝鮮に「寄っていく」傾向は、韓国をナーバスにしているようです。
本当に、歴史的に苦労しているのは、韓国。
中国の脅威は、なにも領土的な野心だけではなく、ビジネスにおいても、
最もこれから苦労するのは、韓国なんだろうと、思っております。

近隣3国をテーマにして、日本が、やいのやいので、揉めている印象が多いのですが、
中国は、すでに、突き抜け始めてます。
その超大国が、どのように「国をまとめ」そしてどのように進んでいくのか、
近いところでは、韓国、台湾、そしてアジアといった各国は、どのように中国と
外交をしているのか、本当に中国は「自由主義」といった土俵にあがっているのか
もっと、詳しく知っていきたい、そういう風に考えているわけです。
アメリカ一筋で、今の日本は動いていますが、ロシアが握った手は、中国のようです。
その狭間で、小さい国土の日本は、どのように立ち回らなければならないのでしょうか?

また時間がなくて消化不良。男女共同参画法について

2005年12月20日 | 教育、文化、少子化
だめだ、ちゃんとしなきゃ。
以前、鉄筋量1とか、書いてしまったが、耐震構造が1でした。
生半可に理解していると、重要な部分で間違います。気をつけます。
さらに以前、球団の持ち株会社で、TBSとフジテレビを間違えたり、
ああ、枚挙にいとまがない。
反省。

といいつつ、本来読むべき本を忘れてしまって、安易に購入した本が、
別冊宝島から出版された 069「男女平等バカ」
今、盛んに論議されている「ジェンダーフリー」に焦点をあてた「本」です。

内容は、確かに、すごい。いえいえ、紹介されている内容です。
そこでいくつか、ネットでもぐってみました。

表面的に聞こえてくる内容は、確かに「酷い」ものが多かったのは確かです。
そんな話を聞けば、どう考えても「行き過ぎだろう」となるのは無理なからぬところです。
そして、田島先生の毎度の「女は性奴隷だったのよ!」の絶叫が耳について離れない
事実が後押しして、反ジェンダーが巻き起こっているのも、また無理なからぬところです。

1999年に法制化された「男女共同参画社会基本法」は、戦後日本を作り上げた
と自負する世代の「免罪符」的な感じも否めませんが、大きな反響を生じました。

この法にあわせて、10兆円の予算がついたことも波紋を広げました。
「ただ、9兆は高齢者支援です。その他も保育の費用などが大半。ちなみに、
 男女共同参画局の予算はというと5億円いかないくらい。」
という事実を指摘するところもあります。

にしても、教育の現場で行われていた、といういくつかの事例は、男女共同参画
基本法とジェンダーフリーと、どのような関係なの?と言われかねない。
個人的には「男女混合名簿」やら、小学校時の「男女混合騎馬戦」やらは別に気に
なりませんが、性教育は「途方に暮れます」。
または「男女」ではなく「女男」の言い換えや、ランドセルの色をことさらあげてみたり
校歌の歌詞を男女平等に反するとして、変えさせたり、千葉県にあるように、
女子高を共学に変更するなど、ことさらに男女の性差をレス(なくす)という
方向は、過激さを感じます。

もちろん、その過激さばかりを、あげつらう雑誌、本にもある種の責任があります。
過激なのは、いつでもどこでも、どうしても出てくるもんで、普通に参画している
人達は、「ジェンダーレス」といった、性差を完全になくすことを夢見ている
訳では、どうやらなさそうです。

社会参加において、「女性の地位向上」を、どのように具体的に推進していくか、
そして、将来、収入が男性が主に担っていた場合、そのはしごをはずされた場合、
どのような社会システム、再就職が可能か、という点は、大いに考えねばならぬ
点だと思います。
例えば、
「女性の半数以上が性別役割分担や、「結婚したら、自分のことより夫や子どもを
 優先して 生活する方がよい」という考え方に否定的であるものの、「男性は結
 婚したら、妻や子ども を引っ張っていくつもりで生活する方がよい」という考
 え方には約8割が肯定的である。」
という調査を、参画者は冷静に見ているようです。

女性専用車両という案件も、反対論者からは様々に「異論」をあげられますが、
これまた自分としては、時間帯によっては、あっていいと思います。

ただ、ちゃんとしたPRがないと、そして、昔からジェンダーをとなえた連中が
「大声で」わめきだすと、上野千鶴子さんのように過去言った
「たちしょんなんて軽くできるわよ」とか福島さんのように「チカンは男に
連帯責任を取らせるべきよ」が、ことさらクローズアップされるのも
悲劇といっちゃ、悲劇なんでしょう。

冷静に、見て行きたいと、思っております。


この記事には賛同しました。日刊ゲンダイ

2005年12月19日 | ニュースに絡んで
皆さんのブログを読ませていただくと、本当に、自分の文章の下手さ加減やら
構成、内容の浅さに、打ちひしがれることが、よくあります。
相手を想定したこのブログというものは、たまに、本当に難しいんだ、と、
思ってしまうことがあるのです。

さてさて、日刊ゲンダイ。
実は、このタブロイド版の新聞、好きではないのです。
一度でも、誉めたことがあるのか、という「けなしてなんぼ」という姿勢は、
どうしても好きになれず、近くに、そのネタで「時事評論」をする人間がいるのも
「不快」を加速させる原因にもなっているのかもしれません。

NHKの「女児殺害事件」報道はおかしい

にもかかわらず、食いついてしまいました。
内容は、「女児」という言葉の使い方。
懸念しているのは、この表現の仕方。

「事件の報道などに際して、犯人の劣情を刺激しないことだ。
 一般に犯罪には模倣性があるが、ロリコン犯罪は特にその傾向が強い。
 テレビ・ニュースで女子学童、被害者といえばいいのにオンナの子といい、
 必要なときだけ姓をさん付けで呼べばいいのに、名をちゃん付けで連呼する
 のは、ロリコンを刺激するだけだ。」

さすが、ゲンダイです。この「女児」または「ちゃん」の呼び方にこの種の危機を
感じ取れる感性は、すでにロリが入っている証拠です。
にもかかわらず、カミングアウトも辞さずして、記事にしてしまうあたり、
他の新聞では、なかなかできる芸当ではありません。

ちゃかすのはここまで。
言っていることは、激しく賛成です。
最近は、「無職」を「フリーター」に置き換えてみたり、
「すねかじり」または「ごくつぶし」を「ニート」とよんでみたり、
「変質者」を「ストーカー」とよんでみたり、
のろのろ走っては奇声をあげる「徐行族」を「暴走族」とよんでみたり
社会にとって必ずしも「有益」ではない、なさそうな方たちの
さも「人権」に配慮した表現方法が「大活躍」です。

おおよそ「犯罪者」は、模倣犯が多いのは当然です。
特に線路に石を置いて、脱線事故につながる「犯罪」は年中、とある事件を
きっかけにして繰り返される事実ですし、
今回の女児殺害事件も、大きく報道されれば、されるほど、愉快犯も(この表現
も変ですよね)付け上がってくるのは、最近のネット予告で捕まった学生で
立証済みです。

新聞のキャッチは、事実、販売部数にも大きく影響いたします。
わからないでもありません。
ただ、事件がおきるたびに、専門家にコメントを求めては、毎度事件を分析している
はずなのに、「これから、我々はどのようにすべきなんでしょうか」などと
お決まりなトーク。
ええ、その報道を控えることによって、表現なり、報道内容を
「またバカが、世間に後ろ指を指される事件を起こしました。とにかく内容が
 とんでもなくふざけているので、ここで取り上げることは、いたしません。
 容疑者が、罪人として確定した暁には、後ほど、思いっきり公表させて
 いただきます。途中で、斟酌できる事情が判明した場合は、専門家の方を
 お呼びして、伝える内容があれば取り上げたいと思います。
 被害にあわれた方には、謹んでお悔やみ申し上げます。○○地域の近隣近所の方には
 官報、広報でお知らせがありますので、ぜひ、参照されて対応をされてください」
みたいな、感じにすれば、連中の変な感情を扇情することはありません。

公的な、反社会的な犯罪は、広く周知すべきであろうし、情報での制裁もいたしかたない。
その線引きも、基準もなかなか難しいし、上に書いたような報道の仕方も
変ではあるし、余計な詮索を生じしやすいことも自明かもしれない。

しかし、タリウムの報道もそう、女児殺害のペルー人でしたっけ、
あれもそう。なんで、ああいう扇情的で、ねっちこい報道するのかなぁ。

「民放もダメだが、NHKがとりわけひどい。政治や経済の本格ニュースではつっ
 かえてばかりいるのに、スポーツや芸能の話題だけは淀みなくしゃべるアナウン
 サーのコンビが、やたら、オンナの子、ちゃん、を連発している。」

そうそう、ゲンダイはこれをもって、報道側に
「あの間抜け面を見ていると、ニュースを伝えるものとしての適格性を問う以前
 に、お前もロリコンかよ、といいたくなる。」

言いえて妙であります。




未消化のまま書くとこうなります。ごめんなさい。

2005年12月18日 | 本・映画
まだ途中なんですが、「下流社会」という本を読んでおります。
本来なら、読後に書くべきなんでしょうが、少々。

作者は消費世界における、マーケティングのプロとして「社会学」というのでしょうか
その視点から、「大衆」の位置づけを行っているようです。
よって、表現が「欲の無い」という行動をとる「下流の層」を見極めようと
されているようです。

日本は当たり前ですが、複雑で高度な「経済社会」に間違いありません。
消費行動から、各世代?を分析する方法は、確かに一つの視点だと思います。
そして、その取りうるであろうパターンを分類し、代表者に語らせることによって
具体的にする方法をとっています。

どうやら自分は「新人類」のカテゴリーに入るらしいのですが、
ここまでの感想をいうと、(後段で語られていたら、先にお読みの方、笑ってください)
自分は、トフラーの著作を思い出しました。
昔、随分はやった本です。
その中で、新時代は、物を所有しない、という時代である、という1節です。

所有意欲、購買意欲から広がって、自己表現を説明するこの「下流社会の本」においては、
未だにステレオタイプな価値観が底流にありそうで、ちょっと、ついていけません。
確かに、日本橋で、働く女性ディーラーをミリオネーゼといった紹介をされ、描く
ライフスタイルも「ハワイで子供をサマースクールに預けて夫婦でゴルフしたい」
と語らせるが、今の時代、この内容にサプライズはない。
とかく我々は、熱狂的にある「ステイタス」をあこがれた時期を過ぎると、
本当にその「情報」はいっきに「デフレ」をおこす。

一方で「デフレ」化したステータスがまとっていた「雰囲気」は、
面白いことに、日本では、安いが、品良くコストがかからない「定着化」が
見て取れる。
何しろ、国を挙げて、均一化を図ろうとする国である。
情報は、あっという間に駆け巡り、一巡する。
間違っても文化なりを説明するつもりは無いのだが、現実的に消費なるものを
ベースにして、「それぞれの層」を解説するのであれば、
見栄も、建前も、あこがれも、ステータスも、あっというまに「情報的に」取得され
あっという間に「できもしないのに」普遍化する、そういう国みたい。

そういう意味からすれば、言われているように、「階層化」が進むのであろうか?
金銭の多寡が、ダイレクトに階層化社会を生んでいくのであろうか?
だめだな、やっぱり、ちゃんと、読まなきゃ。

じゃあ、鉄筋量 1 でぼろぼろの物件はどうなる。

2005年12月16日 | ニュースに絡んで
先日の記事に走り書きをいたしましたが、
どちらかの「違法建築」なんですが、鉄筋の量が「0.8」の建物がテレビで取り上げられて
おりました。
すでに、天井から「雨漏り」が、床は5センチも沈降し、お馴染みのゴルフボールの実験で
ころころ転がるボールが「異様」でした。
もちろん、壁の亀裂は、やばいくらいに走りまくっており、いかにもの「建築物」でございました。

一方、0.3と割合を表示された物件では、まだ、かような事態になっておらず、もしかしたら、
数年内には同じ道を辿るのでしょうか?

報道では、鉄筋の量をことさら取り上げています。
確かに、「法」の中で、鉄筋の量が、構造上の重要事項として、耐震性の根拠となっています。
そういう意味で、「遵守」という観点からすれば、確かに「違法」なんでしょう。
でもね、最近の工法では、鉄筋の量とコンクリの「工法」は、不可分らしく、
鉄筋に頼らない、「工法」で建築されている建物もあるそうです。

さらに言うと、先の0.8の「ボロボロ物件」は、明らかに「鉄筋」ではなく、
すかすかのコンクリート(圧縮されていない)で、それ以前の「完全手抜き施工」です。
というわけで、テレビに取り上げられていた、0.8は、違法プラス手抜き、という
まさにダブルパンチの物件と言っていいでしょう。

何しろ、阪神大震災以前の物件は、ここまでの基準はありませんでした。
さらにいうと、十勝沖地震以前の物件は、となります。
何しろ、国費を投入ということです。洗いざらい調査しろという「過激」な意見も聞こえます。
誰にとっても「高額」な資産です。
まさにパンドラの箱を開けたような「騒動」の幕開けです。

例えば、原子力発電において、マニュアルでは、配管の鉄の厚さ。
決まっております。5センチとか。
ところが、使用年数に応じて、「減って」いくものです。
海外では、当然ながら、その減り具合に応じてリスクのレベルを決めております。
1センチであれば「許容」2センチであれば年数に応じて「警戒」3センチであれば
「交換」などと。
ところが、日本では、全くありません。
よって、事故がおきた時、その配管が2センチ減っていた、という事実に、
何の用意もなく、ひたすら「落ち度」として「謝罪」につながってしまいます。

最近は、車のリコールという制度に、我々はどうやら馴れてきたみたいです。
そして、何等かの「故障」「不具合」といった事態と発表に馴れてきたみたいです。

「悪意」があるものが「犯罪」になるわけで、それ以外で生じた結果は、世間に「公表」する。
以前は、「公表」することが、即、信用問題に直結するとした考えがありました。
隠しますよね。そうなると。
現在は、「公表」することで、逆に、信用が「増す」という考えがどうやら浸透しかかっておるようです。
成熟してきました。

こういう時代になっても尚、逆行している、建築界はまさに「異様」な状態です。
魔女狩りにも似た様の中で、新しい工法など、いくら説明しても、誰も取り合わないでしょう。
あれだけ国土交通省の外郭団体、約70法人がある中で、ひとつも意見を述べたり、
情報を提供しようとしている所は、一切見受けられません。
何をやっているんでしょうか?意味ないですね。

そして、立法を司る国会の委員会で、かような「違法」と「被害を未然に防ぐため」に
今のシステムの「不具合」を調査するために、開かれた場で、
「あなたは、このような建築物に住みたいですか」なんて、聞く議員。
どうか、委員会の意味がわからない議員は、ぜひ辞めてください。
聞くべきことは、再発しないように、どのような立法をすれば良いのかの点です。
どうしてそんな「抜け道」ができてしまったのか、を探る場でしょう。
検察ではないんですから。

0.8でも1.2でも、どうなんでしょう。
本当に、1でも大丈夫なんでしょうか?なにが大丈夫なんでしょうか?
0.5では、何がどうだめなんでしょうか?
施工に関して、どうして、誰も突っ込みをいれないんでしょうか?
1でも、ぼろぼろの建築物なんて、どこを「訴えたら」よいのでしょうか?
だったら、今回は、建築士の責任ですか?