ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第71号、会話と成績

2006年01月15日 | 教育関係
教育の広場、第71号、会話と成績

(2002年03月09日発行)

 (2002年)02月25日付けの朝日新聞はベネッセ教育研究所の或る
調査結果を報じています。

 小学5年生1357人と中学2年生1021人にアンケートした結果を偏
差値別の4グループに分けて比較した所、次のことが分かったとい
うのです。

 小学生で「父母とよく話をする」と答えたのは、テスト成績が最
上位のグループで 91,6%。最下位グループだと 72,2%。中学生は最
上位 69,4%。最下位 56,4%だった。

 「母親が私(子ども)の成績をよく知っている」でも、成績上位
層の方が小中学生とも多かった。

 「ほとんど毎日、家の人に『勉強しなさい』と言われる」と答え
たのは、下位グループが多かった。

 同教育研究所は「親との会話が多い方が、子どもは意欲を持ちや
すい。会話の内容が具体的であるほど、学力に好い影響を与える傾
向がある」と分析している。

 以上が新聞記事です。ここに書かれている事はそれ自体としては
正しいと思いますが、ここにはもう少し考えるべき事が含まれてい
ると思います。

 第1に、上位と下位との比較では以上の分析の通りでしょうが、
中学生を小学生と比較すると、最上位グループでも「父母とよく話
をする」割合が大きく落ち込んでいます。

 これは少し考えただけでも「そうだろうな」と分かるくらい「当
然の事」ですが、高校生から更に大学生になると、この傾向は一層
強まります。こんな事は調査などしなくても、誰も反対しないくら
いの「自明の事」です。

 しかし、これは本当に「当然の事」であり「自明の事」であって
好いのでしょうか。やはり違うのではないでしょうか。子どもの年
齢が高くなれば親子の話し合いといってもその話し合い方は変わっ
てくるでしょうし、話すテーマも変わってくるでしょうが、しかし
「よく話し合わ」なくて好いということにはならないと思います。

どうしたら好いのかを考えるために、もう少し事態を分析してみ
ましょう。直ぐにも思い浮かぶ事は、一般的に言って、母と娘の間
では、父と娘、父と息子の間よりも話し合う事が多いのではないだ
ろうか、ということです。

 私の個人的経験を反省してみても、又看護学校で生徒たちに聞い
てみても、特に女子は年頃になると男親と話をしなくなる場合が多
いようです。これに比べれば、母と息子の会話の方が多いと思いま
す。

 夫と妻の会話の少なさとか会話の内容の貧困といったことも新聞
で取り上げられることがあります。つまり父親と他の家族との関係
が一番問題なのだと思います。

 すると次に、ではこれは日本だけなのか、どこでもそうなのか、
ということです。もしどこでもそうだとすると、これは果して悪い
事、改善するべき事なのかという問題も出てくると思います。

 「子どもは親の背を見て育つ」というではないか、というわけで
す。父親は話などしなくても、行動で語っているのだ、というわけ
です。

 しかし、そう性急に結論を引き出す前に、妻とも息子とも娘とも
「よく話し合っている」父親もいるということも考慮するべきでし
ょう。

 又、話し合う頻度は落ちるかもしれないが、話し合う時の内容の
充実度と時間の長さは増すかもしれません。いや、それによって頻
度の低下を十分に補っていると言える場合もあると思います。

 私にはこれ以上の事は分かりません。どうしたら好いのかも分か
りません。ただ、やはり、対話は無いよりはあった方が好いとは思
います。

 第2に、この「成績と会話の関係」は親子の間だけではなく、先
生と生徒の間でも言えるのではないか、ということです。

 そして、この教師と生徒の間の会話となると、それこそ教師によ
って大きく違いますし、生徒といっても沢山いるわけで、或る生徒
とは好く話をするが他の生徒とはしないといった事もありますから
、一概には言えないでしょう。しかし、やはり統計的な事は言える
のではないでしょうか。

 今は部活での顧問の先生と部員との会話は除きます。授業の不十
分さを部活で補うという先生もいるようですが、これは正道ではな
いと思います。

 一応、授業とホームルームだけで考えます。すると、小学校は担
任がほとんど全部教えるのに中学以降は教科担任制ですから、又比
較が難しいということもあります。

 しかし、やはりここでも全体的な傾向としては、親子の場合と同
じ事が言えるのではないでしょうか。つまり、第1に、小学校→中
学校→高校→大学と生徒が大きくなればなるほど、会話は少なくな
ること、第2に、やはり会話の多い場合の方が生徒の学習意欲は高
まり成績もよくなること、です。

 調査するのはとても難しいでしょうが、こういう調査をしてみた
らどうなるでしょうか。つまり、学級通信を出している回数(頻度
)とクラス全体の成績との関係を調べるのです。更に詳しく調べら
れるならば、その学級通信の内容の充実の度合いも考慮してその関
係を調べるのです。

 教科担任について見るならば、教科通信を出している先生と出し
ていない先生とで生徒の成績がどの程度違うかを調べるのです。あ
るいはレポートに感想を書いて返しているかどうかで調べるので
す。

 私の推定では、やはり出している場合の方が好い結果が出るだろ
うと思います。あるいはこれは学級通信や教科通信そのものの効果
ではなく、そういうものを発行しようとする先生はたいてい熱心な
先生ですから、その先生の熱意の問題なのかもしれません。しかし
、それにしても、学級通信や教科通信自体の効果もゼロではないと
思います。

 第3に、最近かまびすしい「生きる力」とやらを増進するための
方法としてこの話し合いが一番大切なのではないかということです
。この4月から実施される学習指導要領では「総合的な学習」によ
ってそれを増進しようとしているようですが、これについては既に
第37号で私見をまとめました。

 たしかに学力と「生きる力」とは完全には同一ではないでしょう
が、「生きる力」の中心的な要素は学力だと思います。問題はどう
いう学力をどういう風に付けていくかだと思います。そして、その
ための完全無欠な方法がない以上、日頃から話し合うという以上に
好い方法はないと思います。それは親子の話し合いであると同時に
先生と生徒の話し合いだと思います。

 親子の話し合いは各家庭の事ですが、学校での話し合いは教育者
がその対策を建てることで改善できると思います。実際、学校こそ
対話を中心にして運営していかなければならない場であるはずなの
に、実際にはその対話が学校ほど少ない所も珍しいでしょう。

 なぜこうなっているのかと考えてみますと、教員養成の授業の中
でこういう事が教えられていないのではないだろうかと気づきます
。いや、授業の内容だけでなくその形式についても、その養成の授
業そのものが対話を十分に組み込んだ授業になっていないのだと思
います。

 もう少しその原因を考えてみますと、もっとも対話的であるべき
哲学の授業が対話によって進められていないという事実があると思
います。

 私は哲学を専攻した者ですが、振り返って思うに、大学でも大学
院でも、話し合いそのものですらある哲学の勉強の場で、話し合い
がほとんどなかったのではないかと思います。ほとんどが古典の翻
訳で、それも表面的な翻訳だけでした。それは翻訳としても欠点の
多いゼミでした。

 もちろん教科通信の出ている授業やゼミは1つもありませんでし
た。大学院では哲学科の雑誌が年に1回出ていましたが、それはと
ても「学科通信」といえるようなものではなく、話し合いになって
いなかったと思います。1年に1回では少なすぎます。

 第4に触れたい事は、「勉強しろ」と言うことの多い親の子ども
はかえって成績が悪いという事実です。

 「勉強しろ」というのは話し合いでも対話でもなく、説教であり
命令だと思います。これは話し合いの対極にあるものなのでしょう
。対話が学習意欲を高めるとするならば、こういう説教は逆効果で
あることは当然だと思います。

 先生が授業中に生徒にする質問で「分かった?」という質問は愚
劣だと言われています。分かったか否かが分かるような問題を出す
なり質問をするべきなのです。

 この「勉強しろ」という説教も同じように愚劣な言葉だと思いま
す。そういう言葉を口にするのではなく、子どもが勉強したくなる
ような対話をするべきだということなのでしょう。

 最後に、対話が意欲の増進に役立つのは何も子どもだけでなく、
大人でも同じではないかということです。私は会社務めをしたこと
がないのでよく分かりませんが、常識的に推測して、会社の雰囲気
は社員の勤労意欲に影響すると思います。

 しかるに、会社の雰囲気をよくするには「何でも話し合える」よ
うにすることだと思います。家庭でも「何でも話し合える」家庭が
好い家庭だと言われるのと同じだと思います。

 対話を増やして人間関係の摩擦を少なくしたいものです。