小父さんから

ミーハー小父さんの落書き帳

稲尾和久:日経、私の履歴書⑳「野武士たちに敵なし」

2007年11月13日 | スポーツ

 
野武士たちの世が来た。私が20連勝の歩みを続けていた七月から八月にかけ、チームも14連勝するなど、1957年の西鉄(ライオンズ)は飛ばした。南海(ホークス)に7ゲーム差をつけて、パッリーグ連覇を決めた。十月二十六日に幕を開けた巨人との“巌流島決戦”第2ラウンド。その第1戦の先発が黄金期の代表オーダーといっていいだろう。

 一番中堅・高倉照幸、二番遊撃・豊田、三番三塁・中西、四番右翼・大下、五番左翼・関口、六番一塁・河野昭修、七番二塁・仰木彬、八番捕手・和田、そして九番が私。人によっては「一人一派閥」と表現したメンバーである。

 のちに監督、コーチを務めたロッテ、中日など、他チームの内情も見たが、当時の西鉄ほどまとまりのないチームを私は知らない。その代わり、傷をなめ合うという弱い者の習性も見られなかった。なめ合うどころか、チームの中でスキあらば切らん、という競争をしているのだから恐ろしい。

 ある試合で中西さんが頭部めがけてきた投球をもんどりうってよけた。ベンチから「よけるな、当たれ」と叫ぶものがいる。主力でも、ここ一番は身を捨てる覚悟で行けという意味だと思った。すばらしいチーム愛。

 だが、そのゲキは自己愛のためだった。「プロというのはすごいですね」とそのベテランに言うと「何言うとる。アイツの打球を見ろ。ケガせん限り、ワシには出番は回ってこん」。背筋が寒くなった。

 投手陣も同様。西村さんがドロップ、つまり縦に割れるすごいカーブを投げていた。伝授を請うと「いくら出す?」と手を出した。「お金がいるんですか」「当たり前じゃ。これを覚えるのにどれだけつぎ込んだか」と真顔。「僕は給料安いですから」とひきさがった。

 仲良し集団ではなかった。三原監督の褒められ役といわれた中西さんと、しかられ役といわれた豊田さんの間にも少し距離があった。お二人は酒席をともにしないので、同じ日に誘っていただくと、私は大国に挟まれて惑う小国の状態になった。

 その二人がグランドでは磐石のタッグを組むのだから、わからない。先に打席に立つ豊田さんが帰りしな、中西さんの肩を抱くようにして、ひそひそと投手の調子を伝えている。中西さんも気づいたことを惜しまず話していた。同じチームで戦う以上、当たり前かもしれないが、みんなあの二人はどうなっているんだと不思議がっていた。

 チーム内の競争心、葛藤が、いざという時にすさまじいエネルギーとなって外に放出される。西鉄はそんなチームだった。遊び好きといっても、大下さんあたりは午前三時、四時に帰ったと思ったら、もう七時には素振りを始ていた。

 敵に回さずに済んで本当によかったという面々だ。五七年はその個性が存分に発揮された年で中西、大下、関口、豊田、高倉の五選手が打撃ベストテンに名を連ねた。私はリーグ新記録の35勝(6敗)で最多勝、防御率1.37、勝率8割5分4厘のタイトルに、リーグ最優秀選手にも選ばれた。

 余勢を駆った日本シリーズでは4勝1分け。無敗で巨人をしりぞけた。私は第一戦と第三戦で完投勝利を挙げたが、あとは出番が回ってこなかった。

 西鉄が後楽園で連続の日本一に輝いた二日後の十一月三日。神宮の杜に長嶋茂雄選手(立大)が、東京六大学新記録の通算8号本塁打の音をこだませていた。杉浦投手との両輪で春秋連続優勝。私たちに立ちはだかる者たちの胎動が始まっていた。(元西鉄ライオンズ投手)





 少年時代からのあこがれ、稲尾和久さんのご冥福をこころよりお祈り申しあげます。


inao kazuhisa」鉄腕稲尾和久さん急死、突然の悲報へ


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