喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

天井に花をぶつけながら寝入る

2012-08-18 | 我妻俊樹全短歌
天井に花をぶつけながら寝入る一日(ついたち)になるきれいさっぱり  我妻俊樹


「天井に花をぶつけながら寝入る」ことと「一日になる」ことにははたしてどんな関係があるのだろうか。
「寝入る」のだから今が夜である可能性が高く、とすれば寝ている間に日付が変わる、ということが考えられる。
日付が変わると一日(朔日)になる眠りなのである。その眠りの前に、天井に花をぶつけているということである。
なぜそんな行為をしているのか。
そんなことをする理由が一首の中に見あたらなかった場合、理由は歌の外にあると考えるだろう。
「歌の外にある理由」には「現実に作者の経験又は見聞にそういう事実があった」も含まれる。
または「ただの思いつきをそのまま(歌の中に根拠を書き込むことなく)リリースした」ことが考えられる。
いずれにせよ、これらのケースでは読み手の想像の余地あるいは解釈の自由を保証する空間は、作者でもなければ作品の言葉でもなく、短歌定型が用意している。あるいは短歌という制度が用意しているといってもいいかもしれない。

事実であろうと思いつきであろうと、そこに描かれている光景が作品として成立しているかどうかは、作品の言葉の中に根拠が見出せねばならない。
つまり作中でなぜそんなことをしているかという理由は、必ず作品の中に書き込まれていなければならないのである。
それはその作品が「作品の外における事実(思いつき)である」と感じさせることを魅力とするものであっても同じだと思う。
もしなんの根拠も(作品それじたいの言葉には)与えないまま作中の光景を手渡す手段として作品が利用されるなら、それは作者によって作品がないがしろにされていることになる。
作品をないがしろにすることは、作者が作者という立場を放棄することだ。そして短歌はときに「作品」をないがしろにしても易々と成立しているようにみえるジャンルでもある。

掲出歌にもどると、これは恣意的にある光景をえがいて、その光景の解釈を読み手にあずけただけの前述した「作者が作品をないがしろにした」作品のようにも見える。
そうではないのだと積極的に主張することはさまざまな理由によりできないが、いちおうここでは「そうではない」可能性を一点だけ示しておきたい。
それは「一日(ついたち)」という音の中に聞き取れる「ついた」と「たち」がそれぞれ「着いた」と「touch」にずらされたとき、上句で花が天井へぶつけられている光景への反応として読み取れるというものである。
そのことで、ここで眠られようとしている眠りが「一日」を迎える夜のものであることが、歌の外での事実や思いつき以上の根拠を一首の中にかろうじて得られる可能性である。
いいかえれば「一日」を迎える夜の就眠前だからこそ、ここでは天井に花がぶつけられている、いわば「一日」の「ついた(着いた)」と「たち(touch)」を先取りしてそのような行為におよんでいるのだという可能性である。

私はこのようなばかげたものが初めからそこに住み着いていた可能性を作品の中に発見するときのために作品を読んでいるようなところがある。そういう態度は作歌にもあらわれていると思うけど、ここでは自作の読みにそれを意識化してみた。上で指摘したようなことを歌をつくりながら意識していたというわけではない。

煮えたコーヒー親指で舐めながらおまえ

2011-04-13 | 我妻俊樹全短歌
煮えたコーヒー親指で舐めながらおまえまぐれに素晴しい晩年になる  我妻俊樹


最近、といってもここ二年くらいにはなるけど、定型にきっちり収めると(たとえ句跨がりなどあっても)言葉が定型に負けるというか、負けることで結局短歌がそこにあることが見えなくなってしまう、定型ごと埋もれてしまうという感覚がもともとあったとは思うけど、なんとなく強くなってる。例外はもちろんあるけど無視して話を進めると、これはいちおう口語短歌の問題であって、口語は句ごとにエッジが立たないからなんとなく一行の詩というだけに見え、すると31音では微妙に字数も足りなく感じる、ということかと思う。つまり句にあたる単位にエッジをきかせるには五音や七音では足りず、意味的にも31音からこぼれようとする場合、全体に88888をいちおうの上限とする40音マックスを意識した形になるとそれはそれで単調で、いろいろ足したり引いたりまたがったりで崩していってひとつのかたちに収まる、ということを潜在的にやっていきなり即詠で変な形が出てくる、ということがあってそれを私は最近よいこととして受け入れている、ということかもしれない。あえてまったく整理せずに書いてみたが。
この歌はけっこう気に入っている。即詠とはまず作者がいきなり語りかけられる言葉であるように思う。
題詠blog2010、お題「まぐれ」。

彼女は、ばね秤に浅く腰かけ

2011-04-10 | 我妻俊樹全短歌
彼女は、ばね秤に浅く腰かけ針をゆらして本を読んでる  我妻俊樹


「ばね秤」に浅く腰かける、というたぶんほとんどの人が実際に経験したことのない、私もないけど、なぜかその感覚をありありと体で思い浮かべることのできる行為を語っているわけです。で、その感覚を韻律にうつしとりたい、韻律と言葉の関係として経験し直したい、という気持ちが少なくとも上句にはあらわれているんではなかろうか。題詠blog2010、お題「秤」より。

機嫌よく生き延びながらじゃあまたね

2011-04-09 | 我妻俊樹全短歌
機嫌よく生き延びながらじゃあまたねあれは夜寒をわたる狐火  我妻俊樹


はたしてこの歌はあかるいのか暗いのか。このあいだ、自分の歌の中から何か明るくて前向きなところのある歌をさがそうとしたとき、これはあかるいんではないかと思った数少ない歌のひとつがこれだった。だからこれは自分ではあかるい歌のような気がしている。あかるいと暗いにきれいに分けられない歌をもともとつくってるつもりだった(たいして意識はしてないが)けど、明るさと暗さが入りまじることで生まれる明るさ、みたいなものを感じさせる歌も思いのほか少ないようだ、と思ったのだった。そういう歌こそがいい歌なのだ、と考えているわけでは(今のような世の中の状態にあってさえ)全然ないが、いったん意識してしまった偏りは是正する方向につとめるよりほかないであろう。少なくとも、この偏りこそが個性なのだ、というかたちで意識に固定してはろくなことにならない気がする。
題詠blog2010、お題「狐」より。

右側に瀬戸内海をくりかえし

2010-06-04 | 我妻俊樹全短歌
右側に瀬戸内海をくりかえしヒントのように怖れて暮らす  我妻俊樹


瀬戸内海はたぶん一度しか見たことも渡ったこともない(往復は一度と数える)けれど、瀬戸内海のように内側に向けて自らを映しあうような景色は島国の醍醐味ではないかと思います。隙間のような海に細かい島が無数に詰まってる、海の箱庭というか、日本列島の日本列島性があの隙間に合わせ鏡のように濃縮され、あそこからもう一度未知のミニ日本列島誕生が観測されそうな気配です。
短歌は日本列島によく似ている、という説を私は思い出したように時々唱えていますが、われわれ日本列島人の短歌的把握によって列島が被っている歪んだ箱庭宇宙美については、地形をこえた文化的・政治的歪みまで含めた鑑賞態度でいつか深刻に日本一周しながら検証してみたいものだと思います。
題詠blog2009、お題「瀬戸」(未投稿)。

百年で変わる言葉で書くゆえに

2010-06-01 | 我妻俊樹全短歌
百年で変わる言葉で書くゆえに葉書は届く盗まれもせず  我妻俊樹


私は現代の書き言葉としての「口語」で短歌をつくっているわけですが、それがもっとも話し言葉寄りになっている時でも「十年や二十年では意味が分からなくならない言葉」を使うという基準は、ほとんど無意識のうちに守っているようだと思います。
言い換えればそれは「十年前や二十年前には意味が分からなかった(存在しなかった)言葉」を使わないということでもあるんですが、ほんとに全然使ってないという自信があるわけではなくて、絶対に使わないという信念があるわけでもなく、とくに意識しなくてもそういう言葉はたいてい外してしまう。そういうある意味“生きのいい”言葉は原則として自分が「作品」を作るときの眼中にはない、短歌はもとより、小説でもほとんど材料の候補として意識に挙がってこないということですね。
今売りの「短歌研究」の座談会を立ち読みしてきまして、これはすごく面白くて刺激的な座談会なのですが、その中で斉藤斎藤さんの「青空の彫りが深くて変な汗かわかないまま昼休み終る」という歌が解釈されていました。で、この歌の「汗」が労働でかいた汗として読まれてるのを見てあれれと思った。つまり「変な汗」というのは何か怖い目とか危ない目とかにあって冷や汗をかいたことを「変な汗かいた」って表現する、そういうクリシェがあることを踏まえて私はこの歌を読んでたけど、そのクリシェが成立したのってけっこう最近のことだったかもしれない、ということにその時気づいたのです。
「変な汗かいた」はたぶんテレビを通じて一般に広まった使い方だと思いますが、こういう時の「一般」というのは意外と狭いものだというようなことは、普段は意識しないけど、たまに強く意識することがある。短歌にこうした“生きのいい”言葉が使われていることを、読者としての私はいい意味でも悪い意味でもほとんど気にしないけど、たとえば先日ここでも読んだ山中千瀬さんの歌「あれは製紙工場からの煙なんですみんなが上に行く用でなくて」の「動詞+用」みたいな言い方も、話し言葉として広く自然に使われていることを踏まえて読む読者は意外と少ないのかもしれない、ということですね。これが慣用表現だということを踏まえないと読みが大きく変わってしまうというか、たぶん読めないと思うんですどちらの歌も。そこは現代の口語短歌が、文語や古語などに代わって読者に要求することになった一種の教養だと思うわけです。
私は教養がなくて文語や古語がわからないから、自分が作者にまわるときはできるだけあらゆる教養なしで読める歌にしたい、教養というか、歌の外に参照しなければならないものを最小限にとどめたい、という気分があるような気がします。「読みの共同体」みたいなものへの何か生理的嫌悪に近いものがあって、そんなもので読まれるくらいならむしろ誰にも読めない歌になりたい、とまで思っているわけではないけど、読者を差別しない作品というものは存在しないのが前提として、何かを知ってるかどうかという点では差別しないというのが自分が作品を作るときの無意識のルールにあるんだと思う。読者としてはべつにルールにないけど、作者としてはあるわけです。
掲出歌は連作「助からなくちゃ」より。百年後にも読める歌をつくりたいとはたぶん私は思ってなくて、もしそう思ってたら文語でつくってると思う。

「先生、吉田君が風船です」

2010-05-31 | 我妻俊樹全短歌
「先生、吉田君が風船です」椅子の背中にむすばれている  我妻俊樹


連作「水の泡たち」より。元は2004年にニューウェーブ短歌コミュニケーションというイベントで、前年度の歌葉新人賞候補者による公開歌会という出し物がありまして、その歌会に出詠した歌。やはりこのとき出詠してのちに「水の泡たち」に入れた歌がもうひとつあります。


さようならノートの白い部分きみが覗き込むときあおく翳った


なぜそうなったかは全然憶えてませんが、どちらも学校を思わせる風景の歌ですね。二首とも当時かなり自分で気に入ってる歌だった記憶はある。学校が舞台、ということ以外は何もかも対照的な歌だと思い込んでたけど、今あらためて読み返すと「吉田君」と「きみ」の存在のしかたというか、不在のしかたというか、そこが何となく似ているかなという気がする。ノートのページを翳らせる青さとしての「きみ」と、椅子にむすばれた風船としての「吉田君」。影と身代わり。変化と変身。

落葉にぎりつぶす音でもないよりは

2010-05-26 | 我妻俊樹全短歌
落葉にぎりつぶす音でもないよりはましな二人の遊ぶ静寂  我妻俊樹


文学作品では果たして「静寂」を描くことができるのでしょうか。
現実には静寂といっても本当に無音の状態というのはないので、冷蔵庫のモーターのうなりとか、鳥の声とか、自分の内臓の音とか、かすかに何か聞こえてるわけです。だから文学作品が「静寂」を語りつつその語る声自体をその場に響かせ続けてる、という矛盾はそう気にならないのかもしれない。
または、文学作品は黙読されるものなので、そこで語っている声は心内語のようにじっさいには耳に響かないと考えるから矛盾を感じないのか。
以上、この歌とはあまり関係ありませんが。連作「実録・校内滝めぐり」より。



はだかでもスリッパ履いてゆくトイレ

2010-05-24 | 我妻俊樹全短歌
はだかでもスリッパ履いてゆくトイレ 窓のむこうの壁はあかるい  我妻俊樹


たぶん、起こっていることの時間的・空間的な把握としては「はだかのままスリッパだけ履いてトイレに行こうとしたら廊下の(トイレの?)窓から外の建物の壁が見えて、窓から漏れる明かりがそこに当たってあかるかった」みたいなひとつながりの流れで読めるんだけど、それがいくつかの短歌的な歪みにさらされてる。そのノイズにどういう態度を取るかが読みどころになるといいなあ、という歌だと思います。
口語短歌にどうノイズを含ませるか、歪ませるかと考えたとき、口語そのもののノイズ性や歪みを定型が懐ふかく保存してくれる、という期待にはちょっとやばいところがあるなと思う。口語にとっては逆に短歌定型がノイズだし歪みなのであり、口語と短歌はけして分かり合えることはないはずで、両者の関係はだからつねに偽装結婚なのです。と思うから。
題詠blog2008、お題「スリッパ」より。

電報です と車の窓を叩かれて

2010-05-18 | 我妻俊樹全短歌
電報です と車の窓を叩かれて夜明けに気づくうす青い土地  我妻俊樹


題詠blog2006より「報」の題の歌。
自動車というのは一種の部屋ですが、そこに人が訪ねてくることはまずありません。窓が叩かれることがあっても、それはいわば車そのもの、または車が明示している商売等に用件がある人(駐車位置を移動してほしい、乗せてほしい、焼き芋を売ってほしい等)であり、自宅にいる人を訪ねるように人が来ることはないわけです。
だからもし「電報です」の声とともに車の窓が叩かれる、しかも夜明けの時分に、という場面が描かれれば、それは「自宅に(電報ですといって)人が(夜明けに)訪ねてくる」のとくらべてずっと稀なことが起きていると感じられる、ということは前提となります。
でもたとえば「飛んでる飛行機のドアが外から「電報です」とノックされる」みたいなありえなさが、ありえなさすぎてかえって何でもありになって緊張感が失われる、という事態はここでは避けたいわけですね。ファンタジーのほうへ箍を外したくないというか。
場面を特殊さ、ありえなさのほうへ限定していくことと、いったん絞り込まれた可能性がそこからふたたび紐を解いて広がっていこうとすること。その二つの力の関係のバランスが、どれくらいうまくいってるかはともかく、気にかけられている歌だとはいえるでしょう。

「これは幻想です」と呈示されたらそれはもう幻想ではないと思う。「これは現実です」または「これは言葉です」しか短歌には(あるいは短歌に限らず)呈示の仕方はなくて、「幻想」はあくまで「現実」と「言葉」の間に事後的に発生するものでしかないと思う。

よく視える瞳は渇く青空の

2010-05-14 | 我妻俊樹全短歌
よく視える瞳は渇く青空のこまかな疵さえも痛がって  我妻俊樹


人間は奥行きを見つめるとき、そこに自分の内部の奥行きを投影するくせがあると思う。だから奥行きのない表面を見つめると、自分の内部も消えて自分がただの表面になった気がして呼吸が苦しくなる。
空の奥行きは浮かんでいる雲によって測るものなので、雲ひとつない空は奥行きのない空です。その輝く表面ぶりは見つめる私の表面を私そのものにする。つまり空とじかに接している部分である瞳が私の全身にゆきわたることになり、空で起きていることが私の全身を使用してもう一度起きるのです。
題詠blog2008、お題「渇」より。

寒がりのくせに毛布は嫌いだと

2010-05-06 | 我妻俊樹全短歌
寒がりのくせに毛布は嫌いだと 葉巻のように歯を立てる笛  我妻俊樹


連作「案山子!」(『風通し』その1)より。
この歌、とくに下句の意味が取りにくいと『風通し』誌上の合評でいわれてるのですが、一字空けをうまく利用して、読む体勢を立て直すとうまく読めるのでは? と作者からのアドバイスを、過去に向かってテレパシーで送っておきました。

消えてった輪ゴムのあとを自転車で

2010-04-30 | 我妻俊樹全短歌
消えてった輪ゴムのあとを自転車で追うのだ君も女の子なら  我妻俊樹


連作「ペダルは回るよ」(『短歌ヴァーサス』第11号)より。
「輪ゴム」と「自転車」がどっちもゴムを材料(の一部)に持つ「輪」であるということを踏まえたうえで。

●両者がいろいろな点(大きさ、移動距離、等々)で対照的な「輪」であること。
●前者を後者が「追う」という行為は普通は成り立たない(歩いたほうが早い。飛び続けるものじゃないから「追う」に当たらない、等々)ということ。
●その理不尽な命令を「君」が受けとる理由が「女の子」だからであるということ(さらなる理不尽)。
●その理不尽な命令を発してるのは話者、つまりこの歌自身であること。

といったあたりに読んで意識が引っかかるかどうかはともかく。「自転車で輪ゴムを追う女の子」ってなんかよくないですか? ということですね。SFっぽくないですか。

水族館だった建物 あらそって

2010-04-25 | 我妻俊樹全短歌
水族館だった建物 あらそって二階をめざすけむりのように  我妻俊樹


自分の歌とはいえ、書くことはそうないわけです。自分の歌だから書くことがない、というわけではありません。語るべきことは作品にすべて語らせているから何も付け加えることがないです、というタイプの作者では私はたぶんないので、自分の歌もどちらかというと外側から見ている。つまり作品が自分の分身という感じは薄く、いろいろと訳知りの読者といった程度の位置から眺めているのだと思います。
ただ、作者の知っている「訳」などつまらないものだと思う。掲出歌を見ると、そうそう私は建物のことを歌にするのが好きだよね、とか、「けむりのように」っていう直喩は暗に馬鹿ってことをほのめかしてるんだったな。といったことを思い出したり、この年(掲出歌を含む連作は2004年の歌葉候補)あたりが初期の作風のピークだったんじゃないかな、と個人史的な感慨にふけったりするわけですが、こうした頭に浮かぶ諸々は全部で何首かよくわからない、ほとんどはまともに思い出せない自作のひとつひとつにくっきり別な言葉で割り振れるようなものではないわけです。おそらく何十首もの歌から似たようなことしか思い出せない。それは私の記憶力の悪さもあるけど、たぶんそもそも似たようなことしか考えてない頭から出てきたものが、その時ごとの外部の偶然によって違う形に定着しているのが私の短歌なのだと考えられます。
連作「インフェル野」より。

肩に書いたほくろ一つをひからせて

2010-04-21 | 我妻俊樹全短歌
肩に書いたほくろ一つをひからせて西新宿は手を振れる距離  我妻俊樹


ほくろはここでは、本物ではなくて書かれたものだけど、まあふつう書くとしたら黒で書きますよね。それが光っているというわけです。黒い(はずの)ものが光っていると。
黒光り、なんてものがみとめられるにはほくろでは小さすぎる。だからこれは、黒いということと光ってるということの共存、というふつうにはないはずの状態を言ってる、ということは確定できる読みなんじゃないかと思います。
つまりほくろが黒くない(金色とか)または黒なのにインクなどの性質上(例外的に)ほんとに光ってるのか、ほくろそのものが光ってるわけじゃなくほくろの周囲の肌などべつのものが光ってるのをこう言ってるのか、あるいは何も実際は光ってないけど比喩的に「ほくろが光ってる」というふうに言ってるのか。
いずれの読みでも別にかまわない、とはとても言えないと思うんですが、しかしひとつ選んだからほかが跡形もなく消える、というわけにいかないところでこういう表現は成り立つのだと思う。つまりここでは、幽霊はいてもよいという態度がとられてるというか。
題詠blog2009、お題「肩」(未投稿)。