喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

影と作者

2012-05-08 | 短歌について
いろいろなことが過ぎていくが、いろいろなことをいちいち書くには何かが手と頭から欠けており、ひとつも関係ないことを書くかもしれない。
ひとつだけ書くと平岡直子さんの連作タイトルがどれもものすごくいいですよね。「みじかい髪も長い髪も炎」なんてタイトル見ただけでこの人が今どれだけのところにいるかがほとんど風圧のように字面からつたえられてきてしまう。あれだけの作品を(たとえば同連作から挙げると〈心臓と心のあいだにいるはつかねずみがおもしろいほどすぐに死ぬ〉とか〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉とか)出し続けてそこにこれだけ攻めてるタイトルをのせられるというのは、あれほどの作品やこれほどのタイトルそのもののすごさをたんに足しただけでは済まない驚くべきことなのだ。
そしてこれはほとんど妄想めいた想像による見立ての話になるけど、平岡さんはいわゆる天然の天才タイプみたいに言葉が変な重力を持って自律していくタイプとは違って、言葉の見せつける力はそのままつくり手が言葉にかけた体重そのものを方向までふくめてかなり忠実に反映しているように思えてしまう。だから天然タイプの人(もちろん技巧派の人はなおのこと)の言葉が崖からせり出すことが必ずしも作者の身に起きている光景だと思わなくていいようには、作品から作者の影を分けてとらえることはできないように感じられるし、しかも影以上のもの(たとえば私小説的な「歌人」の物語の読み取りをうながす細部など)を作品に描き込まないだけに、この影の立つ場所の地形を一首のうちに感知することが読み手にとって、物語的な共感の制度を挟まない、ほとんど自分の見ている夢のような手さぐりの切実さを帯びるというところがあると思う。
だから、いずれこの作者がどこか平凡な修辞的環境と折り合いをつけた「歌人」めいた表情の豊かさをまとう日がくるとすれば、そのときはほっと安堵するとともにひそかに祝福もしたいような、それともむしろそのときこそ「影」の居場所を失ったような不安が読み手もろとも夢を内側から動揺させるのではといった、複雑な想像を、この夢の地形にうながされることで読み手は身勝手にも巡らせてしまうのだった。


ひとつだけ、が予想外に長くなったので今日はここまでとする。