喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

座布団の上の諦観

2008-08-10 | 短歌について
吉川宏志のことが嫌いな人は(とくに「ネット短歌」周辺には)多いと思うのだが、ここがこうであるから嫌いだということを見事に説得的に言い当ててみせている文章とか発言には、私はまだ出会ったことがないようだ。
というか、そもそも「嫌い」とはっきり述べている人にも会ったことがない気がするのだけど、それはたぶん私が人にあまりにも会わないヒキコモリだからで、みなネットや活字というパブリックな場では品よく言葉を選んでふるまいつつ、実際に会って少々羽目を外す段にいたると、思う存分吉川宏志の悪口を言い合っているのだろう。

もちろん、これはたんなる想像に過ぎない。

さらにいえば、私は吉川氏の歌集や評論集を読んだことがないし、氏の発言などもおもにweb上か店頭での雑誌の立ち読みで目にしているのみであり、私の中の吉川宏志のイメージそのものが大部分想像の産物である可能性さえある。
本当は吉川氏は、歌壇の本流から外れたところにある先鋭的あるいは現代的と一部で看做されている短歌の傾向に対し、ほとんど悪代官的とでもいえそうな、戯画的なまでに底意地の悪い態度を表現する何とも厭らしい人物、などではまるでないのかもしれない。だとすればこれから書くことは空回りした空想によるまったくの的外れということになってしまうのだが、私の中にいる吉川宏志像に忠実に話を続けるとすれば、あの意地の悪さはあきらかに苛立ちの表現であり、その苛立ちがどこからくるのかといえば、けっして吉川氏が単に権威を笠に着た石頭の守旧派であることからなどでないのはいうまでもない。

吉川氏が苛立たねばならないのは、先鋭的な歌人達に対し氏が少なからずシンパシーを覚えているからであろう。だからこそその若者らしい楽天性と無防備さに対し不本意にも苛立たねばならないのだ。おそらく氏は彼らにこう言いたいのである。「わかるよ。君たちは明日が今日と何も変わらず、昨日とさえ瓜二つであるような非文学的な環境に我慢がならないのだ」私の中の吉川氏はここで指先にあった煙草にまるで今気づいたかのように火をつけ、ため息とともに薄いけむりを吐く。「だがね、そもそもの間違いがひとつある。信じられないかもしれないがこれは事実だ。短歌はけして文学などではないのだ……」

つまりここで氏が言いたいのはこういうことである。

短歌というのは、いわば大喜利のようなものである。五七五七七という“お題”を与えられ、その無条件の制限の中で何かうまいことを言ってみせた者が賞賛され尊敬される、そのようなルールに支配された開かれた遊戯の場であるに過ぎない。
このことは誰よりもすぐれた回答を数多く返し、座布団と引き換えてきたこのルールにおける天才である吉川氏のいる高みからは、一目瞭然の事実なのであるが、いまだ座布団を積み上げるに至っていない者たちには、この吉川氏には見えている世界の全体が見渡せない。そのために、単なる大喜利を文学と取り違えるような馬鹿げた錯誤が世にはびこっているのだ。

しかしそれも無理のない話ではある。吉川氏にしてさえ、かつてまだ座布団で塔を築きあげる以前の視界の開けなかった時分には、同じような夢にうかされたことがないとは言いきれない。たったひとつのお題に対する律儀な回答のくりかえしなどという閉塞した回路に身を縛られることなく、現在とか現実とかいったこの回路の外にあるとされる不定形の環境に直接手を触れにいき、それなりに危険な目に遭いながら言葉をつらねてこそ短歌は初めて文学たりうるのではないのか?

仮にそのとおりだとしよう。だがそのときわれわれの短歌は、文学であることへの接近と引き換えに大事な座布団を失うことになる。それは単に大喜利という場における勝者となるのを諦めることを意味するだけではない。そうではないことが身にしみてわかるのは、吉川氏がこの場の勝者であり、誰よりも座布団を積み上げた少数者だからなのである。
つまりその特権的な視界に顕わとなっているのは、この大喜利の地平がきっちり短歌の領土と重なり合っている光景であり、その外へ脱け出すこと、つまり文学とやらに欲を出すことはそのまま短歌であることの放棄、つまりこの平和な大喜利の舞台に居場所を失うとともに結局のところ文学にもなり損ねる、二重の悲惨をしか意味しないという、うっかり繊細な若者の耳に入れれば絶望のあまり首をくくりかねない真相を証し立てる光景である。

したがって吉川氏は、けしてありのままに真実をうっかり口にすることができない。若者たちの無責任な血気をあいまいにやり過ごしながら、自ら信じてもいない文学的な概念を弄びのらりくらりと時間稼ぎをしているように見えるのはそのためである。その態度にいくばくかの苛立ちをつねににじませることこそが、何も知らない若者の脳天気なふるまいを受け止めるにあたって氏の立場から示せる、精一杯の誠実さというべきだろう。
くりかえすがそれはけしてくだらない保身のためや、あるいは単純な蔑みから吉川氏に選ばれた不誠実な態度などではない。もしそうであれば、氏はすでに多くの座布団を持てる者の余裕を誇りこそすれ、少なくとも当分のあいだは床でじかに尻を冷やしていそうに見えるこの大喜利における劣等生であろう若者らを相手に、何ら苛立ちを見せる必要などないのである。

ここに私がなぞってきた吉川宏志的な諦観の輪郭は、あくまで私が雑誌上の吉川氏の発言の記憶をもとに想像をめぐらせたものであり、私の知る限り氏の短歌作品にうかがえる人物像には悪代官的な面影などまるで見あたらず、もしも作品にこそ真に作者のなんら演技の混じらない素顔が映し出されるものだとすれば、そして私の接してきたあまり多いとは言えない吉川氏の作品が氏の作品中で例外に属するものばかり(実際には悪代官的な歌風が大半を占める)ということでもないとすれば、この諦観を導き出した想像の前提そのものが崩れてしまう事になるだろう。
したがってこれは、いまだ私の知り得ない吉川宏志という名のある歌人をめぐる、心もとない探索の道の第一歩として記された手さぐりの記事であることをあらためて断っておかねばなるまい。これを目にした、もしもいまだ私と同じように吉川氏を知りえない読者にあっては、間違ってもここまでに書かれた内容を真実の記事として鵜呑みにせぬことを求めたい。このまぎらわしくも乱れた衣類のような推測の奥にぬくもる生身の吉川宏志の、その未知の素肌にいつか私とともにじかに接する日をもつことを願うばかりである。


参考リンク
吉川宏志の画数 運勢