今年の私はなんと今日までなので何か言い残したいことを書いておこうと思う。
今年をふりかえるのではなくて来年のことをちょっと言っておきたい。
来年は何人かの自分にとって大事な歌人についてもう少し何か核心的なことが言えるようになりたいと思っている。
たとえば私は平岡直子の作品についてはほかの人々より少し多くのことがわかって言えるのではとひそかに信じているところがあるし、斉藤斎藤については個々の作品について言えることは多くないが、作家としての斉藤の仕組みなどにはほかの人たちに少なからぬヒントを与えられるくらいのことは言えるだろうと思い込んでいる。
だがたとえば第一歌集の出版が近いと噂される山崎聡子の作品については、早稲田短歌掲載の連作(「キンダーガーデン・シンドローム」)をほとんど奇跡的な傑作だと思い自分自身も深く影響を受けているのに、分析どころか未だまともにその魅力を伝える言葉さえ持たないままである。また、今年第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』でその全身をあらわした瀬戸夏子については手さぐりでいくつかのことにふれてきてはいて、いずれも意味ある指摘を含むとは思いつつ核心的な部分にふれることをあらかじめ避けることで可能になっている及び腰の言葉になっていないという自信はない。点をつないで線とするにあたり見逃しているというより、見ぬ振りをし触れずにすませてきた点をあんなに残しているじゃないかとうしろめたささえおぼえる。
私は短歌のことを考えることなしには短歌をつくることができないので、今後もつくり続けるかぎり私に影響をあたえ続ける作者に言葉が向かうことを避けては通れない。言葉にできない、ということの幸福の先にあるものもなんらかの意味で幸福であると覚悟して言葉には血を流させねばなるまい。
私は短歌愛はもとよりあらゆる意味での愛にあふれているとはいいがたい人間だが、こうした作者たちが短歌という場所で世界にほとんど身を捧げ尽くしているかに見える瞬間には動揺とともに愛という言葉を思い浮かべずにおれないし、そのとき感応して自らの乏しい愛をふりしぼることをもってこたえずにはいられないと思う。
このような作者の作品の宿る場所としての短歌には、歌壇とか短歌界とかあるいはジャンルとしての短歌さえ視界から一掃したのちになお、そこにとどまるべき理由があるのだと思える。私が短歌とかかわりつづけるとすれば、短歌が豊かであるからでもまたほどよく貧しいからでもなく、短歌への愛があるからでもなく、短歌にしか語らせることのできない世界への愛をこうした作者において目撃したという記憶が新鮮であり続けるからにほかならない。
今年をふりかえるのではなくて来年のことをちょっと言っておきたい。
来年は何人かの自分にとって大事な歌人についてもう少し何か核心的なことが言えるようになりたいと思っている。
たとえば私は平岡直子の作品についてはほかの人々より少し多くのことがわかって言えるのではとひそかに信じているところがあるし、斉藤斎藤については個々の作品について言えることは多くないが、作家としての斉藤の仕組みなどにはほかの人たちに少なからぬヒントを与えられるくらいのことは言えるだろうと思い込んでいる。
だがたとえば第一歌集の出版が近いと噂される山崎聡子の作品については、早稲田短歌掲載の連作(「キンダーガーデン・シンドローム」)をほとんど奇跡的な傑作だと思い自分自身も深く影響を受けているのに、分析どころか未だまともにその魅力を伝える言葉さえ持たないままである。また、今年第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』でその全身をあらわした瀬戸夏子については手さぐりでいくつかのことにふれてきてはいて、いずれも意味ある指摘を含むとは思いつつ核心的な部分にふれることをあらかじめ避けることで可能になっている及び腰の言葉になっていないという自信はない。点をつないで線とするにあたり見逃しているというより、見ぬ振りをし触れずにすませてきた点をあんなに残しているじゃないかとうしろめたささえおぼえる。
私は短歌のことを考えることなしには短歌をつくることができないので、今後もつくり続けるかぎり私に影響をあたえ続ける作者に言葉が向かうことを避けては通れない。言葉にできない、ということの幸福の先にあるものもなんらかの意味で幸福であると覚悟して言葉には血を流させねばなるまい。
私は短歌愛はもとよりあらゆる意味での愛にあふれているとはいいがたい人間だが、こうした作者たちが短歌という場所で世界にほとんど身を捧げ尽くしているかに見える瞬間には動揺とともに愛という言葉を思い浮かべずにおれないし、そのとき感応して自らの乏しい愛をふりしぼることをもってこたえずにはいられないと思う。
このような作者の作品の宿る場所としての短歌には、歌壇とか短歌界とかあるいはジャンルとしての短歌さえ視界から一掃したのちになお、そこにとどまるべき理由があるのだと思える。私が短歌とかかわりつづけるとすれば、短歌が豊かであるからでもまたほどよく貧しいからでもなく、短歌への愛があるからでもなく、短歌にしか語らせることのできない世界への愛をこうした作者において目撃したという記憶が新鮮であり続けるからにほかならない。