喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

物語と短歌の間に

2012-11-16 | 既発表
 第一歌集『砂の降る教室』から八年、石川美南の美しい双児のような歌集『裏島』『離れ島』が刊行された。
『裏島』はストーリー性の高い連作として編まれた作品を中心に、『離れ島』は連作的な文脈から比較的自由な作品を中心に纏められている。前者を代表する作品が「大熊猫夜間歩行」であり、後者は「物語集」にその極限のかたちを現してみせる。この両極をそれぞれ抱える二つの「島」の上に石川美南は同時にいる。

  手品師の右手から出た万国旗がしづかに還りゆく左手よ 『裏島』
  捨ててきた左の腕が地を這つて雨の夜ドアをノックする話 『離れ島』

 石川美南は物語作家である。石川の連作にみられるのは歌人としての歌の構成意識ではない、あるいはそれを軽々と超えたものだ。また石川の一首は今ここを語る言葉が、つねにここにないどこかを語る最初の一行になろうと身を震わせている。そこであくまで二行目への踏み出しをこらえることで物語作家は歌人に踏み留まっている。連作で二行目三行目があとに続くかに見えたら、それは物語のありえたかもしれない別の一行目が語り直されているのである。
 物語の二行目をこらえる石川は当然ながら、作品に自閉した王国を築き上げることはない。物語作家が短歌とともに手に入れた武器である文語や旧かなは、彼女にとって物語の領土を現実から守る城塞ではなく、あくまでここにはない世界への異和と親和をさびしくつたえるためにある。

  壁や床くまなく水びたしにして湯浴みを終ふる夕暮れの王 『離れ島』
  口移しで分け与へたし王国のさみしい領土浅き領海

 この「王国」のさびしさは短歌という「島」の地形が物語にもたらすものだが、それは自画像を描こうとすれば「夕暮王」になってしまう指をもつ者のさびしさを裏側からなぞったものともいえるだろう。歌人と物語作家はコインの裏表のように一体でありながらすれ違っており、石川美南を名乗る存在は二人いる。〈二冊の第二歌集〉の刊行もそれを裏付けているし、「猛暑とサッカー」(『裏島』)の奇妙にすれ違う祖父と孫にこの〈二人〉の影を見ることも可能かもしれないが、詞書が歌と拮抗し、すれ違い、そして感動的な連繋さえみせる「大熊猫夜間歩行」こそ〈二人の石川美南〉を目に確かめるに絶好の大作といえよう。

  縞模様(はた檻模様)描かれゐる路面を今宵しげしげと踏む 『裏島』
  月がビルに隠されたなら遺憾なく発揮せよ迷子の才能を
  夏の夜のわれらうつくし目の下に隈をたたへてほほ笑みあへば

 現実のパンダ(リンリン)の死を踏まえ、死者であり動物であるという二重の意味で言葉から隔てられたこの存在の想像上の脱走を描く連作は、歌も詞書もそれぞれ言葉である自らを恥じるかのように禁欲的である。詞書は動物との間に目撃証言や監視カメラの映像といった間接性を挟み続けようとするし、歌は詞書に示される脱走劇にさらに隠喩的な距離を保つことをやめない。それはまるで、脱走した動物の道行きと交差する一点に明滅しただけの、ゆきずりの者の物語の一行目が歌としてならんだかのようだ。
 だからこそこの禁欲が破れる瞬間は感動的である。連作の掉尾の一首において、言葉はついに物語のためらい続けた本当の〈最初の一行〉を、その後の余白にむけて置き手紙のようにそっと差し出すことになるだろう。
 短歌連作でストーリーを語るという方法のひとつの極限を示す「大熊猫~」に対し、物語が短歌定型に凝縮されて姿を消した空間を集めたかのような「物語集」にはもはや一行目としてさえ「話」そのものは姿をみせることがない。

 「発車時刻を五分ほど過ぎてをりますが」車掌は語る悲恋の話 『離れ島』
  わたしなら必ず書いた、芳一よおまへの耳にぴつたりの話 
  諦めたそばから文字の色褪せて今はすつかり読めない話

 ここで歌が示すのは「話」の手前に架かる橋のみ、つまり物語の本文以前の表題か粗筋に似た言葉である。始まる前に終えることが短歌の物語に対する最大の敬意の示し方だと知る歌人が、ついにその一行目からも撤退したこれらの歌は、しかしほかのどの作品よりも濃厚に物語的である。短歌と物語の間で石川美南の世界は誠実にねじれ続ける。



(初出『歌壇』2011年12月号)