喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

短歌は借りる

2008-04-19 | 短歌について
私はたいてい自分を見失っている。自分が何を為すべきなのかさっぱり分からずにいる。今まで何を為したのかもぼんやりしてよくおぼえてない。
ごくまれに自分自身にピントが合うときがあって、短歌や小説を書くスイッチが入るのもそういう時に限られる。
短歌のいいところはたとえ自分を見失っている状態でも、定型という定位置のようなものがあってそこへいけば何か自分の脳味噌の覚醒ぐあいやエネルギーが底上げされる気がするところだ。
底上げされた位置エネルギーみたいのを使って踏み出してしまえば、そこからだんだん自分自身も調子出していく、みたいなことが短歌はできると思う。
そのかわりいったん覚醒状態に入って止まらない勢いがついても、その勢いの生み出す成果からはつねに三割くらいもっていかれる感がある。
最初に定型が三割貸してくれるかわりに、出来上がったものからも必ず三割差っぴかれるというシステム。
この三割が私にとってはけっこう致命的なもっていかれ方で、脳から刹那的な汁出してどこまで言えるか、みたいなところに勝負をかけてひと息で距離を稼ごうとする私のやり方にとって、その結果の着地点から三割うしろに引き戻されるという体感はかなり痛い。
私は小説を書くとき「別にこれが小説にならなくてもいいや」という気分で書くことも多いけれど、短歌ではそう思うことができない。
たぶんそこで「これが短歌にならなくてもいいや」と思えるなら、この三割の貸し借りからも少し自由になれるのだと思う。
でも短歌はそういうものじゃないような気がしてて、たぶんできないのだ、それは。しっかり三割借りないと不安なのだ。