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日本の人類学者8.三宅宗悦(Muneyoshi MIYAKE)[1905-1944]

2012年06月17日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Muneyoshimiyake

三宅宗悦(Muneyoshi MIYAKE)[1905-1944][角田文衛(1994)『考古学京都学派』、雄山閣出版・口絵1の集合写真より改変して引用](以下、敬称略。)

 三宅宗悦は、1905年3月26日、京都府京都市にて三宅宗淳・男依の4男として生まれました。京都府立第2中学校及び山口高等学校を卒業後、1926年に京都府立医科大学に入学します。山口高等学校で同級生だった、小川五郎[1902-1969]は京都帝国大学文学部史学科に入学し、考古学を専攻しました。この小川五郎を通じて、京都帝国大学文学部の考古学者・濱田耕作[1881-1938]の知遇を得ます。同様に、京都帝国大学医学部病理学教室の清野謙次[1885-1955]や京都帝国大学医学部解剖学教室の金関丈夫[1897-1983]とも顔見知りになりました。

 三宅宗悦は、京都府立医科大学の学生時代の1929年に、須玖岡本遺跡の発掘調査にも参加しています。1930年3月に京都府立医科大学を卒業と同時に母校の副手となりますが、清野謙次の希望により、同年5月23日付けで京都帝国大学医学部病理学教室助手に就任しました。病理学教室では、清野謙次が発掘調査した遺跡出土人骨の整理や計測を行っています。1931年には、旧友小川五郎からの連絡を受け、土井ヶ浜遺跡出土人骨の鑑定も行いました。ただ、三宅宗悦は古墳時代人骨と鑑定しましたが、現在では箱石石棺から出土した弥生時代人骨だと考えられています。ただ、渡来系弥生時代人骨である土井ヶ浜遺跡出土人骨が古墳時代人骨に近い形質を持っているという所見は、基本的に間違いではありません。当時は、保存状態が良い縄文時代人骨・古墳時代人骨・現代人骨との比較が主であり、まだ、弥生時代人骨はあまり出土しておらず、研究は盛んではありませんでした。

 1933年には、京都帝国大学病理学教室講師に昇任し、出土人骨の整理及び計測を継続して行いました。1934年には、アチックミューゼアムによる調査に、渋沢敬三[1896-1963]等と「薩南十島採訪調査」に参加しました。現在、当時撮影された写真の内、中之島のものは神奈川大学日本常民文化研究所によりインターネット上で公開されており、撮影者に、三宅宗悦の名前を確認することができます。この頃から、三宅宗悦の興味は南島に向かったと言われています。

 この頃、戦争の陰が少しずつ忍び寄ってきました。1937年9月13日、三宅宗悦は第16師団(京都)に軍医として召集されてしまいます。しかし、当時、京都帝国大学医学部講師であったためか、即日、帰郷を命じられたそうです。この1937年は、三宅宗悦が医学博士論文を準備していた年でした。やがて、同年12月18日付けで、「病的体質の人類学的研究」により、京都帝国大学から医学博士号を取得しています。

 ところが、翌年の1938年に清野事件と呼ばれる事件が勃発しました。この事件で心労が重なったのか、1937年に京都帝国大学総長に就任していた浜田耕作は、1938年7月25日に死去します。また、清野謙次も京都帝国大学を退職してしまいました。三宅宗悦は、この事件により後ろ盾を失い、1938年3月31日付けで京都帝国大学を辞職し、満州に渡って満州国立中央博物館に籍を置きます。その後、満州国立博物館奉天分館長に就任しましたが、この職も1941年夏に辞職し、京都に戻ります。ここで、悲劇が起きました。京都に帰ってすぐの1941年12月に、再び第16師団に陸軍軍医大尉として召集され、フィリピンのレイテ島に赴任することになったのです。

 このレイテ島赴任中に、東京帝国大学の長谷部言人[1882-1969]に手紙が届いており、『人類学雑誌』第57巻第6号(1942年6月発行)の「雑報」に、”三宅博士比島よりの通信”として紹介されています。「未だネグリト、イゴロットには遭っていないが、所謂フィリピン人のみに接し、指紋を多少集めています。フィリピン大学の人類学教室も見ずに前線にいます。大学には、アメリカ人のバイヤー(ベイヤー)がいて、大学予科では人類学が講義されているとのことで、この点で日本よりも羨ましく思います。私の兵達は人種を知らずに戦い駐留しているのを淋しく思います。(以上、意訳)」とあり、フィリピン島派遣垣第6569部隊三宅隊の隊長であると紹介されています。また、『人類学雑誌』第57巻第10号(1942年10月発行)には、「フィリピン通信」として、「軍務多忙にもかかわらず、時々バイヤー(ベイヤー)教授を訪問して考古学の収集品について研究している。」と紹介されています。

 ちなみに、ここに出てくるバイヤー(ベイヤー)とは、ヘンリー・バイヤー(ベイヤー)(Henry Otley BEYER)[1883-1966]のことです。バイヤー(ベイヤー)は、アメリカのアイオワ州出身で、デンヴァー大学にて化学専攻で卒業後、フィリピンのルソン島でで教師として務めます。ハーヴァード大学大学院で人類学を専攻する内、フィリピン博物館の館長に就任しました。やがて、1914年にはフィリピン大学の人類学講師に就任し、1925年に人類学部長兼教授となります。

 三宅宗悦に、悲劇が起きました。レイテ島に赴任中の、1944年9月27日に夫人の三宅夫規が死去したのです。また、三宅宗悦自身も、1944年11月6日に、夫人の後を追うかのように、39歳で戦死しました。奇しくも、興味を持っていた南島方面での戦死でした。このフィリピンでは、海外全戦没者数約240万人の内、約50万人が戦死しています。

*三宅宗悦に関する文献として、以下のものを参考にしました。

  • 角田文衛(1994)「三宅宗悦博士」『考古学京都学派』(角田文衛編)、雄山閣出版、pp.169-172
  • 寺田和夫(1975)『日本の人類学』、思索社

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