テウク・ヤコブ(Teuku JACOB)[1929-2007][1990年に楢崎修一郎が撮影。Photograph taken by Shuichiro NARASAKI in 1990.]
テウク・ヤコブは、1929年12月6日にインドネシアのスマトラ島アチェ州で生まれました。ヤコブが生まれた当時は、オランダ領東インドだった場所です。
ヤコブは1950年にジャワ島のガジャマダ大学医学部に入学し、1956年に卒業しました。やがて、ヤコブに大きな転機が訪れま。1957年から1960年にかけて、アメリカに留学したのです。1957年から1958年にかけて、アメリカのアリゾナ大学で、また、1958年から1960年にかけてアメリカのハワード大学に留学し人類学を学びます。このハワード大学医学部解剖学教室には、著名な人類学者のウィリアム・モンタギュー・コッブ(William Montague COBB)[1904-1990]が在籍していました。コッブは、アフリカ系アメリカ人で、後に第15代アメリカ自然人類学会会長にも就任しています。アフリカ系で初めて会長でした。このコッブの影響で、ヤコブは人類学を生涯の研究テーマとすることにしたと言われています。
1962年5月、ヤコブは、サンギラン遺跡の調査を行います。当時のインドネシアでは、ジャワ島のトリニール遺跡・ガンドン遺跡が有名でした。しかし、財政事情からガジャマダ大学があるヨクジャカルタから近いサンギラン遺跡を選んだと言われています。このサンギラン遺跡は、戦前、グスタフ・ハインリッヒ・ラルフ・フォン・ケーニヒスワルト(Gustav Heinrich Ralph von KOENIGSWALD)[1902-1982]が調査して、多くの化石人類を発見していた場所でした。
その後、ヤコブはオランダのユトレヒト大学に留学し、グスタフ・ハインリッヒ・ラルフ・フォン・ケーニヒスワルトの指導を受けました。ケーニヒスワルトは、戦前、インドネシアに滞在して多くの人類化石を発見しており、戦後の1948年から1968年にかけてユトレヒト大学の古生物学教授として在籍していたのです。ヤコブは、ケーニヒスワルトの指導の元、1967年に古人類学の分野で博士号を取得しました。
左からテウク・ヤコブ(Teuku Jacob)、フォン・ケーニヒスワルト(von Koenigswald)、ピーター・マークス(Peter Marks)、サルトノ(Sastromidjojo Sartono)[Semah・Semah・Djubiantono(1990)"100"のp.22より引用。]
ヤコブは、サンギラン遺跡やサンブンマチャン遺跡で人類化石を発見しました。ヤコブが発見した主な人類化石は、以下の通りです。
サンギラン遺跡
- 1963年:サンギラン10号(頭蓋冠・左頬骨)
- 1963年:サンギラン11号(遊離歯)
- 1964年:サンギラン13a号(頭蓋骨片)
- 1965年:サンギラン13b(頭蓋骨片)
- 1966年:サンギラン14(頭蓋骨片)
- 1969年:サンギラン15b(上顎骨片)
- 1969年~1970年:サンギラン16(遊離歯)
- 1970年:サンギラン18a(頭蓋骨片)・18b(頭蓋骨片)・19(後頭骨)・20(頭蓋骨片)
- 1975年:サンギラン23(脳の鋳型)
- 1978年:サンギラン26(頭蓋骨片)と27(頭蓋骨片)
サンブンマチャン遺跡
ガジャマダ大学の化石人類収蔵庫にて[左:ファクロエル・アジズ(Fachroel AZIZ)・右:テウク・ヤコブ(Teuku JACOB)][1990年に楢崎修一郎が撮影。Photograph taken by Shuichiro NARASAKI in 1990.]
国際的に、インドネシアの人類化石研究で著名だったテウク・ヤコブは、その後、インドネシアのフローレス島で2004年に発見されたホモ・フロレシエンシスを巡る国際的論争で、さらに有名になりました。この化石人骨を新種だとする研究者に対し、テウク・ヤコブは、小頭症という古病理だとする論文を発表したのです。また、この化石人骨を手元に置いて研究を行いましたが、レプリカを製作する際にオリジナルの人骨が破損したとして批判も受けました。しかし、その批判に対して、インドネシア人研究者をないがしろにし、外国人研究者だけで調査を行うという行為はインドネシア独立前の植民地時代と同じ状況だとして断固として闘います。2007年8月に、ヤコブはガジャマダ大学でホモ・フロレシエンシスに関する国際シンポジウムを開催しました。
しかし、その国際シンポジウム開催後の2007年10月17日、ヤコブは77歳で死去しました。1980年代から煩っていた肝臓の病気が死因でした。この病気のために、ヤコブは日本のある大学病院で手術を受けており、何度か治療のために来日しています。ヤコブは、若い頃、インドネシアの独立運動や旧日本軍に対する戦闘も経験しました。前出のように、その後、ハワード大学医学部に留学した際には、ウィリアム・モンタギュー・コッブの指導を受けています。このコッブは、黒人で初めてアメリカ自然人類学会会長に就任した研究者で、様々な差別と闘っていた研究者でした。ヤコブは、その生き方も師匠のコッブをなぞったのかもしれません。
私は、テウク・ヤコブ先生とは、1990年に初めてインドネシアを調査した時にお目にかかり、その後、2000年までほぼ毎年お会いしていました。その後も来日された際にお会いする機会がありました。非常におとないしい先生だという印象を持っていますが、内には、はかりしれない情熱をひめていたのでしょう。