「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

「みすゞと雅輔」の新たな地平―『みすゞと雅輔』

2018年01月01日 | Yuko Matsumoto, Ms.
☆『みすゞと雅輔』(松本侑子・著、新潮社、2017年)☆

  あと2ヶ月あまりで東日本大震災から丸7年を迎える。幸いにも被災はしなかったが、あの日からしばらくの間、日常の光景が一変したことをいまでも思い出す。テレビ放送も例外ではなく、ニュース以外の多くの番組やCMが休止し、そのかわりにACジャパンのCMが繰り返し流された。そのなかでもとくに印象に残ったのが金子みすゞの詩「こだまでしょうか」をのせたCMだった。たえず余震が続き、原子力災害による放射能汚染も絵空事ではなくなり、脆くも崩れ去った日常の中で、「こだまでしょうか」のフレーズは不思議とこころを落ち着かせてくれた。昭和59年に『金子みすゞ全集』が刊行されるまで、金子みすゞは忘れ去られた存在だったという。不幸にも未曾有の災害がきっかけではあったが、この「こだまでしょうか」によって、金子みすゞの名と彼女の詩(童謡)は、平成の世の人々からさらに注目を集めることになったのは確かだろう。評者もまたその一人だった。
  本書『みすゞと雅輔』は、金子みすゞとその実弟である上山雅輔の生涯を描いた伝記的小説である。著者の松本侑子さんは、日本初の全文訳『赤毛のアン』シリーズでも知られているように、字面の解釈だけではなく、その時代背景や関連するあらゆる人物や事物にも綿密な探りを入れ、あらためて一つの物語世界を構築していく。その手法は実に鮮やかである。近年は『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』『神と語って夢ならず』(文庫版は『島燃ゆ 隠岐騒動』)で実在の人物の生涯を描き、従来の人物像や歴史解釈に新たな光を当てる結果ともなっている。たとえば『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』の読者ならば、巷間伝えられていた山崎富栄像とのちがいに新鮮な驚きを覚えたはずである。古参の松本侑子ファンならば『偽りのマリリン・モンロー』も思い出すかもしれない。本書においても、金子みすゞの自殺について、従来からの解釈に修正を迫っているように思われる。評者は金子みすゞについて多くのことは知らないが、自殺の原因を創作に行き詰ったからとか、一人娘を夫に奪われたからといった説明をどこかで見聞したことがある。しかし、松本侑子さんは一つの原因に収斂させることなく、さまざまな原因が重なった結果と解釈している。これはまた、後世の人間が陥りがちな、悲劇のヒロインとして扱うような安易なロマンチシズムも排しているといえるだろう。事実を曲げることはできないが、一つひとつの事実を丹念に調べ上げ、それらをつなぎ合わせ、そこに作家の想像力を織り込むことで、タペストリーのような物語世界ができあがる。われわれ読者は、できあがった色彩豊かな織物を鑑賞するだけでなく、どのように織り上げられたものかを知ることも大きな楽しみである。松本侑子さんの一連の著作には、その典型を見る思いがする。
  実弟の上山雅輔については本書を読むまで、恥ずかしながら何も知らなかった。だからこそ、ページを繰るのがもどかしかった。姉のみすゞ(本名はテル)とどのように関わっていくのか、この先にどのような展開が待っているのか、ストーリーを追う楽しさを存分に味わった。同時に雅輔(本名は正祐)のこころの軌跡を追う描写には舌を巻く。とりわけ実の姉とは知らずに(知ったあとも)みすゞに抱く思慕の念や、理想を追いながらも遊蕩と改心の間で揺れ動く男心に、自らの若き日のことを重ね合わせた男性読者は少なくないのではないだろうか。他人にはけっして見せられぬ私生活を垣間見られたようで、気恥ずかしささえ覚えてしまう。みすゞの死に際して、みすゞの悲哀と雅輔の懊悩する姿に、滲む涙で頬が濡れた。雅輔の生涯に関連して、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』やトルストイの『復活』などが巧みに引用されていて、彼のこころの陰影がより明瞭に浮かび上がってくるところも見事である。たぶん、みすゞほどには知られていない、雅輔の生涯を世に知らしめてくれたことは明らかである。
  姉みすゞの創作意欲や文学的感性に打ちのめされた弟雅輔だったが、やがて姉と弟の立場は逆転していく。本格的に上京した雅輔は、著名な文壇や芸能関係者の知己となり、そのことはみすゞのこころに憧れだけでなく焦りも与えることとなった。あまりに卑近な例であるかもしれないが、かつての太田裕美の大ヒット曲『木綿のハンカチーフ』の歌詞を思い浮かべてしまった。閑話休題、金子みすゞの詩心を育てた大正デモクラシー、上山雅輔に活躍の場を与えた昭和モダンの時代はやがて、自由闊達を許さず戦意を唱道する時代へと移り変わっていく。戦争の時代への変遷について、松本侑子さんの筆致はやや抑制的に感じないでもない。しかし、みすゞや雅輔(むしろ、テルや正祐というべきかもしれない)、その他の登場人物の立場になってみれば、個々人の与り知らぬところで、時代の波は圧倒的な力で、個々人の人生の舞台を一変させてしまうものなのだろう。そのことを想うと、いまわれわれが生きている時代の舞台も、気づかぬうちに取り返しのつかない舞台へと一変してしまう怖さを感じる。評者の個人的な深読みにすぎないが、本書は書かれるべく時代に書かれたようにも思えてくるのである。本書の元となる調査は2013年から始められたそうだが、雅輔の資料が少なく中断。ところが2014年になって雅輔の「日記」などが見つかり、執筆を再開し完成されたという。松本侑子さんは「雅輔とみすゞから差し伸べられた救いの手に思えた」と末尾の「雅輔の直筆資料について」で記している。これもまた不思議な巡り合わせというべきだろう。
  金子みすゞやその関係者(みすゞを賞賛した西條八十や、みすゞと投稿を競い合った島田忠夫など)の詩(童謡)も、本書には数多く掲載されている。雅輔の生涯に関連した文学作品と同様、たんなる紹介ではなく、ストーリーに添った配置と解釈が施されている。みすゞの詩についていえば、何がしかの感動を与えてくれるものばかりだったが、なかでも「星とたんぽぽ」に最も興味を持った。それは、雅輔の言葉を借りて書かれた以下の一節と同じ思いを共有したからである。
  「みすゞは、人や田園や花鳥風月を遥かに超えて、もっと深遠なものを詠っている。草を生やす大地の力、人や生きものを生かしている自然と宇宙、そのすべてを成りたたせている目に見えない偉大なものを描いているのだ。そこにあるものは、小さな蟻や雀の短い命から、昼間の青空のむこうで億光年の光を放っている星まで永遠はなく、いつかは終わる限りある命を生きている。石ころといった命なきものたちにも永遠はない。そのものたちの宿命と一瞬の輝きを、虫や花や汚れた雪の気持ちにまで寄り添って書いている。甘く愛らしいだけの詩ではない。もっと深く哲学的なものを見通している。」(p.202-p.203)
  金子みすゞの詩(童謡)が、けっしていわゆる子ども向けに書かれたものなどではなく、哲学的な深遠さにまで及ぶことを言及されたことで、みすゞを読む読者の目は、これまでの生命への賛歌といった視点を超えて、さらなる地平を獲得したように思う。『みすゞと雅輔』は、金子みすゞと上山雅輔という姉弟を見る目を、新たな地平へと誘ってくれた画期的な著作といって良いのではないだろうか。
  最後に自らの天文趣味と重ねて蛇足を一言。先頃「金子みすゞ」と命名された小惑星が存在することを初めて知った。ウィキペディアによると発見者(命名者)はみすゞと同じ山口県出身とのことである。

  

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