25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

貴種流離譚

2018年05月27日 | 文学 思想
 今度の図書館での「よもやま話」の課題本は「竹取物語」である。高校生のころ教科書か参考書で知っている程度である。「かぐや姫」という題でお馴染みであり、最近亡くなった高畑勲も「かぐや姫」を題材にしたアニメ映画を作っている。
 このスマホには「青空文庫」という著作権が切れた小説などを読むことができるアプリをダウンロードしてある。「竹取物語」を読んでみた。読んでみて特段におもしろいものでもない、日本での最初の物語と言われている。
 作者は不明だが、反権力者だろうと思える。大納言やら中納言やらがかぐや姫を嫁にほしいと言ってくる。五人の男たちをコケにしている作者の目がある。
 
 またこの話は「貴種流離譚」である。「桃太郎」も同じである。遠いところからやってくる人物、氏素性もわからないが、強く、知恵があり、または美しいものを有り難がってしまう。普遍的にどこにでもあり得る話である。

 この話の逆をぼくは知っている。ぼくは新約聖書「マタイによる福音書」や「マルコのよる福音書」に書かれているイエス・キリストの話を思いだす。
 弟子たちからイエス様の故郷に行こうと言うので、イエスはいくのだが、病気の人達を癒すことができず、つまり奇跡は起こらず、イエスが説法するにも、「あいつは大工の子じゃねえか、兄弟もよく知っている」などと言い、イエスは「故郷や家族、親戚というのは預言者(私)を受け入れない」
と言って出ていってしまう。
 どんなにえらくなっても、どんなに知識を増やしても、えらそうなことを言っても家族には通用しないものだ。
 地方では遠くの学者がきて講演し、ありがたいような話をして帰る。地方に白人の外国人が来ようものなら、「寿司食いねえ」と大歓待するのである。(これが貴種流離譚である)
 イエスのような当時の異端者では故郷もそっぽを向いたことだろう。
 これは貴種流離譚を逆に見たのである、

 「かぐや姫」はその美しさと神秘さからついにミカドから宮に仕えよ、と催促される。物語も極まったところで、貴種はいなくなってしまう。かぐや姫の場合は月に帰るという一大舞台装置が作られている。
 現代の普通の人ならば、有名大学を出た、有名会社で働いていたという幻想の肩書きをもつ人が田舎に移住してきて、物語の極まるところは、その人間もごく普通の人であり、アホでさえあったというオチになることだろう。
 そして相変わらず、家族や親戚、故郷はイエスが言ったとおりだろう。相変わらず外の人を有り難がる。

 


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