25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

生と死の距離

2017年12月30日 | 日記

 病院が休みなので、母親のリハビリをしに行った。大腿四頭筋や腹筋を鍛えるためである。座って脚を上げ、力を込めて下げるときに抵抗を加える。片方を5回し、次の方を5回、これを3セット。息子を連れて行った。母親は苦笑いしながら息子の名前が思い出せず、関係性がわからなかった。ぼくの「孫かな」とも言った。

 母はすこぶる元気で、自分の認知について疑っていない。一方ひ孫の方は先の夏にバーベキューを一緒にしたことを覚えている。どうも、6歳と92.歳とではそうなるのか。

 ぼくは今一番相性が合うの中学生から高校生くらいだとおもう。80歳くらいになると、小学生、もしくは幼稚園児くらいかなと思う。

 今、自分が中学生相手の塾を開けば、一番の物言いができるだろうし、怒ることもテンパることないだろう。英語、数学理科、国語、プログラミングが教えられtらよい。

 尾鷲にはそれを担う塾がないので、ウズウズしているところである。

 さておき、今日の曽根の海は静かに青かった。ところどころで白い、波模様が小さく立っていた。この曽根の海には渡る船もない。不思議な感じになる。尾鷲の家に帰れば、DVD映画がある。そこには「猿の惑星」も「エイリアン3」もいる。そして暇をもてあまして、脳を刺激したいと思う。これが卑しいとも思う。

 孫娘はすくすくと育っているが、しっかりとぼくらの会話を聞いている。あくまで孫娘は自分本位で動いているように思えるが、耳を立てて聞いている。それが刻印される。

 孫娘はぼくの母との今日の面談を覚えているかもしれない。だが、母はきっと何も覚えていないだろう。記憶を閉じる母と記憶を開けて吸収していく孫娘。これは大変な人生哲学である。生と死の問題がわずかの距離にあるのだ。



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